小さな旅&日記を更新
秩父「梵の湯」&「吉田ホタルの郷」を訪ねて
2010年6月30日
小さな旅&日記を更新
小諸懐古園を訪ねて
2010年6月26日
睡眠と記憶 2010年6月23日 人間は太陽が出るとともに働き、夜の帳が下りれば、床に入るのが自然なのだろう。 そして、しっかりと睡眠をとる。 それにしても、私の商売がら、自然の摂理とはまったく逆の、不健康極まりない生活をしている。 だが、不健康なりに、生活が固定しているから、まだよいのだろう。 人間、睡眠をとることは、いろいろな意味において重要なことである。 人間は睡眠をとっている間にも、脳は活動し、様々な記憶を整理・固定してくれる。 アメリカの高校生の統計で、早寝早起きの生徒に、学業の優秀な子供が多かったそうだ。 一般的に、その効果は、レム睡眠を適度にとっていることによるらしい。 人間は、睡眠をとることにより、自動的に、必要でないものを忘れさせてくれる。 そこが人間の凄いところだろう。 コンピューターは、一度記憶したものは、絶対に忘れない。 記憶を消すためには、削除というステップを踏まなければならない。 削除しなければ、コンピューターの容量がいっぱいになりパンクする。 しかし、人間は、パンクする前に、スムーズに、余計な物を、自動的に整理・削除してくれる。 深酒をして、他人に迷惑を掛けたような時、先日の事はすっかり忘れて、愉しかった記憶だけが残る。 だが、そこに居合わせた妻は、嫌な記憶を、しっかりと伝え、無慈悲にも、思い起こしたくない記憶を蘇らせてくれる。 年をとると、かつての愉しかった記憶だけが、脳裏に浮かび上がる。 きっと、悲しく苦しい記憶を、人間の脳が、忘却の深淵の中に、投げ入れてくれるのだろう。 だが、生死の淵を彷徨うほどに、耐えがたい体験は、人間の心に、残酷にも鮮烈な記憶を刻む。 出来ることならば、そんな記憶を持つこともなく、残りの人生を生きたいものだ。 |
マドンナは永遠なり! 2010年6月19日 ある日の事、早い時間に、熟年世代の男女が来店した。 男性は10年前に、来店していて、今日で2回目だと言っていた。 2人はバーボンの水割りをオーダーする。 私は、エライジャ・クレイグ12年の水割りを、作って差し上げた。 やがて、男性が私に語った。 「彼女は私の中学時代の同級生。今日、久しぶりに再会したんです」 彼女と最初に出会ったのは、中学時代、近くにあった学習塾だった。 その時、一目見て、彼女を好きになったそうだ。 だが、言葉を交わす程には、親しくはなれながった。 そして、偶然にも、中学で同じクラスの同級生になった。 そして、今でも、4年に1度、オリンピックの年に、同級会を開いているという。 だが、彼は、仕事の都合などで、なかなか出席出来ないでいた。 そして、今日、2人は再会したのだった。 彼が、かつての彼女の話をする時、黒い瞳が潤み、顔には笑みがこぼれる。 その時、彼の脳裏には、かつての彼女の姿が、彷彿と蘇るのだろう。 彼にとって、彼女は永遠のマドンナなのだ。 彼は、彼女に、次回会う約束をしている。 しかし、彼女は、次は、年内の冬頃と言った。 だが、彼には、冬では長すぎる。 せめて、秋にと、女性に、純真な子供のように哀願した。 そして、再会は紅葉の頃に決まった。 だが、彼には、秋はとてもとても遠い。 女性は、「もう夏だから、秋はすぐに来るわ」とつれない。 かつての中学の同級生も、今はすでに50歳。 だが、2人が再会した瞬間、かつて、共有した青春が、瞬時に鮮烈に光り輝く。 その青春の記憶は、美しい光彩を放つ。。 そして、彼の心の中に、マドンナは永遠に輝き続ける。 |
