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MAY 2003.05



5/30(金)

時々、不思議な一見のお客様が見えることがある。
店の様子を窺いながらながら、ありそうもない酒を注文する。
当方も、かなりの酒は品揃えしてはいるが、
勿論天文学的な数の世界の酒に比べれば、
月とスッポンどころか、微生物にもあたらない。
ない酒の方がとてつもなく多いのは至極当たり前。

「まことに申し訳御座いません。ご注文のお酒、なかなか手に入りませんが、
次回ご来店までに、捜してみます」
手に入るものなら、何とか手に入れられるように、努力は惜しまないのは当然のこと。
それもまた楽しい事で、大変勉強になる。

一見のお客様は、ポピュラーなお酒を注文しながら、
同僚に、注文して無かったお酒の薀蓄を、自慢げに語り始める。
確かに、お酒にまつわるエピソードや知識を持つ事は大変に楽しい事で、
まことにもって結構な事である。

しかし、みたところ、薀蓄は大いに語っているが、肝腎なことに、
大切なお酒の飲み味を楽しんでいない。
お酒の知識に振り回されて、飲む事の楽しさを忘れている。
美味しい料理は食べてみて意味のある世界。
お酒は飲んでみて、飲みごこちを味わうもの。

愉快な仲間と心地よい雰囲気の中で、美味しいお酒を楽しく味わう事が大切。
その時、お酒にまつわる楽しいエピソードや薀蓄が、
スパイスのようにキリッと味を調えてくれる。

知識には、自分を豊かにする知識と、自分をつまらなくする知識がある。
より豊かに生きるための、いっそう美味しく飲むため食べるために、
大いにサポートしてくれる生きた知識を持ちたいもの。

5/29<木>

腐敗防止のために、日本酒の火入れが始められたのは、今から450年くらい前になるようだ。
1568年(永禄11年)の「多門院日記」に「煮る」と記載されている。
まさに、この頃既に、お酒に火入れしていた事の証明である。

ワインの腐敗防止のため、フランスのパスツールが、火入れの方法により、
ワインの保存法を発見したのは1885年。
さかのぼる事300年も前のことである。
火入れの方法は、やはり日本酒同様、低温火入れ殺菌法であった。

東洋と西洋、全くかけ離れた土地、時期は違っていても、
同じ発見がなされたことの不思議。
しかし、450年の昔、お酒に火を入れるという危険を、
あえて行った職人の勇気には頭が下がる思いだ。

当時、お米の余剰生産物が出てきたとは言え、まだまだお米は大変に貴重なもの。
間違えれば、酒は単なる利用価値のない液体にかわる。
絶対に失敗は許されない状況の中で、確信に満ちた直感のもと、
勇気を持って、火入れと言う冒険を犯したのであろう。

かつて、小田 実氏が書いていた。
100パーセント計算し尽くして、行為する事が冒険であり、
成功するときもあれば失敗する事もある。
計算しないで行為するのは、単なる無謀であり蛮勇である。

何時の時代にも、先覚者がいる。
最初に行為する事の勇気とエネルギーにより、新しい発見があり進歩がある。
人は実行する前に、100パーセントの計算と、
いつか踏み出さなければならない実行力が必要である。
行為しながら考え、修整しながらまた進み、
考えながら、また行為する事が大切なような気がする。

5月28日<水>

待ちに待った久し振りの快晴。
爽やかな風に誘われて、少し遠くへ酒の仕入れに出かける。
酒を仕入れに酒屋に行く時は、どんな酒に出会えるのか、
心が昂ぶりウキウキするもの。

この作業が、楽しいと思えるか、面倒くさいと思うかが、
商人としての大きな分かれ目。
メンドクサイと思い始めた時、この商売から撤退する時と決めている。
電話一本でも、注文を済まそうと思えば、いとも簡単に済ませる。

車は高島通りから、大宮バイパスに入り、一路埼玉方面へ向かう。
陽光の照り返しが強いが、車窓を心地よい風がすり抜けていく。
やがて荒川をに掛かる大橋を渡る。
川には、色とりどりのモーターボートが係留され、水面にキラキラユラユラ踊っている。
そうだ、折角だから、帰りは戸田公園にでも寄ってみよう。

予定の酒は購入。
でも、新顔には出会えず、少しガッカリ!
「エ!こんな処にあったの、この酒。驚いたものだね」
こんな思いがけない発見をしたときは、バーテンダー冥利に尽きると言うもの。
酒を仕入れソコソコ満足感を持って、戸田公園へ。
今日は、競艇が開催されてないので、戸田競艇場は閑散としている。
今週の週末は、笹川杯争奪戦で、さぞや大変な人ごみになるのだろう。

