小さな旅&日記

「ALWAYS三丁目の夕日」を見て
2006.1.20(金)

1月15日<板橋サティーに映画を見に行く。
「ALWAYS三丁目の夕日」
団塊の世代と言われる、まさに私たちの子供の頃が舞台だ。
まだまだ、テレビなどは普及せず、庶民には高値の花であった頃の話。
街頭テレビで、力道山の雄姿を、千歳烏山駅前の原っぱで見た。
隣の電気屋が櫓を立て、その台の上に、白黒テレビの14インチが、ちょこんと鎮座。
それを取り囲むように、数え切れないほどの、老若男女の観衆。
我らの英雄力道山が、シャープ兄弟の卑劣な技に、一方的に攻められる。
苦痛に歪みながらも、耐えて耐えまくり、最後の最後に、劇的などんでん返し。
力道山の伝家の宝刀、空手チョップが、次々に、悪逆非道な兄弟に炸裂!
敵はリングに、大の字の昇天。
力道山の手が高々と上る。
観衆は、われるような拍手喝采。
出来すぎのドラマが、熱狂裏に終わる。
今考えれば、すべて、出来レース、予定調和の演出された世界。
1954年、なんと驚くなかれ、天下のNHK、そして、日本テレビが、ゴールデンタイムに中継したのだ。
敗戦により打ち砕かれ、自信を喪失した日本に、一抹の明るさをもたらしてくれた。
雨降ればぬかるんだ道も、だんだんと、舗装され、道路は整備され始める。
そして、日本の復活の象徴、東京タワーの建設が開始される。
やがて、皇太子殿下と美智子さんとの、世紀のご成婚。
この時、私の家にもテレビが入り、一般家庭にも、いっきにテレビが普及した。
当時は、私が育った世田谷にも、原っぱがたくさんあった。
そこが、我々子供たちの遊び場。
相撲、野球、かくれんぼ、凧揚げ、おにごっこ、缶けり。
外で遊ぶのが子供の仕事。
家にぐずぐずしていれば、母親に叱られたものだ。
親は、自分の判断で、子供を愛情をもって叱り、教育をした。
学校は学問をするところ。
家は、礼儀・作法・人としての在り方を教育する。
学校で、先生に叱られたり、喧嘩で負けたりしたら、家には内緒だ。
告げ口をしたら、親にはかえって怒られたもの。
「お前が悪いから、先生に叱られたんだ。陰口をきくんじゃない」
今の時代、PTAやたらが強すぎる。
教員は、PTAの顔色を見ながらの仕事。
情けない時代になったもの。
たしかに、自分勝手で傲慢で、性格的にも問題のある教員もいたことも事実。
でも、私たちの子供の頃の教員は、誇りと自信をもって教壇に立っていた。
だから、生徒と向き合って、時には体罰を加えながら、教育をしていた。
戦後の民主主義教育。
自由・平等の権利を教え、義務と責任の観念を教育する事に失敗。
私たちの世代は、まさに、戦後教育の落とし子。
俗に言う、団塊の世代。
生れ落ちた頭数が多いばかりに、競争社会を余儀なくされた。
社会人になる頃が、高度経済成長の起爆点。
企業戦士となって、経済成長を支えたのも事実。
しかし、その代償は、あまりにも大きい。
一家の主として、核としての、父親の存在を喪失した。
核は母親であり、父権は形骸化し、子供たちに、父親としての教育をなおざりにした。
私たちの世代、子供の教育に失敗をしたのではないか。
このままでは、いずれ、日本は沈没する。
アメリカは、占領政策の一環として、ヨーロッパの自由精神を日本の教育に導入した。
アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪をひくと言われる。
いまは、アメリカの言いなり。
骨のある政治かも皆無だ。
アメリカは、戦後教育により、聞き分けの良い日本を、育てる事に成功したのだ。
自由・平等の精神のもとに、日本人の古来の美徳・礼儀・仁・慈しみ・優しさを犠牲にして、人間教育を等閑にした。