夕立ち、間一髪でセーフ 2010年6月16日 東北北部も今日から梅雨入宣言、明日はさらに、梅雨前線が北上する今日この頃。 初夏の風も爽やかな季節、夕食前、なるべく時間をつくって、自転車で散歩をしている。 今日はJR板橋方面に出かけてみた。 しばらく来ないと街並みも変わる。 お客様に紹介されたお店を発見すると、何故か新鮮な驚きと、小さな感動さえおぼえる。 時間が許されるものなら、入ってみたいものだが、仕事前に一杯も出来ない相談。 さらに、当てもなく回遊すれば、昔ながらの古本屋さんも健在だった。 あの古本屋さんの主人は、いまでも元気に、店番をしているだろうか? 暇な時でも覗いてみよう。 そろそろ、私の夕食の時間も近づいた。 空を見上げれば、かなり黒雲が広がり、風雲急を告げる、夕立ちの気配が漂う。 だが、まだ、夕立ちには時間の余裕もありそうだ。 帰り道、私の店の近くで夕食をとる。 食事を終え、お茶を飲みながら、外を眺めやれば、傘を差す人、差さぬ人が道を歩いている。 どうやら、ぽつぽつと、雨が降って来たようだ。 店を出てみれば、空には黒雲が重く厚く広がっていた。 道路は雨に濡れ始め、雨がぽとぽとと落ちてきている。 自転車に乗って、帰路を急げば、雨脚が強くなってきている。 危なくないほどにスピードをあげ、自転車をこげば店に到着。 その時、時間は5時45分頃、雨脚は一気に激しく降り落ちてきた。 道は一瞬、溢れ流れる暴れ川に変わった。 梅雨入りの季節、これからは、もっともっと激しい夕立ちも多くなるだろう。 それにしても、間一髪、濡れ鼠にならずにすんだ小さな幸運。 きっと今日一日、良い日になることを期待しよう。 |
さて、入院費用は幾らに? 2010年06月14日 アジサイの花も匂いはじめ、梅雨入り間近の昨日、築地明石町まで出かけた。
私の友人のNさんが、崖から落ちて大怪我、聖路加病院に入院しているので、そのお見舞にいった。 隅田川に掛る勝鬨橋と目と鼻の先に、薄桃色に聳える病院はあった。 地下の駐車場に車を停め、6階の病室に向かった。 病院の中は、想像していた程に豪華ではなかった。 エレベーターで上り、病室へ。 扉に丸く切られたガラス窓を覗けば、中にはすでに来訪者がいた。 少し躊躇をしたが、何時、来訪者が出てくるかも分からないので、ドアをノックした。 すると、その音を聞いたNさんが、こちらを向いた。 私の目とNさんの目が合い、どうぞと笑顔に満ちた目で、合図を送って来た。 私たちは中に入ると、男性の来訪者は知っている人だった。 すると、Nさん、もう1人の若い女性を紹介してくれた。 先日、病室からの電話で、何か必要な物を聞いたので、その品々を冷蔵庫と戸棚に閉まった。 病院の食事の味が薄いということなので、お醤油、塩、梅干し、ふりかけ、そして、スウィーツを持っていったのだ。 すでに、誰かが持ってきたのだろう、スウィーツと梅干しは、冷蔵庫に収納されていた。 やがて、2人の見舞客は、私たちに挨拶をして、退出した。 Nさんの胴から胸にかけて、鎧のように頑丈そうなコルセットが巻きついている。 そして、足もゴムのようなもので、サポートされていた。 怪我した足が化膿して、その毒が身体に回らないようにしているそうだ。 まったく、身体の自由は効かず、手と口と目が使えるだけの過酷さ。 毎日、新聞が3紙、午前3時15分に病室に届く。 そして、新聞を読み終わると、テレビ番組を見て、今日1日、見る予定のテレビ番組に、赤インクでしるしを付ける。 ベットの前には、大きな液晶テレビが置いてある。 BSでも何でも視聴出来るそうだ。 入院して、すでに、1ヶ月近くになる。 病室の毎日は退屈そうだ。 広くとられた一面の大きなガラス窓の向こうには、隅田川が見える。 外が暗くなれば、時折、川を行き来する遊覧船が、情緒を醸し出す。 聖路加病院は、全て個室、入院費用がとても高いと聞いている。 すでに支払い済みの領収書を見れば、10日間で48万円とあった。 入院は1日4万円也。 Nさんは、空きが出たら、さらに景色のよいところに引っ越す予定だと言う。 さらに治療費用は嵩む。 すると、Nさん、「この入院費用位は、別に稼がないとね」 そこがNさんの偉いところ、どんな時にも、ノー天気に前向きだ。 「明日から、秘書がやって来ます。出版社とは、既に契約しました。さっそく、次の本の執筆を始めます」 Nさんは、字を書くのも不自由のはず。 秘書への口述筆記になるのだろう。 それにしても、退院まで、最低でも、あと2ヶ月以上はかかるだろう。 脊髄の骨が5本も折れていたのだから。 早い回復を、陰ながら祈るだけだが、それにしても、入院費用は幾らになるのだろうか? 人ごとながら、貧乏人は、ついつい計算をしてしまう。 Nさんの、早い完治と退院を、心からお祈りいたします。 |
