Today's Comment
July.2011.07

このたびの地震により、被害を受けられた皆さまへ、謹んでお見舞い申し上げます。

そして、一日も早い復旧と復興を、心よりお祈りいたします。



お店の歴史は、お客さまと共有する
2011年7月29日

日経新聞「私の履歴書」で、シェークスピアの全戯曲を翻訳した、英文学者・演劇評論家の小田島雄志が連載している。
その連載の中で、昭和27年当時を回想している場面が、私にとって、とても懐かしい時代を彷彿とさせてくれた。
その年、小田島氏は大学の最終学年を迎え、遊び仲間と離れ、まじめに論文を書くことを決めた。
そして独り成城学園から歩いて15分程の、仙川駅近くにあった、下宿の2階に引っ越した。

そこは武蔵野がまともに見える部屋だったと回想している。
その当時、私もその辺りまで遠征して遊んだので、当時の情景をつぶさに思い起こすことが出来る。
さらに彼が東大の生徒で、学生としては割りの良い家庭教師をし、裕福になったお金で、様々な飲み屋や喫茶店へ繰り出す話が面白い。
私は小田島氏の15年後位に、同じお店に出没していた。

新宿東口のバー、それは多分、松田優作が東京に出て来て、アルバイトをした事で有名でもある、バー「ロック」であろう。
私が行っていた頃は、松田優作がバーテンダーをする、3年位前だと思う。
私も演劇仲間と、夜遅くそこで演劇論などを熱く語った。
そして伝説の喫茶店「風月堂」、そこには世界中のヒッピーが集まり、店の中はタバコの紫煙で、1メートル先も霞んでいる程だった。

そこでは色々な外国語が話され、激論を交わす声で、さながら轟音のように響いていた。
論争に疲れくらくらしてくると、その店の道路を隔てた前にある、名曲喫茶「らんぶる」で、クラッシックを聴きながら本を読んでいた。
小田島氏の話には、「らんぶる」は書かれていなかったが、たぶんの推測だが、立ち寄っていると確信する。

さらに、新宿「末広亭」の近くにあるバー「どん底」が登場した。
バーと言うよりは、今風に言えば、居酒屋に近い。
地下1階地上3階建てだったと思う。

3階ではアコーデオンの伴奏がおり、大勢の人たちが、酒を酌み交わしながら、ロシア民謡などを唄っていた。
この店の経営者が元演劇人だったので、大勢の文化人や芸術家の卵、芸術志望の若者で溢れていた。
やはり店内は、芸術論や政治論、宗教論争を語る若者達の声が、怒涛のようにこだましていた。

社会は高度経済成長まっただ中。
日本社会は、エネルギッシュに躍動し、全てが熱く燃えたぎり、未来に向け、無我夢中に突き進んでいた。
そして時には、悪場所に嵌り込み、痛い思いをするも、これは自分の愚かさ、青春の通過儀礼と悔しさを募らせた。

すでに最終電車も無くなれば、新宿アルタ前の芝生で野宿をしたり、
新大久保近くのゴ−ゴー「ノアノア」で、酒を浴びてゴーゴーを踊って朝帰りをする。
そして小田島氏の回想に、本郷の喫茶店「ルオー」も登場した。
ここはとても上品で、優美で格調の高い佇まい。

何時もクラシックが流れていた。
喫茶店でも料理が充実し、その当時、まだ珍しいグラタンが、メニューに載っていた。
その上品さに、私などは畑違いで、肩肘張るのだが、無理をして恰好を付け、訳知り顔でコーヒーを飲んでいた。

記憶に残る店、今もなお変わらずに存在するものもあれば、とうの昔に消滅した店もある。
だが、自分が通った店を思い出すと、自分の生きたその時が、瞬時鮮明に蘇って来る。
お店は来店してくれた人たちの時代を反映し、さらにお客さまの記憶の中に、鮮やかな映像として記憶される。

私の店ももうすぐ27年を迎える。
27年前に来店してくれたお客様の子供さえ、最近は来店してくれるようになった。
お客様と共に歩んだ歴史を、これからも大切にして、1年でも2年でも長く営業できるように頑張ろうと思うこの頃。

思い返せば、22年位前だろうか、私の店に、小田島雄志氏がやって来たことがある。
その時、カルバドスを飲みながら、私の店を眺めながら語った。
「この店は、『ガラスの動物園』のようだね」と、にこりとして言った言葉を思い出す。
「ガラスの動物園(The Glass Menagerie) 」
1945年テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams,1911年 - 1983年)作






2011年7月21日
台風6号が日本列島を襲い、激しい雨をふらし、各地に甚大な被害を与えました。
先週までの猛暑が嘘のように、今日は最低気温が18度、最高気温は24度弱と肌寒い。
今日は土用の丑、鰻も前年に比べ、暴騰しているという。

今日の肌寒さは台風の置き土産、明日からはまた、暑い日がぶり返すらしい。
きまぐれ天気、暑さ寒さも程々にしていてほしいものだ。
これからは夏本番、夏負けしないよう、この夏を乗り切ってください。






幻のブルームーン
2011年7月15日


7月だと言うのに、東京は毎日が灼熱地獄の毎日。
さらに電気不足の恐怖に、毎日、日本列島は晒されている。
一度進化し始めた近代文明という魔物は、停止することも出来ず、さらには後退することも不可能なこと。