そして、日本人の魂、真善美、仁儀礼など、日本古来からの、魂の美徳を伝えることに失敗した。
けっして、私は右翼ではない。
しかし、この国では、日本の伝統、日本国家を語れば、そく右翼の烙印をおされる。
戦後の長い間、左翼的であることが、文化人であり、知識人であると思われていた。
日本国家を等閑にして、インターナショナルたらんとしていた。
しかし、日本国家を認識し、日本国家の在り方を真剣に考えずして、インターナショナルなどありえるはずはない。
日本の国を大切に思う心が、世界を思う心につながるはず。
「ALWAYS三丁目の夕日」の世界には、人間の愛がある。
みな、まだまだ、貧しかったが、人は協力し合い、助け合いながら生きていた。
親は、子供を育てることに必至であったし、子供も親の愛に感謝をしていた。
たくさん料理を作れば、隣近所にお裾分けをする。
知らない子供でも、悪い事をすれば、大人は叱り、注意した。
子供たちは、大人達みんなの財産であった。
まだまだ、社会はゆったりと動き、町には人の愛が、至る所に溢れていた。
いまは、社会全体が歪で、殺伐としている。
人々は、社会の不正にも怒らなくなり、無関心である。
世界が急速に進化・発展しても、人間社会はアナログ文化。
人間と人間の、温かい心の交流が、いまこそ、復権しなくてはいけないだろう。
「ALWAYS三丁目の夕日」を見て、そんなことをつらつらと、考えさせられた。
そして、私たちの世代が、あと残された人生で、伝えなくてはいけないことが、山のようにあるはず。

2006年元旦・呑龍さまへ参詣
2005/1/1−2<日ー月>
義重山新田寺大光院<呑龍さま>
慶長18年 (1613)、徳川家康が新田氏の祖、新田義重を追善供養するために創建。
浄土宗で本尊は阿弥陀如来。
開山は呑竜上人、芝の増上寺で修行。
山門の葵の紋所が、徳川将軍家ゆかりの寺であることを示しています。
貧しい子供たちを、弟子の名のもとにを引き取って育てていたことから、「子育て呑龍」とも呼ばれ親しまれている

大阪城落城の日に上棟したことから、吉祥門とも呼ばれる。
葵の紋所が徳川家の所縁であることを示す
今年も正月は秩父で過す。
去年は、大晦日に出かける予定だったが、空前絶後の大雪。
久しぶりの雪景色、静かな東京の正月を過した。
2005年のピーポッポの大晦日、大勢のお客様と盛り上がり、新年を楽しく迎えられた。
勿論のこと、我々は朝帰りだ。
家の近場の神社で、新年のお参り。
すでに人影はなく、焚かれた火も消され、境内の御幣の白い紙がヒラヒラと舞、ひっそりと静まりかえる。
冷たく凍えるほどの境内の霊妙な空気、神妙に、鈴を鳴らし、背筋を正し、柏手を打つ。
境内の風景
家に帰り、テレビを見ながらの一杯の酒は最高だ。
朝風呂に入りながら、酒を飲み、一年の懐旧の念に浸るのも楽しい。
頭から湯を浴び、我ながら、無病息災、一年を過ごせた事に、おおいに感謝。
すでに、夜は明け始めている。
早く布団に入らなければ寝不足になる。
今日は出来るだけ早く、秩父に出かける予定だ。
案の定、何時ものこと、起きてみれば、すでに正午は過ぎている。
私は、朝刊を読み終わり、昼飯を作って、食べ終わる。
運転をするのはママだから、彼女の行動に全ては帰結する。
やっとのこと、準備も出来、出発したのは午後の三時過ぎ。
だが、今日の運転は、娘がやってくれる事に。
お清めの水盤を支える童子。皆、柄杓で水をかけている
私とママは後ろの座席。
前は、娘二人で雑談を交わしながら、楽しそうに運転。
娘の運転は安心していられる。
ママは車線変更が大好き人間。
隣の席に座る人間にとって、車線変更は、結構怖い。
娘は、あまり変更をしないから気持が良い。