呑みすぎ親父の鮨屋のお話 2010年6月8日 何年前の話だろうか? 私の店からさほど遠くないところにあった、鮨屋さんのお話。 或る日の事、私のお店のお客様が、近くの鮨屋さんへ初めて入ったそうだ。 そして、カウンターの止まり木に座り、日本酒を飲みながら、酒の肴と鮨を注文する。 親父さんは、注文されたものを、言葉もすくなに造り、お客様の前に出す。 その合間に、右手で、湯呑のお茶を、ぐびりぐびりと呑んでいた。 そして、注文の鮨を食べながら、親父さんを見やれば、なんと、身体が少しづつ揺れているではないか。 「親父さん、湯呑の中、それ、ひょっとしたら、お酒じゃないの?」 小柄な親父さんは、無言で頷いた。 そして、はたと気がついた。 親父さんの背中には、大きな看板があり、「親父さんはアル中です。肝臓も悪いです。お酒を飲ませないでください」と。 この話を、先週の土曜日に来たお客様に話した。 すると、そのお客様は、話題の鮨屋さんをよく知っていた。 マグナムと言って、マグロと納豆の軍艦巻きが美味しかったと。 アル中になる前は、かなり繁盛していたお店だったようだ。 そして、娘婿がお店を手伝うようになり、調理台も、娘婿の背丈に合わせて、高く改造した。 だから、背の低い親父さんは、台の上に乗って仕事をした。 だが、何があったのか、或る日の事、娘婿はお店にいなくなっていた。 やがて、店を手伝っていた奥さんも、姿を見せなくなった。 その頃から、親父さんは、酒を呑むようなったようだ。 風の便りによれば、親父さんは肝硬変で亡くなったという。 かつて、繁盛店だった頃、親父さんは、なかなか、器量のある鮨職人で、人気もあったらしい。 だから、親父を見かねた、鮨屋さんの近くの看板屋さんが、ボランティアで作ったのが、例の看板だった。 人間なんて、誰しもさほど強い存在だとは思わない。 親父さんに何があったのか、私には知る由もない。 だが、それほどになってしまった親父さんを、何時までも、支え続けてくれる常連客の人情も嬉しい。 だが、人の人生は一度限り。 黙っていても、何時かは間違いなく、天国からお迎えに来る。 酒好きの私にも言えることだが、自分の人生を無駄にするほどに、お酒に呑まれてはいけないだろう。 お客様が言うには、湯呑の中のお酒は、日本酒ではなく、焼酎だったそうだ。 |
勇気のいるバー 2010年6月2日 昨日の12時頃、Kさん夫妻が、お友達の女性と3人で来店した。 Kさん夫妻は、バーボン・ウイスキーのブッカーズのロック、お友達の女性には、イアタリアン・スクリュードライバーを作って差し上げた。 イタリアを代表するアマレットのオレンジジュース割である。 しばらくして、Kさんと私のお店との出会いを、Kさんは懐かしそうに、お友達の女性に語り始めた。 考えてみれば、すでに、20年前の話になる。 その頃、彼はW大学の学生で、なおかつ、ライト級のプロボクサーでもあった。 そして、彼は私の店の前にあるマンションに、兄と共に住んでいた。 兄もボクシングジムに通って、やがて、プロボクサーとしてリングに上がった。 その兄弟は、毎日、私の店の前を通り、大学に通っていた。 通るたびに、私の店が気になり、何時かこの扉を開けて、中に入ってみたいと。 ところが、なかなか、店の扉の摩訶不思議な魔力に押しのけられ、扉を開けることができないでいた。 そんな折、或る日の事、兄弟の下へ、またもや、現役ボクサーが遊びにやって来た。 そこで衆議一決、3人で、初めて、勇気を出して、私の店の扉を開けた。 ボクサー3人ならば、万が一、どんなに怖いバーテンダーがやっていようとも、3人がかりならば、負けることはないだろうと。 だが、店に入ってみれば、予想に反して、ジェントルなマスターと優しいママが、仲良く2人でやっている、アットホームなお店だった。 それ以来、20年もの長いお付き合いになった。 その頃は、勿論、3人とも独身だったが、今は皆、結婚をしている。 |
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