上戸と下戸

(1) 文武天皇の時代、大宝元年701年、かの有名な大宝律令が発布された。
課役の対象になるものが6人以上いる家を上戸、
4人ないし五人のの家を中戸、3人以下の家を下戸とする、
納税額による階層のようなものが定められた。
やがて、中戸は消えて、上戸と下戸だけが残り、
何時の日か、酒の飲める人飲めない人の意味に転化される。
世界史の中、いたるところで、
酒と税金はイタチゴッコのように、切って手も切れない間柄である。

(2)世界史の中でも、傑出した独裁者の秦の始皇帝の時代のこと。
万里の頂上や宮殿の最上部の門(上戸)を守る兵には、身体を温めるためにお酒を与え、
最下部の門(下戸)を守るものには、酒を余り飲めない者を置いたという故事による。

(3)やはり、秦の始皇帝の時代。
始皇帝はバベルの塔にも勝るとも劣らない、壮大な宮殿咸陽宮を造営した。
宮殿はさながら摩天楼のように聳え立ってしまった。
上階を守る衛兵達は、真夏でも真冬のように寒気厳しく、酒を飲み暖を取れるものしか適さず、
やがて、酒に強く、どんな寒さにも耐えられる、上方を護る者達を上戸と言うようになった。

古来、日本でも酒飲みは、左党で辛口と相場は決まっている。
杯を左手に持ち、徳利を右に、トクトクッと酒を注ぐ。
寒い季節には、熱燗は堪えられません。

何故、酒飲みは左党なのであろうか?
大工さんは、鑿(ノミ)で木を削る時、右手に槌(ツチ)を持ち、
左手に鑿を持って、木をトントンと削る事から来ているそうだ。
つまり、左手のノミ手と飲み手とを,掛けているのである。
何故、大工さんの鑿でなければいけないのか、よく分らないが。

私のような、酒飲みにして甘党は、いったいどちらに組すればよいのだろうか。
日本人は、ともすれば、男が甘いものを口にすると、馬鹿にされたり、顰蹙を買う事が多い。
しかし、甘党の諸氏、自身を持ちたまえ!
フランス料理は、究極はデザートに収斂されると言われる。
一流の調理人は、自分のオリジナルのデザートを作らなければ、一流と認められないほどである。
そして、デザートの後には、甘く甘美でトロトロトと紳士淑女を蕩けさせるような、
お酒の宝石と言われるリキュールの登場となります。

18世紀から19世紀のあいだ、フランスの貴族社会は、不倫だらけ。
大変に有名な貴族婦人も、堂々と自分の邸宅に、
さまざまな芸術家や紳士淑女を招き、毎夜サロンを開き、浮名を流す。
しかし、彼女達は奔放で、いっけん淫乱に写るかもしれませんが、
自分の審美眼をもって、無名の芸術家達を庇護。
世界的に名声を博する、偉大な芸術家達を育てた事も事実であります。
その時、主役を司るのは、リキュールであった。
それが、サロン文化を司る貴婦人の証明であり、
また社会もそれを楽しんでいたようなふしがありました。


日本にも、明治の時代には、そんな剛毅な人もいました。
大財閥三井の大番頭だった、益田 鈍翁はそんな人物であります。
散逸しそうになった、日本の中世の茶器や書を系統的に収集し、
中国の陶磁器や書の収集をし、さらに全てを神奈川県に寄贈してしまいました。
莫大な財をなした金持ちは、無形・有形の芸術に惜しみない助力を、
注がなければならない使命があるのではないでしょうか。