小さな旅&日記


秩父・小鹿野町での法要
12月23日<土>

23日、朝4時まで営業。
店から家へ帰り、仕度をして、5時半頃家を出て、秩父へ向かう。
まだ夜は明けず寒い。
風はなく、車は川越街道を一路秩父へ。
さすがにこの時間、街道は空いている。
でも、街道沿いには、24時間営業の店が、けっこうう点在。
やはり、日本の夜は明るくなって来ているのだろう。
ただひたすら、車は走る。
11時から、ママの実家・秩父で、ママの父親の17回忌。
早いもので、17年経過したのだ。
私が、大山で商売を始めてて、6年目のことだったのだ。
23日が命日だったことも、忘れていた。
人は、忘れるからこそ、それなりに、生きて行く事ができるのだろ。
忘れる事は、人間の大切な知恵なのだろう。
今日は歳末の23日の土曜日。
我らの商売はかきいれどきだ。
親戚の人も、ママだけでもよいと言ってくれていたみたいだが。
17回忌の法要は最後の最後。
そして、法要は一度限りのこと。

朝の霜は幻想的
17年前までは、いろいろとお世話になっている。
さらに、本家の両親がいない今も、変らず、盆や秩父夜祭、お正月などでお世話になっている。
何時も、ありがたく、感謝の気持で、秩父を楽しませて頂いている。
そんな、感謝の気持は、何かの形で、きっちりとと、自分のできる範囲で表現しなければいけない。
すでに、川越を越し、東京から2時間余り。
正丸トンネルを通過した。
通り抜ける頃、夜は明け始め、山間の里にも、弱々しく、頼りない朝がやってきている。
冬枯れの木々には霜が降り、一面の霜の銀世界。
樹氷でも、霧氷でもない、幻想的な白銀の世界。
強さを増した、朝の陽光に照らされ、きらきらと、割れたガラスに反射しているように耀く。

今月の3日、秩父夜祭の賑わいが嘘のように、秩父市街は静まりかえっているる。
ときおり、犬の散歩の人、何処へ向かうのか、力なくあるく通行人。
凍てついた、静かな市街地を抜け、小鹿野町へ。
石灰岩を剥ぎ取られ、無残にも晒された武甲山の、白い山肌が、朝の陽光に照り耀き始めた。
さらに進み、武甲山を背にしながら、荒川に架かる巴橋を渡る。
川沿いの走りなれた街道を進み、巴川旅館を左に、山間の登り坂を進む。
ミューズパーックを越えると、道は九十九折れの峠道。
下りきると平坦な里の道になり、ママの実家に到着。。

三橋家あたりの樹木
すでに、時間は7時半。
仏様にお線香をあげて、私は法事の時間まで仮眠。
秩父の名刹・札所32番・法性寺の住職さんが、11時頃到着。
住職さんは、ママとは、小学校、中学校とも同級生の、旧知の間柄
暫しの雑談の後、みんなに経本が渡される。
住職が今日のお勤めの概略を説明。
そして、住職と共に経文を唱和。
東京の法事とは、やはり、住職さんの心が違う。
寺と檀家との繋がりは、濃密で心が通う。
経文を唱和していると、不思議と心が柔らぎ、魂が洗われるようで気持がよい。
我々の心が安らぐから、きっと、仏様も喜んでくれるのであろう。

三橋家近くには、柚子がたわわに
約1時間の法要のあと、お墓まで車で出かけて2分。
今は無住のお寺の境内から、裏手の山の中腹に、三橋家のお墓がある。
お墓の掘り込まれた紋は三柏。
先祖は横浜在の武家。
戦前まで、墓は何故か、青山墓地にあった。
お墓からは、彼方に、こんもりとした里山に抱かれるように、集落が見える。
冬至を過ぎた冬日は暖かく、風もなく、空は晴渡っている。
穏やかな一日、お墓参りには最高の陽気だ。
お墓に水をかけ、お線香を焚き、お米を沿える。
住職さんが手を合わせ、順番に祈る。
滞りなく法要は済んだ。
来た道を戻り、これから、精進落としに出かける。
秩父市内を抜け、早朝通過した横瀬の蕎麦会席「花いかだ」へ。

法性寺の遠景
出来てまだ1年の若い店。
座敷に、住職さん一同、9人の身内だけの会席。
無事終えた法要、みんな満足そうに、笑顔で屈託がない。
座敷の横のガラス越しに、蕎麦打ち場が見える。
ぬる燗のお酒、ビールが運ばれ、三橋家の当主が軽く挨拶。
そして、住職さんの講話。
そして、私が軽く挨拶をして、献杯。
前菜が運ばれ、そして、刺身皿に盛り込まれた、お造り。
お造りの大間のマグロの大トロは絶品だ。
厚い刺身の柵から、豪快に切り込まれた密度の高い霜降り状態の刺身。
箸で持つと、でろリと垂れ、山葵を僅かに乗せ、醤油を少しつけて、口の中に入れ、がぶり!
じゅわーっと、刺身のどろりとしたエキスが、口の中に充満する。
とろりと歯で噛み切ると、さらに、芳ばしいマグロの微かな香が、鼻先に抜ける。
青や黄色の湯葉にくるまれた寿司や造り。
若い板前さんが心を込めて、丁寧に造った料理は美味しい。
豚肉の角煮と蕎麦のクレープ。
自宅の畑で取れたてのルッコラ。
まずは、クレープを広げ、ルッコラを敷き、角煮を乗せ、クレープで包み込む。