道路は、意外と空いている。
空はどんより曇り空。
太陽を閉ざす厚く暗い雲は、今にも、雪を降らしても不思議ではないほど。
すいすいと車は進む。
大光院の本堂
ママはのんびりとうたた寝気分。
何時もは自分が運転。
他人の運転する後部座席は、最高の気分だろう。
川越を過ぎ、日高に入る頃、さらに日は落ち、外気はだいぶ冷え込んできた。
正月の元旦、さすがに車は少ない。
東京から2時間あまり、正丸トンネルを通過。
秩父はもうすぐそこ。
一月の深い山間の下り道、車は滑るように進む。
彼方には秩父の市内が顔を出す。
秩父の夜祭から、すでに一ヶ月近くが経過したのだ。
元旦の秩父市内は以外に静かでのんびりしている。
秩父夜祭のあの熱気と狂騒、まるで夢幻、蜃気楼のようだ。
本堂前、皆、お線香を焚いて、思いおもいの処へ、お線香の煙をなで上げている
今は、ゆったりとした時間が流れている。
姪のミホちゃんと秩父駅で落ち合うことに。
すでに時はとっぷりと暮れ、秩父の厳しい冷気が体を押さえ込むほどに感じる。
姪っ子を乗せ、満員の我が愛車は、一路、秩父市から小鹿野町へ。
冬枯れの荒涼とした荒川にかかるハープ橋を渡り、急傾斜の九十九道を、キュイーン、キュイーンとエンジンを軋ませながら上る。
左手には、今来たハープ橋の向こうに、黒く霞む秩父連山を背景に、キラキラと煌めく百万ドルの夜景が広がる。
いつもながら、この景色のイルミネーションは感激的で、幻想的ですらある。
さすがに、此処で駐車し、景色に見入る人が絶えないはず。
きっと、行政も危険を感じたのだろう。
最近になって、展望台と駐車場が設置されている。
それ程に、此処の夜景は美しい。
だいぶ、日も落ち、疎らになった境内
車はどんどんと、深々と冷え込む空気を突き抜けるように進むと、そこはミューズパーク。
この時間、広い公園には人影もなく、照明や街灯が、ただ寂しそうに、凍えるように灯っている。
ここから、狭い昔ながらのくねくねと曲がる、急勾配の道を抜ければ、目的地、ママの実家がある。
到着した時、時間は八時を回っていた。
どんよりと、重たく雪でも抱えているような雲が空を覆う。
厳しい山間の、突き刺すような風が、肌を刺す。
やっと、無事到着。
玄関を開けると、実家の人たちが待っていた。
そして、やっと、我々の正月が、今から始まる。
私&ママ。ママの骨折した足にギブス
懐かしいおせち料理が、掘り炬燵の上に。
そして、隣に作られた炬燵にも並べられる。
ママの実家、三橋家の人たち、ママの姉妹、そして子供たちと、元旦の祝宴が始まる。
御節料理をつまみながら、燗酒の献酬は楽しい。
あれやこれやのとりとめもないもない会話を交わしながら、さしつさされつのお酒の献酬。
それは、日本古来の素晴らしい文化。
そして、仕上げには、やはり、正月はお雑煮。
秩父の新鮮な野菜、鶏肉、そして、こんがりと焼きあがった餅。
コシがあって、伸びがあって、つやつやテリがあって美味い。
農協で搗いた餅、さすが。
昔懐かしい本物の餅に出会った感じだ。
樹齢300年の松
そして、雑煮のあと、またまた、私は酒を飲み始める。
正月は楽しい。
何時から飲み始め、何時終わっても、皆が笑顔で許してくれる。
これが、ハレの日の嬉しいところ。
皆はトランプゲームを始めている。
何しろ、大勢の参加、おおいに盛り上がって、楽しそうだ。
最近、何かと、世の中が殺伐として、人々の心はバラバラ。
暗く悲しく、笑顔の少ない、無表情の人間達が増えている。
こうして、大勢が、単純なトランプゲームに、嬉々として興ずる姿は、美しくさえ感じられる。
人と人の温もり、交感、触れ合い。
農耕民族の日本人は、一番大切にしてきたものではないのだろうか。
みんなでパチリ!
