sibaraku



両国で観劇、そして浅草まで散策
2012年05月13日(日)

このところ、ギィ・フォワシィ・シアターの芝居を観ていない。
先日、主催者の谷さんから電話があり、日曜日に観に行くと約束をした。
仕事柄、マチネの2時開演は辛いのだが、最近は深酒が少なくなったせいか、昔ほどではなくなった。

そのことを店のお客さまに言えば、「マスター、それは歳をとったということですよ」と。
深酒をしなくなったのも、昔ほど飲めなくなったと言うことなのであろう。
何事もうまい具合に、歳が解決してくれると言うことなのか。

歳をとれば、酒量も自然と減るのである。
1時頃に目を覚まし、朝刊を読み、体操をして、12時前に家を出る。
東武練馬まで車で送ってもらい、池袋で乗り換え、山の手線で秋葉原まで行き、総武線に乗り換え両国駅へ。

私にしてはちょっとした旅行気分。
総武線に乗ることは滅多になく、隅田川を渡るときは、何の変哲もない川筋に、情趣さえ感じてしまう。
家を出てから、1時間
15分程で両国に到着した。

久しぶりの両国、前回、シアターxに、ギィ・フォワシィ・シアターの芝居を観に来て以来だ。
駅を降りると、眩い位に陽光が降り注いでいた。
駅の周りには、浴衣姿のお相撲さんが、雪駄を履き歩いている。

相撲の町・両国には、お相撲さんが似合う。
すれ違いざま、お相撲さんの髷の鬢付け油が、そこはかとなく移香が、妖艶な匂いを残して行く。
それはまさに日本の伝統の匂いであり、江戸時代へ誘う香りであった。

早出のお陰で時間に余裕がある。
ぶらりと散歩気分で、国技館の前に歩いてゆく。
すると大相撲夏場所の入場券を求める長い列が出来ていた。

そしてそこで引きかえし、両国駅の前を通り過ぎ、真っすぐとシアターXへ向かった。
劇場の隣には、回向院がある。
3分ほど歩くと回向院に着いた。

山門を潜り参道を進むと、左手に相撲塚が建ち、かつて土俵で活躍した力士や年寄りの霊を祀っていた
江戸時代から明治にかけて、回向院では勧進相撲が行われた歴史を持ち、昭和11年に大日本相撲協会が建立したものであった。
勧進相撲とは公共社会事業のために開催された、資金集めのための相撲興行であった。

その勧進相撲は明和五年(1768)の回向院境内に始まり、天保四年(1833)に春秋の2回興業であった。
くだってが明治42年の旧両国国技館が、この地に完成し、76年間に上る回向院相撲の時代は幕を閉じた。
さらに参道を進むと正面に本堂があった。

中で法要があるのであろうか、黒い喪服の人々が、堂の中へ消えてゆく。
本堂の中には御本尊阿弥陀如来が安置されている。
回向院の歴史を繙けば、明暦3年(1657年)に起源をもつ。

この年は 振袖火事とも呼ばれる明暦の大火が起こり、江戸府内11万人近い焼死者が出た。
その時の将軍、徳川家綱は犠牲になった、身元や身寄り不明の亡骸を篤く葬り、この地に「万人塚」を設ける。
そして無縁仏の冥福を祈る御堂が建てられたのである。

やがて江戸三十三箇所観音霊場の第4番札所にもり、江戸中期には参詣札所として、大変な賑わいをみせ、境内は参詣人で溢れた。
さらに全国にある有名寺社の秘仏などが開帳され、夥しい参拝の人たちで埋め尽くされたと言う。
そして江戸後期になり、勧進相撲興行が始まり、「回向院相撲」となって、江戸市中へ娯楽を提供した。

それと同時にこの寺は、水死者や焼死者、さらに断罪されて刑死した無縁仏も埋葬する。
さらに現在に至り、動物など生あるもの全てをも供養している。
本堂を正面に見て左に折れる墓所への道すがら、右手に鼠小僧次郎吉のお墓があった。

江戸時代、刑場の露路と消えた罪人は、墓を造ることは禁じられていたそうだが、墓は立派なものであった。
墓への短い参道を進むと、正面に鎮座していた。
様々な芝居や語り物になった鼠小僧次郎吉は、今でも人気者なのであろう。

お墓を訪れる者は後を絶たない。
見れば、大きな墓石の前に、小ぶりな石が置かれている。
その石は削り落された跡が、無残に残っていた。

嘘か真か、黒装束に頬かむり、夜な夜な大名屋敷に忍び入り、千両箱を盗むこと30回以上。
文政8年(1825年)に捕縛されるまで、奪った小判は3000両。
貧乏長屋の住民へ、夜陰にまぎれてそっと木戸へ小判を置いた。
何時の日か義賊の評判がたち、その死後も民衆に義賊として愛されることになる。