法性寺の住職と奥様、そして、ママ
大胆に、大きく口を開け、がぶり!
甘くとろりと煮込まれた角煮から、肉汁が口一杯に染み出る・
ルッコラの爽やかな程よい苦味が、角煮の甘味と調和する。
私は、私の向かいに坐った住職さんと、四方山話で、酒の献酬。
座敷から見える、横瀬の里山の風景は、長閑。
降り注ぐ、冬の午後の陽光に、冬枯れの山木立が耀いている。
仕上げは、主人の自慢の手打ち蕎麦。
ざるに盛られた、細打ちのつるりとした光沢の蕎麦。
辛目のそばつゆにつけ、ずるりと口の中へ。
滑らかで、さっぱりとした上品な味わい。
程よいコシは心地よい。
2時間余りの精進落としの宴。
故人にとって、私達、残された縁者達が、仲よく、楽しく宴をはる事が一番の供養。

法性寺の参道
すでに、山間の横瀬の陽光は翳り始めている。
美味しい料理に旨き酒。
住職さんを交えての楽しい会話は、なにものにもかえ難い。
宴もそこそこに切り上げ、お店を出て外に出る。
山を照らす外光が、山々の木々に深い陰影をつける。
冬の山里にさす陽光は穏やか。
照らされた大地から、草木や土の懐かしい匂いが漂う。
さて、今日一日の予定は、つつがなく終了。
これから、法性寺へ、住職さんをお送りしなければならない。
私は、車の運転は出来ないので、何時も飲んで食べて喋くるだけ。
いたって何時もいい役回りだ。
酒飲み運転の規制強化は、秩父にも浸透している。
運転役は一滴も酒を飲まなくなった。
私はほろ酔いの上機嫌。
車に乗りながら、秩父めぐり、小さな旅気分。

山門
秩父市街を抜け、小鹿野町般若まで、30分程で到着。
折角のことなので、山門を潜り、急勾配の参道の階段を登り、法性寺の本堂へ。
住職さんは中へと案内してくれたが、ここでまた、酒でも飲み交わしては、
何時までたっても幕は下りない。
丁重に辞して、階段を下る。
階段の向こう、山門の彼方、すでに日は大きく傾き、秩父の冷気が肌をさす。
17回忌の法要の幕は、今無事に、そして、楽しく下りた。
来年の夏から秋にかけての一日。
住職さんと、寺の縁台で、月と風と虫の音を聞きながら、酒を飲みましょうと約束をした。
その時にふさわしい、美味しい日本酒を、今から探す楽しみができて嬉しい限り。

「父親たちの星条旗」を観て
12/23<土>

今週の日曜日、板橋ワーナーマイカルへ。
激烈で凄惨な戦闘が展開した、太平洋の孤島・硫黄島。
クリント・イーストウッド監督の冷徹な視線で、アメリカ側から描かれている。
すでに、戦闘から半世紀以上が経過し、第2次世界大戦の記憶も、風化し始めている。
私は、戦後2年目のベビーブーマー。
かつて、私の父も応召され中国大陸へ。
土木技師だった父は、朝鮮半島で、数々のダムを建設したようだ。
貰っていた給料は、日本の当時の、総理大臣と同じだと言っていた。
子供の頃、父は、自分が造ったダムを、見に行きたがっていたが、母に止めら実現しなかった。
父は、朝鮮で、たくさんの現地の人を使い、育て、今でも感謝されているはずと。
自分を慕って働いていた朝鮮の人も、今は、みんな出世をしてるはずだから、
きっと、歓待されると信じていた。。
しかし、母は賢明だった。
「お父さん、どんなに、現地で、朝鮮のために、自分は尽くし、
貢献したからといっても、所詮は、占領者なのよ」
たしかに、私の知ってる親父は、差別が嫌いで、かなり、リベラルな人間だった。
そして、かなりの趣味人。
若い頃は、アコーディオンを弾いたりもし、歌も上手かったようだ。
当時、レコード会社にスカウトされた事もあると、酔ったついでに、自慢していた事もある。
私の子供のころは、尺八を吹いたり、日本画を描いたりしていた。
そんな親父も、朝鮮で応召。
2人の子供と母を朝鮮に残し、戦地へ。
親父は暗号解読兵になった。
軍隊では、「暗号解読兵は、捕虜になりそうな時は自決」と教育されたと言っていた。
親父から聞いた軍隊の話は、それくらいで、他には何も語らなかった。
きっと、軍隊のこと、戦争のことは、語りたくもなかったのであろう。
母親の話では、暗号解読で、国から、たいへんな勲章を頂いたようだ。
親父は、いったい、どんな敵の情報を解読したのだろうか?
しかし、それがなんだったのか、親父は語ろうとしなかった。
子供の頃のある日のこと、家族の写真帳をあけていたら、
親父の軍隊時代の写真が、二葉収まっていた。
一葉は、厚いオーバーを着て、銃剣を捧げもち、軍隊の兵舎の門番をしている、
顎鬚をはやした逞しい雄姿。
あと一葉は、軍隊の兵舎の中。
、軍服姿の、凛々しい親父が写っていた。
親父はすでに、3年前、88歳にて他界、鬼籍に入った。
その、親父が最後まで、大切にしていたものも、
2葉のセピア色に色あせた、よろよろになった写真であった。
親父にとって、戦争とは、いったいぜんたい、なんだったのか聞いておくべきだった。
そして、戦争の愚かさ、残虐さ、悲惨さを、私達の子供達に、しっかりと、
自分の言葉で、伝えておかなければいけなかったのであろう。