today’s comment
2008.2




「41時間の断食、1杯のうどんは美味かった!」
2月13日(火)
日曜日、少し飲みすぎたのだろうか?
私にしては、たいしたことのない量のはずだが。
翌日の月曜日、身体がだるく、背中も痛い!
またもや、肝臓を壊したかと、どきっとした。
滅多に飲まない胃腸薬を飲む。
時間いっぱいいっぱいまで、布団で休む。
さてさて、起きなくては仕事に遅れる。
布団をたたみ、柔軟体操と腹筋のトレーニングを。
少し端折るが、こんな時でも、トレーニングを欠かせないのが、我ながらおかしい。
食欲も無し。
そして、今日は絶食に決めた。
早い時間は、ぼちぼちの入りだが、遅くなってどどっときてくれた。
でも、体調は最悪。
ビールの中ビンを一本飲みながら、何とか仕事は終わった。
何時もは、午前の2時までは営業する。
どんな時にも、2時前には、店は閉めないのだが、
1時半にお客様が帰り、閉店にさせてもらった。
空っぽなお腹に、ビールが優しくしみる。
家に着いたら2時半。
ビールの中ビンを一本飲み、早々と布団へ。
翌日、8時頃目が醒めた。
下着は汗でびっしょりだが、背中の痛みは退いている。
これなら、あとは時間の問題。
体を動かさず、じっと布団の中に横たわっていれば、あとは治るはずだ。
布団の中で、一日遅れの朝刊を読み、
ホームページビルダーのバージョンアップの解説本を読む。
そして、4時に起きる。
身体はかなり軽くなっていた。
嬉しくなって、何時も通りにトレーニングをこなす。
駅まで、ママに車で送ってもらい、大山駅へ。
駅前のうどん屋で、卵を割り落とした狐うどんを食べた。

10日の大雪、熱川温泉行きは中止
2月12(月)
10日土曜日、雪が凄かった。
暗くなったら、暗く重く垂れ込めていた空から、一気にどかどかと振ってきた。
綿のように、大きな真っ白な雪が、あっいう間に、白銀の世界を演出した。
その瞬間、我々の計画が頓挫するかもと不安になった。
翌日の11日の早朝、伊豆の熱川へ出かける予定で、すでに旅館も予約している。
かすかな希望を抱きながら、天気の回復に、一縷の望みを託す。
すでに、8時は回っている。
天気は回復する兆しなし。
ママから電話がかかってきた。
今日の深夜、12時くらいまで降り続くようだと。
旅館に、ママが連絡をしてみた。
明日のお昼の12時ころまでに、キャンセルの連絡をしたら、
1日前の解約にして、半額でよいとのこと。
そして、さらに雪の様子を伺う。
だが、一向に降り止む兆しはない。
明日、もし、出かけたとしても、箱根超えは無理。
小田原厚木道から、西湘バイパス。
さらに、熱海真鶴道路を行くわけだが、きっと駄目に違いない。
仕方なく、夜9時、決断を下した。
日曜の熱川温泉は諦めよう。
そして、ママがキャンセルの電話を入れた。
そして、私のところへ連絡が来た。
24日に延期したら、キャンセル料は無しにしてくれた。
この世知辛い世の中、降雪という不測の事態を考慮してくれたのは勿論だが、
ホテルの親切は心にしみる。
伊豆にはちょこちょことよく出かける。
伊豆の温暖な気候。
美味しい新鮮な幸。
でも、穏やかで優しく、親切な土地柄が一番好きだ!
24日は、多分、河津桜が満開だろう。
清流沿いに咲く、桃色の可憐な桜。
そして、遊歩道沿いに、菜の花がまっ黄色に咲く。
先月は、河口湖で雪に見舞われた。
そして、今回。
きっと、24日は見事な快晴。
雪化粧をした秀麗な富士。
河津桜、菜の花。
まるで、与謝蕪村の俳句と俳画の世界のようだ。

片岡珠子画伯の思い出
2月1日(金)
片岡珠子さんが16日に死去。
103歳の長寿だった。
「面構」、「富士山シリーズ」など、大胆で躍動的、力強く鮮烈な画風は圧巻であった。
すでに、50年くらい前であろうか、私がまだ小学生の頃の話だ。
私は世田谷の粕谷という所に住んでいた。
近くには芦花公園があり、日本で初めての、丸く大きなガスタンクもあった。
田んぼあり、畑あり、小川もきれいに澄んでいた。
川にはメダカやタナゴが泳ぎ、ザリガニ取りををしたり、網で泥鰌すくいなどして遊んだ。
勿論、夏になれば、カブトムシやクワガタもたくさん捕まえた。
夜には、蛍さえ光っていた。
いたるところに、武蔵野特有の雑木林があった。
そんな雑木林の中に、一軒家があった。
その家の近くに友達が住んでいた。
そして、その一軒家を遊び場にして、かくれんぼや缶けりなどをして遊んだ。
何時もかなり大人数、遊びも興が乗ると盛り上がり、大騒ぎになる。
すると、突然、窓を開け一言「煩い!」
かなりの迫力だった。
子ども心、強烈な一撃にたじろぎ、泣く泣く解散をした。
しかし、それに懲りないのが、昔のガキ。
同じ遊びを繰り返し、同じように叱られた。
そのおばさんは、何時も座敷で絵を描いていた。
わたしの同級生に、絵描きの息子のNくんがいた。
お父さんは芸大出の新進の画家だった。
ところが、ある日のこと、そのN君のお父さんが、
我らの遊びの天敵、お叱り!一撃おばさんのお供をしていた。
そして、おばさんに対し、尊敬を込めた言葉で、先生と言っていたのを、私のお袋が聞いていた。
どうやら、あの方は有名な画家らしいと教えてくれた。
そして、もと、小学校の教員をしていたとも。
私たちは、それでも相変わらず、かくれんぼや缶けり遊びをして叱られた。
やがて、私も世田谷を引っ越した。
ところが、ある時、森の中のおばさんが、片岡珠子画伯であることを知った。
やがて、片岡珠子画伯は文化勲章も受章。
丁度、あの頃が、女史の転機の歳あたりであり、大きく飛躍する時であった。
遅咲きの画家が、日本を代表する日本画の巨匠へ向かう、
まさにその時、私たちは女史の制作の邪魔をしていたのだ。
片岡珠子画伯に叱られた、子供時代の大切な思い出。
ご冥福をお祈りいたします。

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