お彼岸の法事
2008年3月22日<土>

お蕎麦屋さんの玄関前
22日日曜日、早朝の4時に東京を発ち秩父へ。
まだ日があけてなく、この時期、朝は少し肌寒い。
今日は、2番目の娘が運転。
ママは助手席でのんびりと寛ぐ。
私はまだ残る酒に、向かい酒をしながらの旅。
川越のあたりから明るくなって来た。
川越街道沿い、来るたびに、景色が変化している。
大きなショッピングモールがあちらこちらに出現する。
私たちが子供の頃、こんな自動車社会になるなんて、いったい誰が想像しただろうか。
車はまだまだ一部の贅沢品であり、庶民にとっては高値の花だった。
だから、東京オリンピックに間に合わせた首都高速もあの狭さだ。

どうやら今日は好天のようだ。
朝日とともに、私には心地よい睡魔が襲ってきた。
後座席には、柔らかい朝の陽光が射し込んでいる。
ほろ酔い機嫌でぐっすりと熟睡。
車の柔らかな振動に揺られながら、やすらかな目覚め。
すでに秩父市内を通過し、小鹿野町に入っていた。
なだらかな山なみ。
山懐に抱かれるように点在する畑。
街道の民家の庭には、紅梅や白梅が満開。
陽光を受け花々は輝き、風にそよぐ。
時折顔をみせる小川のせせらぎ。
朝日にきらきらと川面は銀鱗の輝き。

山間の里山は長閑な佇まい。
心が豊かに膨らんでくる。
ママの実家には、朝の7時頃到着した。
車を降りれば、朝の陽光は煌き、爽やかな風がそよぐ。
彼方から、鶯の声が響く。
玄関を入れば、すでに家の人たちは起きていた。
私は挨拶をして、仏壇に手を合わせる。
しばしの歓談の後、奥の部屋に布団を敷き気ままな休息。
なんともはや、身勝手な客人だろうか。
でも、秩父の人たちは優しい。
そんな私の自由気ままさを許してくれる。
その勝手さに甘えて、私は「秩父は私の第一の故郷」なんて言ってる。

私の両親がなくなり、誰も家を継ぐこともなく、私の実家は消滅した。
だから、第一の故郷はなくなり、秩父は第一の故郷になった。
やがて、法事の予定時間、11時が近づいてきた。
お経を上げてくれるのは、ママとも小学校・中学校の同級生の住職さま。
秩父32番の札所、曹洞宗・般若山「法性寺」<通称、お船観音>のご住職。
弘法大師も、延暦年間(782〜805)、法性寺へ、『大般若経』を奉納したという記録がある。

秩父地方では、住職を方丈さまと呼ぶ。
方丈さまは書と絵を愛する趣味人。
誰からも愛される、穏やかな人柄。
何時も慈しみに溢れた笑顔が優しい。
会うのは、去年、住職の開いた、東京の京橋での絵の個展以来だ。
やがて、時間通りに、伯母ちゃんの13回忌は始まった。
私たちの子供たちは、伯母さんのことを「ねーちゃん」と呼び、
会うたびにお小遣いを貰う。
新年のお年玉は、どの子も満面の笑顔だった。

時が経つのは早い。
すでに13年間も過ぎたのだ。
仏壇に飾られた遺影は、にこやかに笑っている。
方丈さまから手渡されたお経を開く。
今日の法事の意味を、方丈さまは説明し、仏壇前に正座。
私たちも正座をして瞑想。
方丈さまの読経の声が静かに部屋に広がる。

やがて、方丈さまとともに、声を揃えて、お経を全員で唱和する。
お線香の煙は静かに揺れながら流れ、
心を静めるお線香の香りが心地よく部屋を包む。
亡くなった人に経文を供え、今はなき霊を弔う。
お世話になった、私たちの感謝の気持ちをささげる。
供養とは、今こうして生きていることの喜びと幸せを、
ご先祖に報告することなのだろう。

一時間ほどの神聖な時は過ぎた。
さすがにお彼岸。
方丈さまは次の法事の予定が詰まっている。
お墓のお参りは後にして、会食に出かけた。
小鹿野町から秩父市内を抜けて横瀬へ。
秩父路は穏やかで長閑。
山里に降り注ぐ陽光は柔らかく、春を告げる花々が美しい。
真綿のように白く膨らんだ木蓮。
野辺の草むらに楚々とさく、薄紫の小さな花、いぬふぐり。
水仙が可憐な黄色い花を咲かせている。

20分ほどで、横瀬川沿いの蕎麦会席「花いかだ」に到着。
ここには、2年前、ママのお父さんの17回忌でお世話になった。
一同、車を降りてお店へ。
すでに、座席が用意されていた。
席に着き、方丈さまの講話のあと、
本日のの亭主が、¥方丈上さまへの感謝と、列席者への労いと感謝の挨拶。
そして手に手にグラスを持って献杯。
静かに会席は開かれた。