だが実際のところは、奪った金の全てを、飲み・打つ・買うで、浪費したのが真相のようである。
しかし、大名屋敷に大胆に押し込み、捕縛されなかった運の強さ。
その強運にあやかりたいと、墓石を削り取り、御守にすることが流行り出した。
鼠小僧次郎吉の墓石を御守にすれば、運が強くなり、博打にも勝てる。

今では受験生も訪れ、墓石を削り、合格祈願の御守にしている。
参拝を済まし回向院の境内に戻ると、浮世絵師で戯作者の山東京伝と、浄瑠璃の義太夫節の創始者・竹本義太夫の墓があることを知る。
回向院の山門を出るが、まだ時間が余っていた。

ぶらりと辺りを歩くと、本所松坂の標識があり、吉良邸を標す看板があった。
道を右に折れて出かけてみる。
すると左手に時津風部屋が、ひっそりと建っていたいた。

玄関の上には青銅製の大きな看板が掛けられていた。
不世出の大横綱・双葉山が起こした相撲部屋を表す、双葉山相撲道場と刻されていた。
さらに50メートルほど行くと、今は本所松坂公園となっている、忠臣蔵で有名な吉良邸に出た。
 
玄関は長屋門を摸した造りで、壁は白と黒のコントラストも美しいなまこ壁。
玄関から中へ入るが、入園料は無料であった。
本所松坂公園は30坪程で、中には見学の人が5人程いた。
 
かつてこの地に建てられた、吉良上野介義央の上屋敷は、2,500坪以上もある広大なものだった。
中には小さな祠の松坂稲荷社があり、かつて吉良邸内に祀られていたものであった。
公園の角奥には「首洗い井戸」があり、その井戸で大石内蔵助率いる47士に討取られた、吉良上野介義央の首が、洗われたと言われている。
 
正装に身を纏う温和な顔の吉良上野介義央の像が、公園を見守っていた。
時間を見るとすでに、1時40分を回っていた。
昼下がり、散歩日和を愉しみながら、シアターXに出かけた。

先ほどの道とは別の路地を通り行くと目的地に着いた。
受付でチケットを購入して中へ。
ギィ・フォワシィ・シアター主催者の谷さんが迎えてくれた。

案内されて劇場の座席に着く。
そこは谷さんの1人娘さんの隣であった。
彼女と話をするのは、35年ぶりであろうか。

日仏学院の講堂で上演した後、一緒に食事をして以来だ。
彼女もすでに3人の子供のお母さんだった。
お父さんのお芝居を、子供に初めて見せるのだと言った。

やだて客電も落ち、芝居が始まった。
その作品は、55年前の1956年に書かれた、ギィ・フォワシィの処女戯曲「複合過去」と、
本年書き下ろされた最新作「エリゼ・ビスマルクの長い人生」の2作品が、休憩もなく一気に上演された。

ともにギィ・フォワシィ特有の、ユーモアと諧謔とアイロニーに満ちていた。
「複合過去」が始まる。
舞台には老人たちが、過ぎ去った青春への懐古を語る。
だが美化された過去は、無残な現実に向き合わされることにより、幻想の青春は引き裂かれる。

「エリゼ・ビスマルクの長い人生」
100歳の誕生日を迎えるエリゼ・ビスマルクと、女性ライターが病院の1室にいる。
エリゼ・ビスマルクの恥部を暴きだし、あわよくば出版し、ひと稼ぎしようと目論む女性ライターとの確執が繰り広げられる。
生への貪欲な拘りと、長い人生の波濤と闘った孤高な老人のしたたかさ。
だが汚辱に満ちたライターの策略により、残酷な結末に終わる。

2本の芝居の登場人物は老人たちであり、老いることの心の闇に迫る。
そしてその登場人物を演じる役者さんたちも、ほとんどが役の人物に近く、今風に言えば高齢者である。
老人の役を、役の年齢に近い年齢の役者が演じることで、舞台には奥行きの深い空間が現出した。

決して役を装い演じることのない真実が表現されていた。
演劇とは演じるのではなく、役者が役を生きることである。
登場人物の年齢に、役者の実年齢が重なることで、舞台上の登場人物が、観る者に深い陰影を与えた。

舞台が終わり、シアターXを後にして、両国から浅草まで、ぶらりと下町巡りをすることにした。
国技館前を通過すると、旧安田庭園があった。
その時、庭園の閉円時間で、木戸が係員により閉ざされるところだった。

そして少し戻り、国技館に沿った道へ曲がると、静かな路地になっていた。
さらに進むと、江戸東京博物館を右に、区立両国中学を左に見やり、暫く新緑の木々に包まれた、路地を行くと大通りに出た。
そこは清澄通り、さすがに道は交通量が多く、先ほどの閑静と様変わりした。

