新撰組と板橋、そして酒

江戸の幕末の頃、勤皇佐幕派と日本を二分、凄惨な死闘が展開された。
文久3(1863)年頃、天皇を尊び、幕府を護るべく、近藤勇率いる新撰組は、「誠の」御旗の下に、結成された。
今で言うならば、国家公安兼機動隊兼問答無用の人切り集団、当時の壬生浪、やがては「壬生狼」と恐れられた。

「浪士ときに一様の外套をを着し、長刀地に曳きあるいは大髪頭を覆い、形貌ははなはだ偉しく、
列をなして行く。逢う者みな目を傾けてこれを畏る」(央抄録)
新撰組の隊史は、京都守護職の大義名分の下に行われた、隊内粛清の歴史でもあった。

新撰組が第一次募集して、71人が隊士として迎えられたが、やがて粛清され、その隊士の数28人にものぼる屍を数える。
永倉新八によれば、殺害、断首、切腹、病死と分類しているが、多くは、近藤勇と土方歳三の粛清ではないかと考えられている。

近藤や土方達の本流の粛清派は、なんと、酒は嗜みで口をつける程度で、近藤にいたっては、饅頭が大好物であったらしい。
神聖な隊の規律を乱したという大儀のもと、惨殺された、芹沢鴨、藤堂平助、平山五郎、公然と晒されるように、切腹させられた、
新見錦、山田敬助、野口健司らは、皆大酒飲みである。

貧乏な呑百姓からのし上がり、まがりなりにも、武士になりあがった下戸にとっては、氏素性の正しい本物の武士で、
奔放磊落、羽目を外し高歌放吟する大酒飲み達が、眼に余り、許しがたかったのかもしれない。
私も含めて、酒飲みは寛大だと思う。
酒を飲みすぎれば、誰しも大失敗の経験を幾つもしている。
己の愚かしさ、馬鹿さ加減、だらしなさ、情けなさを身にしみて感じた、悲しくも恥ずかしい経験をいくらでも持つ。

だからこそ、同じような立場や状態にあるとき、俺もこんなことよくあるよなって、
優しく寛容に接してあげられる事が、出来るのではないのだろううか。

しかし、下戸の人は、何時も冷静、酒を飲んでしでかした、苦渋極まりない恥辱的な経験を持たない。
馬鹿酒のみの醜態や痴態などを、とてもじゃないが、許す気持ちには到底なれないはず。
いきおい厳しい態度で接することになる。
(私の勝手きわまりない,自己弁護、たわごとだと思って読んでください)

しかし、酒は飲めずとも、局長近藤も、副長土方も、女にはめっぽうもてたようである。
あちらこちらに、何人もの女性を囲っていたようだ。
洒落て言うならば「女を活けていた」

土方がもてるのは分かる。
だが、近藤の容貌ではねと、はたと首を傾げる。
しかし、女は男の容姿ではない事が、一方では正しいということなのであろうと、私は勝手に理解。

ところが、他人の色恋沙汰には、いたって厳しい。
「士道ニ背クマジキコト」などと言って、処断したようだ。

芹沢 鴨に至っては、鴨の女、お梅とコトをなし終えた後、全裸の状態のまま、無残にも切り殺された。
勿論、芹沢は泥酔状態のテイタラク。
我ら酒飲みには、なんとも無慈悲で惨い仕打ち、無粋としか言いようがない。
酒飲みだったら、もう少し、処罰するにも、粋な断罪の仕方があるのじゃないのと言いたくもなる。
ついつい言ってしまいそう、「下戸は、品がないね。ものには、ほどほどの加減があるのよ。極端は下卑てるぜ」

やがて、近藤は敗残の将となり、下総流山で単身で自首し、33歳にして現在の東京都板橋で、旧暦4月25日、斬首される。
さらに、その首は京都の三条河原に晒される事となる。
戦国時代は、撃ち取られた首は、塩に漬けられて、運ばれたようだが、この状態では、水分が奪われミイラのようになる。
近藤 勇の首は酒粕焼酎、別名早苗饗(さなぶり)焼酎に漬けられ、はるか彼方の京都まで運ばれた。
近藤の首は腐敗することなく、まるで生きているかのようで、不気味で京都人を震え上がらせた。
早苗饗(さなぶり)焼酎とは、農民の祭りの酒であり、田植えの後、関東各地で豊作を祈願して作られた。

土方は新撰組の残党を率い、蝦夷の地に逃げ延び再起を図るが、31歳の若さで討ち死。
永倉 新八は、明治9年(1876)に、現在のJR板橋駅近くに、隊士たちを鎮魂する碑をを建立し、新撰組隊士の霊をともらう。
しかし、なんとも皆若くして、歴史に燦然と名を刻む行動を為し終えたことに、いたく感銘を覚える。