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December.2011.12




小さな旅&日記を更新
京都へ紅葉狩りA
嵐山天竜寺・渡月橋・清涼寺、そして大覚寺へ

2011年12月28日




思い出の長谷川利行
2011年12月24日


今週の日曜日、板橋区立美術館へ出かけた。
昔、湯島に住んでいたころは、すぐ近くに西洋美術館やら、都立近代美術館、西洋博物館などがあり、時間を見つけては訪れた。
だが、板橋に引っ越してからと言うもの、なかなか都心まで足が向かず、美術館通いも少なくなることしきりになる。

だが、今回は是非とも行かねばと思い、「池袋モンパルナス」展へ出かけたのだ。
下赤塚の大仏様のすぐ近く、赤塚山を配した池畔の静寂の中に、板橋区立美術館は、ひっそりと建っている。
玄関から中へ入り、2階へ階段を上ると会場が広がる。

入場券を600円払い中へ進む。
会場の中央には、大きな寺田政明の抽象画「芽」(1938年)が展示してあった。
やはり板橋区を代表する洋画家なのであろう。

今回、私が見たいのは、長谷川利行の絵だ。
私が上野で料理屋の支配人をしている時、私の店は上野のれん会に加盟していて、毎月、本支店合わせて、会報の「上野」が200部届いた。
その当時、上野のれん会の会長は、アダムス菊屋と言う洋品屋の主人・須賀さんであったと記憶する。
上野の広小路では有名な須賀一族の出で、東大文学部卒業の氏は、芸術の造詣も深い、ダンディーな紳士であった。

その須賀氏が気に入り所蔵していた絵が、長谷川利行の絵で、上野のれん会の会報「上野」の表紙を飾ることも多かった。
そして、私が板橋に引っ越して来て、バーを開いたのが、偶然にも板橋区大山であった。
そこは池袋から、徒歩でも30分程の距離にある。

私の生まれたのが豊島区椎名町で、今の南長崎。
手塚治虫や多くの漫画家が住んだ、トキワ荘のすぐ近くだった。
その当時、南長崎から池袋、要町辺りは舗装もされず、雨が降れば道は泥濘であった。

その南長崎を中心にして、多くの貧乏画家が集まり始めた。
上野には美術学校があり、上野桜木町には、鏑木清方塾などの画塾もあり、多くの画学生なども住んでいた。
だがいかんせん、上野は家賃が高く、借家も狭い。

その頃の池袋周辺は、沢山の空き地や野原があった。
そして、旧長崎町を中心にして、アトリエ付き貸家が建ち始め、やがては、「桜ケ丘パルテノン」と呼ばれる集落も形成された。
さらに「すずめヶ丘」などが、ぞくぞくと建ち並んでいった。

そこには、画家だけではなく、詩人、俳優、ダンサー等、様々な人々が集まり始めた。
場所柄、住宅の家賃も破格に安く、多くの貧乏芸術家たちが、集まり交流する村を、形成するようになった。
それは大正の末期から、第二次世界大戦が終結するまでの暗い時代だった。

そして芸術家が屯する飲み屋では、夜を徹して、喧々諤々、芸術論が戦わされ、時には喧嘩で血が流された。
まさにそこは、未来の芸術を担う、若者達の梁山泊であった。
やがて、詩人で画家の小熊秀雄が詩上で、「池袋モンパルナスに夜が来た」と、芸術の都に倣い「池袋モンパルナス」と表現した。

それ以来、まだ名もない芸術家たちの住む辺り一帯を、人々は「池袋モンパルナス」と呼ぶようになる。
今回の美術展は、1930〜1940年代を「池袋モンパルナス」で過ごした画家たちの作品が、展示されていた。
それぞれに、ヨーロッパの空気を、遠い日本から鋭敏に感じ取る、まだ若き20歳から30歳代の峻烈な感性が迸る。

だが時代は第二次世界大戦に突入し、画家たちも過酷な宿命を負わされる。
その戦時下、吉井忠により、克明な日記が、簡略ではあるが、心情溢れる小さな字で、綴られていた。
さらに、戦地に赴いた
古沢岩美が、戦場から家族に送った絵手紙には、
家族を思い親友を気遣いながらも、絵描きの魂を守り続ける姿が映されていた。