私はママの運転する車を降りて、草むらを跨いで、川べりへ出る。
公園の川には、様々なボートやカヌーがスイスイスイ、
川面に微かな航跡の糸を残しながら滑っていく。
そのうち、私も何時かここで、カヌーでも漕いで見たいもの。

カヌーイスト野田知佑氏が言うように、川から見た岸辺や町並みは感動的ものだろう。
昔、子供の頃、股の下に頭を入れて見た、逆さまの景色は、異次元の、
ユーモラスで感動的な景色であったのを懐かしくも思い出す。

5月27日<火>

五月雨がシトシトと降るなか、いまだ武蔵野の面影が残る赤塚公園の並木道を歩く。
都会の塵や芥でグッショリの木々も、天から注がれる雨のシャワーを浴び、
若葉の新緑がサラサラソヨソヨ風に吹かれながら、ニコニコ笑顔で喜んでいるようだ。

気まずい事、哀しい事、難しい相談事は、
何故か雨の降っている時にすると、意外と上手く解決するそうだ。
雨のシトシト、ポツポツポツ、聞こえるような聞こえないようなかすかな音と、
霧のようにむせび、霞む雨の風情が、人の心を和ませるのかも知れない。

昔、東京にも町の音が至るところにあり、春夏秋冬の懐かしい音があったもの。
今は、音が単一化し、いたるところ騒音だらけ。
人は騒音から身を護るために、外部をシャットアウトし、自分達だけの音の世界に浸る。

人間は、心地よい雑音の調和の中で、初めて心の安らぎを得る。
勿論、心を歪ませる騒音は論外だが、自分達の好きな音だけの連続も、
人間の心をどこかいびつに歪ませるのも事実。

5月26日<月>

どうした事だろうか、なかなか蒸し暑くならない。
過ごしやすくて結構な事だけど、なんとなく気持が悪い。

公園の木々は薫風に吹かれながら、サラサラ若緑に輝く。
黄緑や青緑や色とりどりの緑の曼荼羅模様。
さぞや、今時の山の緑は美しいことであろう。

それにしても、最近は地震が多い気がする。
大きいのがドーンと来ないように祈るだけ。
アルジェリアでも大きいのがあった。
日本だけはお断りしたいもの。

しかし、天変地異は、人間にはいかんともし難き、詮無きこと。
愚かしくも人間が自然に対し、傲岸不遜になった時、地球に復讐される。
人間が自然に対し、いつも尊敬と感謝と畏敬の気持を持っていないと、
何時の日か逆襲される事になる。

5月24日<土>

夕飯時、蕎麦屋で相撲中継を観る。
最後の三番、そしていよいよ結びの大一番、大関魁皇対横綱朝青龍の一戦が始まる。
立会い、左指しから一気に攻め込み、土俵際、必死に堪える朝青龍を、上手投げで投げ飛ばす。
横綱の身体は大きく1回転、土俵下にもんどりうって落ちる。

先場所に続いて、大関魁皇の完勝。
朝青龍の横綱での初優勝は、明日に持ち越された。

今日は負けたが、確かに22歳にしては、とにかく強く、逞しく完成している。
大型時代の現代大相撲界にあって、さして大きくもない身体で、
横綱まで一気に駆け上ったのは立派の一言。

しかし、相撲道には心・技・体と言う言葉がある。
モンゴルからやって来た若者が、横綱という頂点を極める事は、生半可な事では不可能。
口で表現出来ない、辛い苦労も数え切れない程あったことだろう。
だから、その苦しさをばねにして、頂点をひたすら目指し、
過酷な稽古をし続け、現在の地位をきずき上げた。

しかし、横綱は相撲道の完成者であり、相撲道の理想の体現者であるはず。
あまり、闘争心や悔しさを表に出しすぎてはいけない。
おのれを律する強い意志と共に、敗者への思いやりも持たなければならない。
相撲は格闘技であるかも知れないが、相撲の「道」、
相撲における真・善・美を体現するのが横綱の使命であるはず。

まだ、22歳の若者にそれを求むるのは、酷かもしれない。
しかし、頂点を極めてしまった者の、それは責務でもある。
相撲道が極められ完成した時、その時に、
相撲の日本文化における様式美が、美しくも燦然と照り輝く。

その大切な相撲道の心を、22歳の若者に、
先輩や親方達がシッカリと時間をかけて、教えなければならない。
若くしてここまで登りつめた若者は、きっと理解できる筈である。