民芸風の小鉢に盛られた、くるみ豆腐が運ばれてきた。
緑鮮やかな木の芽が添えてある。
ふっくり、ぷりぷりの舌触り。
ぷつりと噛めば、くるみの香りが口の中に広がる。
前菜
折敷盆や長手の皿など、
いろいろなお皿に、それぞれ盛られて華やか。
薄味仕立てのツボ貝。
裏ごしした紫芋の団子。
田楽味噌と野蒜。
季節のあしらいには、梅花に似た黄色い花枝。
お造り。
さっくりと薄く包丁された、赤みの鮪。
蕎麦寿司は上品な味わい。
とろりとした舌触りだが、淡白な味わいの中に、うまみが滲む。
茹でた殻つき有頭海老。

ミューズパーク
残念ながら、今日の方丈さまは車だ。
お酒を飲むことができない。
一緒に酒を酌み交わすことが出来ないのはさびしい限り。
やがて、方丈さまは座を辞し、次の法事へ出かけた。
やがて、肉料理が運ばれてきた。
フランス料理なら、メインディッシュのジビエ(野生の鳥獣肉料理)、猪のミニステーキ。
灰釉色のまな手練り板皿には、猪のステーキと一緒に、
うぐい、菜花、そしてふきのとうのコロッケと秩父の幸が満載。

猪肉を箸で口に運び噛む。
肉は柔らかく、意外にさっぱりとしている。
そして、東破肉<トンポウロー>。
前回好評だったので、今回も丹精こめて作ってくれた。
肉の脂は程よくきれてしつこさがない。
肉は柔らかく、口の中でとろける。
懐かしさをそそる八角の香りが口中に膨らむ。

ミューズパークからの眺め
楽しい会食は進み、仕上げに、蕎麦が運ばれてきた。
せいろに盛られた蕎麦は、うっすらと緑の光沢。
蕎麦猪口に、溶きおろした本わさびと、
小口に薄く切られた白ねぎを加えて、ずるりと啜る。
世界は広しと言えども、音を出して食べるのは蕎麦ぐらいだろう。
西洋の食事作法の基本は、食事の間、音を出さないこと。
日本民族、蕎麦は勿論、音さえも食する感性を持っている。
刺身のつまにしろ、香の物にしても、あのこりこりとした食感と音を楽しむ。
やはり、蕎麦を食べるときの、ずるずるの食感は堪えられない。
つるつるしこしこの蕎麦を、濃い目のそばつゆに付けてずるりと啜る。
鰹の芳醇な香り、濃く味のふくよかで濃厚な醤油との絶妙な調和。

青森は五所川原産のそば粉100%はたまらない。
日本のそば粉の80%は、中国産と業者に聞いたことがある。
日本のそば粉の生産量は微々たるものらしい。
そんな蕎麦事情でありながら、日本の蕎麦粉にこだわる主人の気概が嬉しい。
そして、デザートは茶碗蒸様、玉子のプディング、イチゴ添え。
2時間以上の会席は楽しく終わった。

先祖が眠るお墓
外に出ればうららかな陽光。
山々はまだ枯木立の風情だが、里には陽春近し、里の花々が咲いている。
お墓への途中、ミューズパークで休む。
駐車場は満杯状態。
なんとか車を停めて公園へ。
家族連れで公園は賑やか。
長い滑り台を次々と子供たちが、からからと金属音を響かせながら降りてくる。
姪っ子の子供の泰杜君も、元気に降りてきた。
公園から、陽光に照らされ、高く青く澄み渡った空に、秩父の象徴・武甲山がくっきりと聳え立つ。
全山が石灰の山は、明治以来、少しずつ山容を変えている。
今でさえ勇壮な男山。
かつての威容はいかばかりか想像ができる。

かなり日は長くなって来たとはいえまだ3月下旬、日差しに少しずつ陰りが出てきた。
そして、公園を後に、小鹿野へ続く峠道を上り下り小鹿野町の実家近くのお墓へ。
今はだれもいないお寺の、昔ながらの石段の参道を上り境内へ。
その裏手の急傾斜の丘に、たくさんのお墓が立ち並ぶ。
ここからは、長留の山々、暖かな日差しに包まれた村が一望できる。
皆でそれぞれ、お墓
を清め、お花を飾って、お線香を焚く。
そして、卒塔婆を手向ける。
順番に手を合わせ合掌。
今日の法事は滞りなく終わった。


荒川で、近くのおばあちゃんへあげる漬物石拾い
誰の顔にも、どこか晴々した様子が伺える。
境内に下りてくると、そこには懐かしいシーソーにブランコ。
かつて、村のたくさんの子供たちが、この遊具で遊んだことだろう。
ママの姪っ子の子供泰杜君は何時も元気だ。
私の娘と一緒に、シーソー遊び。
笑顔いっぱいで嬉しそうだ。
子供の元気、子供の笑顔は見ていても嬉しくなる。
遠くでは、春を告げる鶯の声。
里には様々な花が咲き始めた。
やがて桜が咲き、そしてつつじが咲き、やがて、真っ白な蕎麦の花も咲く。
百花繚乱、秩父の春は今そこまで来ている。