さらに、第2会場へ歩を進めると、そこには長谷川利行の「自画像」に並んで、「水泳場」(1932年)展示されていた。
その作品は大作で、夏の日、隅田川を仕切って造ったと言う、特設プール風景である。
水面はエメラルド色に輝き、真夏の空は鮮やかな色彩に満ち溢れていた。


泳ぐ人、岸辺に佇む人、そして空を滑空するように、プールへ飛び込む人。
実生活においては、まさに赤貧の生活と、流浪と無頼、酒と破滅の世界に生きた長谷川利行が、キャンバスの中で生の賛歌をしている。
眩き煌めく色彩が、生命の躍動、自由への歓喜を表現しているようだ


その長谷川利行も、酒と無頼の日々、1940年5月のこと、胃癌に侵され、三河島の路上で行き倒れる。
そして、東京市養育院へ運ばれるも、治療を拒否し、同年の10月に、49歳で鬼籍に入った。
その時、画家の所持していたものは、スケッチブックも含め、すべて、養育院の規則の下に焼却処分された。

壮絶な人生を送り、終焉の地となった病院は、現在は独立行政法人「健康長寿老人医療センター」であり、
私の店から100メートルほどの距離にある。






小さな旅&日記を更新
京都へ紅葉狩り@
伏見稲荷・東福寺、そして東寺へ
2011年12月21日


小さな旅を更新


煩悩は正直者
2011年12月17日


時々夕食をするファミリーレストランがある。
食事を終えて、レジで会計をする時のことだ。
なぜか、会計の時、偶然にも、同じ女性がレジに立つ。

女性はふくよかなで、容姿も整い、なかなかチャーミングである。
会計伝票を出し、お金を添える。
彼女はさりげない微笑を浮かべ、レジに打ち込む。

その時、ついつい、彼女の緩やかに流れるブラウスへ、視線が流れる。
見てはいけないと思うのだが、彼女のブラウスに包まれた、間違いなく豊かで、魅惑的なヴィーナスに、眼は釘付けになる。
彼女は何事もないかのように、会計をしている。

ダンディズムを大切にする私としては、見てはいけないと、心の中で叫ぶ!
彼女も心の中で、「何よ、このエロ親父!」と叫んでいるかも知れないからだ。
だから、私は見たくないのだ。

だが、感情は正直者、やはり、眼がするりと流れてしまう。
やがて、レジの会計は終わる。
短いが心地よい緊張の時から、解き放たれる。

来年、私は65歳になる。
まだまだ煩悩が消えないとは、とほほ・・・・・・と少し慨嘆する。
だが、私くらいの歳になると、肉体的にも衰え、何かと愚痴る人も多い。

それに比べれば、心身とも、元気で若い証拠なのだと慰める。
それにしても、美貌に恵まれ、人からは羨望され、嫉妬される人も、そのことで悩み、トラウマになったりもする。
それが人間の、人間たるところなのであろう。






85歳のお爺ちゃんと孫が、競馬の予想
2011年12月14日


昨日、G大学の理工学部4年生が、女性友達と来店した。
数年前、彼のアルバイト先のステーキハウスの店長に連れられて来たのが、初めての来店だった。
それ以来、時々顔を出してくれる。

彼の最初の注文は、何時もジントニック。
彼女には、イタリアを代表するリキュールのアマレットを使ったカクテル、ボッチボールを作って差し上げた。
やがて、お酒もすすみ、彼の家庭の話になった。
彼の実家は千葉県木更津にある、古くから続く葬儀屋さんだ。

大学を卒業したら、もう一度、葬儀関係の礼儀・作法・仕来り等を学ぶために、学校に入るそうだ。
そして、実家の家業を継ぐと決めている。
お父さんは50歳位で、今でも早く起きて、ジョギングを欠かさないそうだ。

そしてトレーニングが終わると、飼い犬の散歩へ出かけると言う。
父親は東海大学出身で、大学時代から、キックボクシングをしていたと言うスポーツマン。
かれも父親の影響で、幼いころから格闘技が好きになり、空手をやっていた。

