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June.2012.6
楽しい同居はドブネズミと雌鶏 2012年06月27日 ミュージシャンのKさんは動物好きだ。 それも犬とか猫ではなく、普通は家で飼わない動物を飼っている。 今はすでにその動物たちは、寿命が来てこの世にはいないのだが・・・・・・。 すでに10年ぐらい前の話であろうか? 新宿にぶらりと出かけた黄昏時、新大久保辺りを歩いていると、店の前に置かれたバケツがゴソゴソと音がする。 見ると中に小さなドブネズミが、苦しそうに喘いでいた。 Kさんはドブネズミを掌に乗せると、嬉しそうな顔に変わったそうである。 Kさんはそのままドブネズミをポケットに入れ、家へ持ち帰った。 それ以来、ドブネズミはKさんの家の住人になった。 ドブネズミはKさん夫婦の愛情を注がれ、大きく元気に育った。 だがそこはもともとがドブネズミ、テレビやパソコンのコードをガリガリと齧る。 だがKさん夫婦は叱ることもなく、自由に部屋の中で放し飼いにしていた。 だがドブネズミの寿命は4年。 Kさん夫婦に懐いたドブネズミは、4年の寿命を全うして永眠した。 そのドブネズミを飼う前に、Kさん夫婦は牝鶏を部屋に飼っていた。 ある祭りの日、縁日の露店で、小さなヒヨコを買った。 そのヒヨコは成長し大きくなった。 すると雄鶏と思っていたはずが、或る日のこと、大きな卵を産み落とした。 Kさんたちは驚いた! それ以来、毎日、卵を1つずつ産み落とし、Kさんたちの食事を楽しませてくれた。 部屋の中に飼っているのだが、朝や夕なに大きな鶏声を上げることもない。 やがてドブネズミ君が闖入し、Kさん夫婦の下で、共に暮らすことになった。 ドブネズミと雌鶏は威嚇し合うこともなく、平和な日々を過ごした。 だがその楽しい共同生活は終わる。 ある朝のこと、雌鶏の息は既に絶え、帰らぬ鶏となっていた。 すでに死んでいるのだが、Kさんの奥さんは、突然の死に納得が出来ない。 そこで近くの獣医へ、雌鶏を運んで診てもらった。 診察の結果、死因はカルシウム不足で、卵が身体に詰まってしまったのであろうということであった。 だが不意の死に直面した奥さんは、まだ死を受け止められないでいた。 すると獣医さんが、解剖しましょうかと、Kさんの奥さんへ言った。 さすがに解剖は余りにも残酷、Kさんたちは雌鶏を抱いて家路に着いた。 それから暫くしてドブネズミも死に、Kさんの家に今は何もいない。 だがKさんたちに育てられ成長し、寿命を全うした動物たちは、幸せであったであろう。 |
「小さな旅&日記」を更新 2012年06月23日 埼玉県久喜市 「 あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバル」を訪ねて |
村上春樹は永遠に、ニヤニヤ顔の春樹ちゃんなのである 2012年06月20日 先日、かつての芝居仲間のTさんが、久しぶりに来店してくれた。 近くで芝居を観た帰りに、立ち寄ってくれたのだ。 彼は昔からバーボンが好きだった。 私はエライジャ・クレイグ12年のオンザロックを造って、Tさんに出して差し上げた。 私は演劇を離れて、37年ほどの歳月が流れる。 だがTさんは今でも、舞台俳優一筋で、劇団の屋台骨を支えている。 この前のTさんの公演の時のパンフレットに、Tさんの村上春樹への思い出が書いてあった。 そこで私はTさんに聞いてみた。 「村上春樹とは中学生の時の同級生?」 「いや、春樹ちゃんは1年下の学級で、小学校と中学で一緒なの。家は共に西宮の芦屋で、100メートルの近所だった」 Tさんと村上春樹は同じ塾へ通い、何時も隣の席であったそうだ。 「春樹ちゃんは何時もニヤニヤしていたので、時々脅かしたよ」 その後、Tさんは私立の進学校へ進み、村上春樹は公立の進学校へ入学した。 高校生になったTさん、偶然にも村上春樹のお父さんに、国語を教わることになった。 お父さんは名物国語教師で、源氏物語の解釈には、定評があったと言う。 Tさんは早稲田大学に進学。 或る日のこと、早稲田大学構内でビラを撒いている時、T君! と後ろから肩を叩く人がいた。 振り向けば、村上春樹の両親が立っていた。 「春樹が今年早稲田大学に、入学するのでよろしく」と挨拶をされた。 だが、Tさんと村上春樹は、その後、2度と再会することはなかった。 Tさんの中では、世界的な作家となった村上春樹も、今もなおニヤニヤ顔の春樹ちゃんのままである。 Tさんにとって、大作家村上春樹は、永遠に春樹ちゃんなのである。 |