5月22日<木>

夕食の前、少し時間があったので、近くの古本屋でパラパラと本をめくりながら、
何か面白いものがないかと探していた。
すると、小学校3,4年生位の女の子が、お店のレジ・カウンターの主人に
「今、何時ですか?」と尋ねた。

さほど忙しそうにも見えない年配の主人
「時計があるから見てください」
女の子驚いて、「何処?アッ!あれ!」
確かに入り口の近くに、時計はあった。

でも、例え見やすい場所に時計があったとしても、時間を教えてあげれば良いではないか。
指をさして、「ホラ、今は5時半」とか言って。
すると、少女はきっと「オジサン、ありがとう」と言うだろう。
そこに、叔父さんと少女にほのぼのとした、心の交流が生まれるはず。

親切はケチってはいけない。
モノを売る商売も、基本はサービス業。
親切心と優しさと真心を大切にしなければならない、特に子供と老人には。
今日は、イヤーナものをみたと同時に、
私たちも気を付けなければと気を引き締める。

バッカスとアイビー修整

5月21日<水>

先日、何かのついでに、井の頭公園に立ち寄ってみた。
昔懐かしい武蔵野がそこにはあった。
太宰治が入水心中して、一躍有名になった玉川上水も、昔の風情でほそぼそと流れている。
世田谷の川はみなこう長閑で、もっともっと綺麗な清流が至るところにあった。
田んぼのあぜに流れる川には、トクトクと湧き水が溢れ、たくさんのメダカがスイスイ泳いでいた。

私の子供の頃、近くのプールと言えば、成城大学か井の頭公園まで行かなければならなかった。
チョクチョク自転車を飛ばし、井の頭公園まで来たもの。
プールはくみ上げの水でとても冷たかった。
帰りにはキャンディーかアイスクリームを食べ、そしてボートを一時間位漕いで帰ってきた。
今から考えると、当時まだ私も小学生。
粕谷から千歳烏山を抜け、さらに三鷹市の牟礼を通り越して、武蔵野市井の頭公園に至る。

昔の子供達は、なんと逞しくタフだったのだろうかと、今更ながら感心する。
全てのことが便利になりすぎると、遊びにしてもなんにしても、
感動が薄れるような気がするのは、私だけだろうか。
真夏のカンカン照りの中、ただひたすら汗を吹き出しながら、
咽喉を嗄らしながら辿り着いた、遥か遠くのプールは最高でした。

カクテルアラカルトを更新

5月20日<火>

このところ、何故か天気が愚図ついている。
そして、立夏も過ぎたと言うのに、半そででは寒いくらいだ。
ひょっとしたら、今年は冷夏なのかなとつまらない詮索をする。
そろそろ、カラッと晴れ上がってほしいもの。
呟き日記を更新


 5月17日<土>

5月14日、柳家 さん生師匠の落語会に出かけた。
まだ時間に余裕があったので、根津権現まで足を伸ばし、
ツツジ狩りと洒落てみた。
ところがガッカリ、既にツツジは綺麗に咲き落ち、
深々とした緑のツツジ山になっていた。
確か、湯島に住んでた頃、チョコチョコ来たものだが、
この時期はツツジの花の盛りではなかったのかな。
残念ザンネン、また来年のお楽しみ。
ツツジ山の下の池を眺めやると、主のような大きな亀やら、
小さい小さい小亀やら、プッカリポッカリのんびりと泳いでいた。
亀をみるなんてなんて、なんとも久し振り。
亀を懐かしくも見たことで満足し、池袋へ向かった。

愉快な仲間達更新

5月16日<金>

昨日、「遊器」のご主人主宰、ルシア塩満さんのアルパの独奏を聞いた。
アルパは南米の竪琴のハープ。
日本を代表するアルパ奏者の生音が、ピーポッポのすぐ近くのスタジオで聞けるなんてハッピーなこと。
「遊器」のご主人石森さんに感謝!
アルパは優雅に流れるような優美な姿だが、音色は重低音のベースと高音の研ぎ澄まされ、
キーンと張り詰めた音とのハーモニーが美しい。
ハープから想像するイメージとは異なり、意外と激しく、時として情熱的に、そして哀切に響く。
きっと、日本のように湿度の高い国ではなく、カラッと晴れ上がり、
何処までも澄んで高い大空のもとでアルパを奏でれば、
きっと何処までもどこまでも、大地を吹き渡る風にのって、はるか彼方まで響き渡るのであろう。
大山にも色々な楽しい文化が育つと良いですね。

呟き日記更新

5月15日(木)