腕を見れば、なかなかに太くて逞しい。
今は大学のサークルで、野球をやっているようだが、かなりの強豪チームらしい。
やがて、彼のお爺ちゃんの話になった。

お爺ちゃんは現在85歳。
子供の時から、彼はお爺ちゃんに、可愛がられていたようだ。
だが、そのお爺ちゃんは、今はほとんどベッドの生活。

自分でトイレだけには行けるらしい。
彼が実家に帰ると、まずはお爺ちゃんのもとへ顔を出す。
すると、お爺ちゃんの枕元には、何時も競馬新聞があり、赤鉛筆が添えられている。

お爺ちゃんの趣味は競馬。
毎週、競馬の予想をするのが楽しみだ。
そして、予想が決まると、従業員に馬券を購入して貰う。

彼がお爺ちゃんに会いに行くと、「こんだの○レース、何が来る?」と訊くそうだ。
訊けば、お爺ちゃんの競馬は、よく当たるらしい。
ベッドの中で、競馬新聞を眺めながら、赤鉛筆を手に、競馬の予想が日課とは、微笑ましい風景。

その競馬の予想を通じての、孫との交流に、暖かい家族の血が流れている。
例え身体は不自由であっても、毎日、それなりに、楽しい日々を見出すことは、幸せなことである。
人は何時も心の中に、小さな愉しみを、持っていなければならないであろう。






自然の中で、視覚的に音を聞く
2011年12月10日

東京も昨日は寒気が襲った。
早朝の気温は3度、日中でも8度だと言う。
関東地方にも、初雪が降った。

東京郊外の八王子辺りにも、小雪がちらついたようだ。
大雪も過ぎたのだから、当然のことだが、今年は暖かい秋が続き、紅葉や黄葉も遅れていた。
初冬に入り、東京でもこれから、紅葉が本格化する。

近くの街路樹の葉も、枯れ落ち、銀杏並木も、黄金色に染まり始めた。
代々木の絵画館前の銀杏並木は、金色に染まっているであろう。
踏みしめれば、ふかりふかりと柔らかな、枯れ葉の絨毯の感触。

すると踏みしめた銀杏の落ち葉から、醸成されたような、懐かしい匂いが立ち上って来る。
微かな風に、音もなく揺れ落ちて来る、銀杏の枯れ葉。
落ち葉を踏みしめる音が、さくさくと聞えて来る。

風に舞う金色の枯れ葉。
決して聞える筈はないのだが、風に揺れ落ちる枯れ葉が、冷たく澄みきった空気に木霊し、
視覚を通して、枯れ葉の舞い落ちる音が、聞えて来るような気がする。

人は視覚的に、音を聞くこともある。
自然の美に感銘を受ける時、聞えないものが聞える。
人間とは、もともと、自然に包まれて生きて来た。
自然の中に、見えないものを見、聞えないものを聞くことに、感動を覚えていたのでは・・・・・・。






季節感の喪失は、人の心も鈍感にする
2011年12月7日


今週の3日、秩父の夜祭りに出かけた。
小鹿野歌舞伎で有名な、小鹿野町にあるママの実家に、荷物を置き、日のあるうちに、夜祭りへ出かけた。
秩父の里の初冬は、長閑な風情を湛えていた。

小高い山々は、まだ、紅葉に染まっている。
さすがに道路脇を流れる小川沿いの草木は、すでに冬枯れの寂寥な趣。
正月を待つ里山に、雨が降り落ち、紅葉の輝きを深めていた。

ふと街道沿いを眺めると、柿の木にたくさんの柿が、熟したように実っている。
それも、家々の木々や、忘れされたような場所で、数え切れないほどの柿がなっている。
今は野菜やフルーツが、1年を通して、豊かに市場に溢れている。

小さくて硬く、甘味も少ない、野趣味溢れる柿など、地元の人も食べなくなったのであろう。
味覚には、春の苦み、夏の酸味、秋は甘味、冬には塩味がある。
秋には甘い果物が、たわわな実りとなって齎される。

私たちも子供のころ、秋になると、農家の柿や栗を盗んで食べた。
時には運悪く見つかり、追いかけられ、冷や汗をかいた経験がある。
夏には、キュウリやトマトを、さりげなく盗んで、近くの川で洗って食べた。