だが、その一見不可能に見えることを、可能にしていく智恵を、持っているのが人類なのだ。
福島に於いては、被災者はまさに見えない恐怖と闘い、何時終息するのか、政治不在の中、過酷な忍耐を強いられている。
無能にして無責任、場当たり的な首相以下、政府高官に、古今未曾有の災害を、超克する能力が、欠如しているのが嘆かわしい。


昼間の猛暑に比べれば、夜中はやはり、少しだけだが凌ぎやすい。
昨日のこと、仕事を終え、深夜2時過ぎ、補助席でビールを飲みながら帰宅の途次。
川越街道へ出る道で、信号待ちをしていた。

するとママが「ほら、奇麗な満月!」と言って指差した。
フロントガラス越しに見ると、満月は青い色をしていた。
思わず「ブルームーンだ!」

私は感動して声をあげた。
するとママ「もう少し下から見れば」
私は顔を少し下げて、再度覗きこむ。

「あれ? 金色に輝いている!」
「フロントグラスの上を見て」
私は言われた通りに、フロントガラスの上部を見た。

ママ「フロントガラスの上部は青いのよ」
そうなのだ、強い日差しよけに、青い色が付けてあったのだ。
カクテルでも有名なブルームーン。

19世紀の半ばに生まれた熟語「
once in a blue moon」。
ブルームーンは、極めてまれなこと、滅多に見ること出来ないので、「出来ない相談」という意味もある。
彼女を誘って、バーでデート。
その時、彼女がブルームーン・カクテルを注文したなら、それは断りの言葉。

今日は満月、英語ではフルムーン、私たちも今はまさにフルムーンを愉しんでいる。
何時までもムーンライトを眺めながら、美味しいお酒を飲んでいたいものだ。

それにしても、ブルームーンが、幻に終わったのは残念だった。
だがきっと
本物のブルームーンも、あの時のブルームーンに、近いものであるような気がする。








小さな旅&日記を更新
茨城県筑波山を訪ねて

2011年7月09日







愉快な仲間たちを更新
2011年7月5日

Yさんの20歳の誕生日





また消えた、町の印刷屋さん
2011年7月2日


私の店の隣にあった「トキワ時計店」が、4月28日に閉店し、玄関に下ろされたシャッターには、今も閉店の挨拶が貼ってある
すると先月の末、時計店の隣の「相沢印刷屋」の玄関に、今度は大きな「売り地」の貼紙がしてあった。
私が店を開店した27年前は、親方と弟子の関係のような睦まじい姿で、輪転機をフル回転していた。

映画「男はつらいよ」の「フーテンの寅」の幼馴染、「朝日印刷所」のタコ社長が、
いてもおかしくない様な、町の印刷屋さんの風情を醸していた

日曜以外は毎日、カタンカタンカタンと、輪転機が刻むリズムが、昔懐かしく心地よかった。

仕事場に足を踏み入れれば、印刷インクの臭いが漂い、擦りあがった印刷物の臭いが充満している。
そして狭い工場の中は、足の踏み場もない程に、仕上がった印刷物で溢れていた。
もちろん私の名刺や正月の年賀状なども、この印刷屋さんで印刷してもらった。

やがてバブルも弾け、さらにインターネットやパソコンが普及し、町の印刷屋さんにも、冬の時代が訪れ始めた。
たった1人の従業員の姿も消え、そして輪転機の回る音も、だんだんと聞えなくなっていった。
親方は印刷所の奥に住んでいたので、時折、外で顔を合わせるのだが、日々、かつての元気な姿にも翳が差し始めていた。

或る日の事、私は名刺の印刷を頼みに行った。
すると親方が奥の部屋から出て来て、何時ものにこやかな顔で、「もう印刷は止めたの」と言われた。
それから、5年くらいになるだろうか、玄関の戸は閉ざされたままになることが多くなった。

やはり高齢のこと、家族の所へ引っ越したのだろうか・・・・・・。
すでに印刷所には人影も消え、だいぶの歳月が経っていた。
そして突然、「売り地」の貼紙、それを見た瞬間、何か切ない感慨が湧いた。

この大山で町で、「トキワ時計店」は、43年間営業をしていた。
「相沢印刷」もそれに伍するか、それ以上の歳月を刻んできただろ。
若き頃から一筋に、自分の選んだ仕事を全うし、家族を育て、地元に自分の仕事を通して貢献をした。

だが人は齢を重ね、何時か必ず自分の店や零細事業を閉める時がくる。
大きな会社であるならば、公器である会社を、閉めるわけにはいかない。
従業員に対して、また社会的な責任を果たすためにも、会社は生き続けなければならない。

だが現在の社会の変容するスピードは凄まじく、大企業が零細企業の商圏を侵し始めた。
さらにインターネットによる無店舗会社も乱立し、ますます昔ながらの町工場や商店は、苦境に晒されている。
自由競争の名の下に、何でもありの弱肉強食、商道のモラルも蹂躙され始めている。

町には大手のチェーン店が跋扈し、町の商店や会社が消滅していく姿は、あまりにも寂しい。
そういう私の店も、すでに27年目を迎える。
私が開店した頃のお店は殆ど消え、今ではこの辺りの古参格になってしまった。



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