昨日も、東京芸時術劇場に行って来ました。
柳家 さん生さんの独演会、とても楽しかった。
ゲストはこぶ平師匠、きっとこぶ平の名前では、最後の落語に。
来年からは、いよいよ林家 正蔵を継ぐことになる。
さん生師匠とは同期6人衆だったそうだ。
2代目三木助師匠は自殺、後の面々は病死、そして廃業。
残ったのは、さん生さんとこぶ平さんだけになったと、こぶ平さんが嘆いていた。
磨かれた芸を見るのは、なんとも楽しく、気持が豊かになりますね。


5月14日<水>

今日はさん生師匠の独演会が、東京芸術劇場で開かれる。
私たちも池袋まで出かけ、楽しいときを過ごさせてもらうことになる。
せん先日の12日は、桂 歌蔵さんの独演会で、とても楽しい時間を堪能。
お客様との付き合いの中で、色々な素敵なことに触れ、教えて貰い、
この商売はなんて恵まれているのだろうか。

5月10日<土>

近くに出来た公園、今日も子供達で大賑わい。
公園脇の路上には、車が何台も止まっている。
こんなに小さな公園に、けっこう遠くから来てるみたいだ。
板橋区徳丸は台地のテッペンである。
ここは遺跡が発掘されるほど、古代人にとっては、
当時、大変に住環境に恵まれていた土地だったのろう。
高島平を一望に見渡す公園に、清清しい5月の薫風が吹きぬける。
健康そうな子供達が、キャッキャッと遊んでいる。
子供達は、やはりこうでなくてはいけない。
風に吹かれ、輝く陽光を浴びながら暴れまわらないといけない。
こちらも、そんな健康な子供達を見ているだけで、とても楽しくなってくる。
公園の真ん中の山は、いつも子供達であふれかえっている。
なんて幸せな公園なんだろう。

5月7日<水>

ゴールデンウィークも無事に終わり、立夏も過ぎ、いよいよ夏本番に向かう。
夏日やら真夏日やらで、日本の蒸し暑い夏がもうすぐやってくる。
今はまだ暦の夏、木々の緑が爽やかな風に、サワサワとそよぎ、
まだまだ優しい日差しに照りかえり、気持のよい季節を迎えている。
連休前の金曜の夜と言おうか、土曜の朝、家に帰り一杯やっている時、
ガリッと何か硬いものを齧ったようだ。
昼時、目を覚まして見てビックリ!真ん中の差し歯がない。
シマッタ!又やってしまった。
今日から、歯医者さんは休み、連休明けまで、我慢しなければならない。
たった一本の前歯がないだけなのに、なんでこんなに間抜け顔になるのだろう。
人間の身体には、いっさい無駄がないことの証明なのかも。

5月5日<月>
少し早く店に着いたので、自転車でブラリと大山探検をサクッとしてみた。
驚いたことに、あちらこちらに知らない店がたくさん出来ていたことだ。
そして、あるべき店がなく、新しい別の店に成り代わっていたりでとてもめまぐるしい。
私も深く考えもせず偶然にも、板橋区大山に店を出した時、よくお客様に言われたもの。
大山で3年商売が出来れば、日本全国何処ででも商売が出来るなんて、
なんとも上等なご託宣を受けたまわったもの。
それがなんと、19年と言う恐ろしい年月が経ってしまった。
確かに、大山は新参者が商売をするには、なかなか手ごわい土地かもしれない。
新規参入の皆さん、頑張って下さい。
ピーポッポも皆さんに負けないように頑張ります、ヨロシク。

5月2日<金>

今日から都内の私鉄では、ホームでの喫煙が全面禁止になったようだ。
愛煙家にとっては事のほか、哀しくもひどく辛いい話だ。
今までだって、コソコソ指定された喫煙コーナーで、何か人目をはばかり、盗むように吸っていたのに。
そこまで止めを刺すような、キツーイ一発を浴びせなくてもよかろうものに。
物事にはソコソコという限度というものがありそうもの。
つい最近まで、みんなタバコをスパスパ気持ちよさそうに、ふかしていたではないか。
確かに、タバコをすわない人にとっては、他人のふかす紫煙は迷惑千番なことは分る。
でも、吸う側もルールを護り、他にたいして気配りをしながら吸うなら、少しは大目にみて貰いたいもの。
お互い価値観や趣味嗜好が違うもの同士がいて、
初めてナイーブで柔らかくシナヤカで、バランスのよい社会が成立する。
あきらかに、振り子が一方に行き過ぎてしまう、シナヤカサを欠いた社会は、
末恐ろしいことになることは歴史が証明している。
まー、こういう私目はタバコを吸わないので、こんな意見を吐いても許されるかも。


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2002.05-12