その野菜も、今から考えれば、恐ろしい農薬が、たっぷりと散布されたものだ。
川で洗えなければ、服でごしごしと拭い、がぶりと齧った。
それ程に、季節が身近なものであり、実りの季節は待ち遠しかった。

その季節ごとにはお祭りがあり、季節の旬で作られたご馳走を、食べることが出来た。
日本には古来、二十四節気がある。
立春、清明、夏至、立秋、白露、大雪などの、美しい24の季節を表す言葉で表現される。

漢字を見れば、季節をはっきりと、視覚的に想起することが出来る。
日本人は、巡りくる季節と共生しながら、季節の恵みに感謝し、齎される旬の味覚を愉しんだ。
しかし、今は季節とは関係なしに、さまざまな野菜やフルーツが出回る。

やがて来る季節の味覚を待つ心が、季節の旬に出会った時の感動を大きくする。
豊かな無季節の食べ物が、人々に味覚の感動を薄め、自然が齎す季節の実りへの、感謝の気持ちを、薄れさせることになる。
季節感を喪失した食の豊かさは、人々の季節への渇仰を薄れさせ、しいては、人間の感性を鈍化させる。

すると、農家の軒下を見て発見した。
軒下には、たくさんの皮を剥かれ、糸で括られた柿が吊るされていた。
子供の頃、農家の軒先に見た、懐かしい初冬の風景である。
今でも、昔と変わらずに見る干柿の姿に、何故かほっと気持ちが和んだ。





オカメインコのオージクンが死んだ
2011年12月2日


1昨日の深夜から、昨日にかけての冷え込みは厳しかった。
日中の最高気温が、東京のど真ん中の大手町で、8度とは驚きである。
北の国では、雪の便りも本格化するだろう。

1昨日の深夜の3時頃、私はパソコンに向かい、キーボードで打ち込みをしていた。
すると、ママが「オージクンが死んでる!」
驚いて鳥籠を見ると、オカメインコのオージクンが、お腹を出して死んでいた。

やはり、この季節の急激な気温の変化に、順応出来なかったのであろうか?
私の下の娘が、動物や小鳥が大好きで、このオカメインコも、娘に買ってあげたものだ。
購入した時は、すっかりオスと思いこみ、オージクンと名付けた。

ところが、成鳥になった或る日のこと、鳥籠の中を見れば、純白の小さな卵が5つ、転がっているではないか?
オージクンンはメスだったのだ。
だがすでに遅し、オージクンはヒメチャンとは変更されず、オージクンのままにしておいた。

一応は手乗りなのだが、プライドがすこぶる高い。
鳥籠から出し、オージクンに手を出すと、ギーギーと声を出し、頭の冠羽を立てる。
まん丸な頬の朱色が、ひときわ鮮やかになり、まさにオカメの愛くるしい表情で、こちらを威嚇してくる。
だが、鳥籠から出す回数が少なくなったせいか、毎回、オージクンの飛翔時間や高度が低くなった。

やはり、運動不足で、飛翔能力が落ちて来たのであろう。
25年の間に、セキセイインコから始まって、オージクンで5代めであろうか。
それぞれに特徴があり、初代は娘が肩に乗せて、自転車で公園に行って遊んでいた。

3代めは、とにかく、言葉覚えが良く、少し教えれば、何だも覚えてしまった。
時々、主語を間違えたりもした。
娘が勉強をしないので、ママが「Rちゃん、お勉強をしましょう」と教えた。

すると、私を見て私の名前を言って「Tちゃん、お勉強しましょう」
また、私が帰宅すると「Rちゃん、お帰りなさい」と言ったりした。
教えれば、幾らでも言葉を覚えた。

だが、4代め位から、ママの情熱も衰え、言葉を教えなくなり、インコたちはとても無口となり、鳴き声だけのインコになった。
そして、今までの小鳥の中で、一番大柄なオカメインコを育てた。
セキセイインコに比べると、オカメインコは身体が弱く、育て難いとは聞いていた。

最近、可愛がっていた娘が、独立して家を出た。
オカメインコは、心がナイーブなのかもしれない。
急激な寒さと、娘がいなくなった寂しさが重なり、死んでしまったのであろうか?
天国へ旅立ったオージクン、短い付き合いだったが、とても楽しい時間をありがとう!




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