「小さな旅&日記」を更新 2012年06月15日 埼玉県東松山市「玉川菖蒲園」を訪ねて |
78歳は早死に? 2012年06月12日 今週の日曜日、埼玉県東松山まで、菖蒲を見に出かけた。 その帰り道、日帰り温泉へ立ち寄る。 地下1,200mの温泉脈から汲みあげられた天然温泉は、清澄で柔らかく優しかった。 少し温めの源泉野天風呂へ入る。 すると爽やかな風が吹きわたり、露天風呂を包む竹藪が、さわさわと心地よい音を響かせる。 野天風呂を出て、炭酸風呂へ行く。 丸い小さな石造りの風呂は、8人位でいっぱいの広さだ。 すでに6人程の先客がいた。 風呂に瞑目しながら浸かる。 時折、目を開け身体を見ると、手や足に炭酸の粒がびっしりとついていた。 手で手足を擦ると、炭酸の粒々が弾け、ぷつぷつと立ち上り、湯面でしゅわッと消える。 炭酸風呂は血管を拡張し、高血圧や心臓病にも効能があるらしい。 のんびりゆったり、炭酸風呂は気持ちよい。 何処の日帰り温泉でも、炭酸風呂は人気があり、何時でも混雑している。 風呂に肩まで浸かり、どの顔も癒しの表情を浮かべている。 すると年配の男の人が3人、風呂に浸かりながら話し始めた。 多分地元の人たちなのであろう、言葉に少し訛りがある。 「Nさん、お宅の友達だろう、亡くなったそうだね?」 「1週間くらい前には、何時ものように、遊びに来たんだけどね」 「病気だったの?」 「いや、脳梗塞」 「そうなんだ、幾つだったの?」 「78歳だと思うよ」 「そうか、今の時代、それは早死にだな」 私は78歳と聞いて、はッと思った。 78歳で早死に? 大往生とは言えないまでも、78歳なら充分に、寿命を全うしていると思うのだが・・・・・・。 3人にとっての大往生とは、いったい何歳なのであろうか? |
「小さな旅&日記」を更新 2012年06月09日 「両国で観劇、そして浅草まで散歩」 |
6月の花、紫陽花の名前は何時、誰が? 2012年06月05日 6月になった。 いよいよ本格的な夏がやって来る。 21日は暦の上では、真夏の夏至である。 6月に入ってまだ、夏の強い日射しもなく、梅雨入り宣言もない。 季節の雨が降らないと、それなりに寂しく、6月だと言うのに、夜になるとまだまだ肌寒い。 電力不足が喧伝される今年の夏は、猛暑だけは避けて貰いたい。 すでには田植えも終わり、水田には稲の若青が、吹きわたる風にそよぎ、水面に影を映している。 6月は紫陽花の季節。 ひっそりと木陰に潜むように、楚々として青紫に咲いている。 6月のしみじみと降る雨に濡れて、青紫の花に風趣が漂う。 雨が止み、垂れ込めた厚い雲の切れ間から、強い陽光が射しこみ紫陽花を照らす。 その瞬間、雨の滴が落とした玉露は瑞々しく、鮮烈な色彩で耀く。 紫陽花は日本原産の花。 江戸時代にオランダ商館の一員として来日した、ドイツ人・シーボルトは、ヨーロッパへ、精確な絵と共に紹介した。 医師にして博物学者のシーボルトは、この日本の花・紫陽花をこよなく愛したという。 そして帰国後、「日本植物誌」を著し、 紫陽花をHydrangea otaksa Siebold et Zuccariniと命名した。 ちなみにotaksa(オタクサ) とは、シーボルトが日本で結婚した妻、お滝さん(楠本滝)を意味するのではないかとも言われる。 英語では「ハイドレインジア( Hydrangea)」で、意味は「水の容器」で学名にもなっている。 だがこの花の名・紫陽花は、果たして何時、誰が付けたのであろうか? どうやら唐代の中国へ、日本から紫陽花は渡り、中国の白楽天(772-846)が、七言絶句「紫陽花」の序で詠ったのが最初であるらしい。 その名前が日本へ逆輸入され、紫陽花となったという歴史の偶然は愉しい。 |