浅草方面に向かい歩き、日大一校を越すと東京都慰霊堂があった。
この慰霊堂を訪れるのは何年ぶりであろうか。
湯島に住んでいる頃だから、30年くらい前のことであろう。

まだ子供が1人の頃で、両国橋たもとにある、江戸時代から続く「ももんじ屋」で、シカ肉や猪鍋を食べた後で、両国界隈を散歩した。
公園内にあったお店でアイスクリームを買って、3人で食べた。
その時、アイスバーの当たりが出て、さらに2本、只で貰った記憶がある。

その店は同じ場所に今でもあった。
東京都慰霊堂は大正12年9月1日の関東大震災の時、遭難した人たちの御遺骨・約58,000人を収めた震災記念堂に始まる。
そして昭和20年3月10日の東京大空襲などによる殉難者・約105,000人の御遺骨も併せて納め、東京都慰霊堂と改称して現在にいたる。

午後5時、東京都慰霊堂の境内に人影はなく、都会の喧騒から守られ静寂を増していた。
参道を真っすぐと歩き、石段を踏みしめ上り、慰霊堂に手を合わせ、16万人余の慰霊の冥福を祈る。
そしてまた浅草方面へ歩みを進めた。

蔵前通りと交差する石原1丁目交差点から、横網町2丁目交差点 本所1丁目 浅草通りに出て駒形橋を渡る。
隅田川の川面は漣もなく静かである。
薄霞の向こうの鉄橋を、常磐線がほの灯りを残しながら通りすぎてゆく。
 
橋を渡り進むと、川風が優しく頬を撫ぜながら流れてゆく。
夕暮れ間近、日が陰りはじめた隅田川の川色は、薄灰色を青色に滲ませていた。
その川を遊覧船が遠くに現れ、段々と姿を大きく明瞭にしながら、橋の下を潜る。

船の中には沢山の人影が見え、川下りを楽しむ笑みが零れていた。
前方の川端に目を遣ると、創業約200年の「鰻の前川」が見える。
大川端の鰻屋で蒲焼を食べ精力をつけ、船宿の猪牙船に乗り、粋筋は柳橋や、山谷堀から吉原へ繰り出した。
 
まさか落語「船徳」の徳兵衛さんのような船頭はいないであろうが、船に揺られての岡場所通いは、粋な江戸っ子の艶遊びである。
「鰻の前川」の前の船着き場には、夜の出を待つ屋形船が繋がれていた。
そして橋を渡り切ると、正面に駒形堂がひっそりと佇んでいた。

推古天皇36年(628)のこと、檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)の兄弟が、この地の川で1躰の仏像を漁網で引きあげた。
その仏像は黄金に輝き、聖観世音菩薩として、浅草寺に祀られた。
そしてこの地に、観音様の示現を祝い、駒形堂が建てられた。

やがて渡しや船宿に人が溢れ賑わい、この地にあがった人々は、駒形堂でお参りをしてから、浅草寺へ繰り出した。
微かな夕靄に包まれ始めた駒形堂にお参りする。
馬頭観音を本尊とするお堂の甍の上に、小さく遠くスカイツリーが空に映えていた。

お堂の裏手と言えば、池波正太郎「剣客商売」で、秋山小兵衛の馴染み、小料理屋「元長」が登場する。
そしてさらに雷方面に進むと、「むぎとろ」の江戸風情を醸す店の前を通る。
さらに250メートルほど歩くと、吾妻橋の交差点。

正面に松坂屋があり、左手には雷門が見える。
交差点を越して大川端、江戸通りの裏道の静かで細い路地を進む。
隅田川河岸に沿って植えられた木々の緑が美しい。

そして途中、左手に折れて伝法院通りに出る。
正面に伝法院と書かれた朱色の門が迎えてくれた。
さすがにこの辺りになると、賑わいもひとしおになる。

すでに居酒屋には酒を飲み肴をつまむ人が、硝子戸越しに見える。
朱門を潜るとそこはすでに浅草寺の境内。
すでに本堂の扉は降りていた。
 
見れば、参拝を待つ人の長い列が出来ていた。
スカイツリーお膝元の浅草は、観光ブームに沸いているのであろう。
お祭りの時や新年の参拝以外、これほどの人の列を見たことがない。
  
境内から暮色が滲み始めた中空の彼方、スカイツリーが、山門の甍越しに見えた。
日本の伝統と未来を暗示するスカイツリーが、歴史の陰翳を深くしていた。
境内をぶらりと散策をし、仲見世をそぞろに歩く。
 
仲見世はそろそろ店じまいに掛かるところもあったが、日本人に混じり様々な国の人たちで溢れていた。
今日一日、観劇の後、両国から浅草散策を終えた。
仕上げは吾妻橋袂、隅田川沿いに建つ、アサヒビールで生ビールを飲み、本日の仕上げにした。