酒も心地よく回り、うとうととついついうたた寝。
起きてみれば、すでに、一時をとうに過ぎていた。
さすがに、ゲームも終わっていた。
深夜のテレビでも見ながら、軽く飲みなおし、元旦は終わった。
明日は、皆で、群馬県の呑龍さまへ、新年のお参りに出かける。
翌日は9時頃に目がさめる。
朝飯のおせち料理をつまみながら、熱燗の酒で、またもやおめでとうの新年。
今日は、群馬県の呑龍さままで、遠出の計画。
朝から、あまり飲んでいては、せっかくの小旅行も台無しになる。
そこそこで、酒は切り上げお雑煮で〆る。
外は、どんよりと黒く重たそうな曇り空。
何時、雪交じりの氷雨が降ってもおかしくない天気。
ほのぼのした、屋台のある、参道の風景
11時頃出発。
三橋のユウちゃんの車、ランドクルーザーで出発。
運転は勿論ユウちゃんだ。
総勢8人。
車はギッシリ一杯だ。
こんもりとした冬枯れの山。
かすかに流れる川の水は凍てつき、凍っているようだ。
最近は秩父でも、滅多に、川が凍るのを見なくなった。
やはり、地球の温暖化のせいなのだろう。
小鹿野から皆野を通り、バイパスに入り、皆野・寄居トンネルを抜ける。
昔ならば、秩父市内から長瀞に出て、荒川の渓流沿いの国道の片側一車線の道を行かなければならなかった。
道沿いに、時おり走る機関車が、モクモクと黒煙をはき出しながら、シュシュポポ、シュシュポポと走る雄姿は懐かしい。
右手には、荒川の清流が流れ、長瀞の石畳の景観を眺めながらのドライブには情趣がある。
だが、この道が渋滞したときは悲惨だ。
逃げ道がない。
左は山で、右手は荒川。
本堂前の賑わい
バイパスを通れば、長瀞を通過せずに、いっきに寄居に抜けられるのだ。
寄居から140号線、通称彩甲斐街道、埼玉と山梨を結ぶ国道。
反対にずっとずっと突き進めば、雁坂峠を越えて、甲府に向かう昔ながらの街道。
熊谷から、目的の太田市に向かう。
すでに、時間は2時近くになっている。
これから、目的地、呑龍さまへの旅は、車のナビが頼り。
呑龍さまで入力ると、ナビゲートしてくれる。
見ていると、目的地に向かって行くさまがよく分る。
そろそろ、呑龍さまに到着してもよい筈なのだが、いっこうにそれらしきものの出現はなし。
近づいている筈なのに、町には、初詣の賑やかさ、華やかさの風情もないから不思議だ。
でも、確かに、ナビは目的地の近くにきている事を示している。
くるくる回ると、ラーメンの呑龍が出現した。
皆、変に納得。
ナビの機械は呑龍ラーメンを認識していたのだ。
またもや、振り出し。
もうこうなるとお手上げ。
誰も、正確には、場所をしらない。
たよりは、40年も前に、三橋のママさんが行ったという記憶だけ。
帰り道、利根川にかかる、橋からの夕陽
そこで、三橋のママさんが、携帯で検索。
やっとのことで、呑龍さまをヒットした。
その目的地呑龍さまとは、大光院というお寺さまのようだ。
ナビに、大光院とセットしたら、すぐさまナビは正確に誘導。
半信半疑で、誘導のまま進むと、そこは呑龍さまの駐車場があった。
今度こそ、間違いなし。
参拝客がたくさんいた。
駐車場に車を止め、呑龍さまへ。
思ったほど人ごみはなし。
もう、3時も回っている。
こじんまりとした山門を潜ると、屋台が建ち並ぶ参道が続く。
そぞろに、皆でぞろぞろと歩くと、大光院の正殿がある。
手を清めて、参詣の人々の流れのまま進む。
帰りに寄った、何でもある、大きなお店
きっと、大晦日から元旦にかけては、人の波で境内は、立錐の余地のないほどに、混雑していた事であろう。
賽銭を投げ入れ、お線香を焚き上げ、無病息災を祈って、体中にお線香の煙を絡ませるように撫で上る。
日本の古き風習は楽しい。
この時は、皆、信心深く、そして従順で、童心に帰ったような、嬉しげな顔をしている。
本殿の階段を上り、お賽銭を投げ、神妙な気持で、今年の安寧を祈願。
最近は、何故か無心で手を合わせらるようになった。
やはり、それなりの歳になったせいなのだろう。
変な欲を持たず、おのれのすべき事をなし、それで、少しは、人の役に立てればと、少しは思いえるようになった。
きっと、虚心坦懐の境地も、理解し始めてきたのかもしれない。
一時は、雪でも降りそうな空模様だったが、何とか天気は愚図つきながらももってくれてありがたい。
さすがに、群馬の寒さは、やはり、尋常じゃない。
日も落ち始め、底冷えする。
境内をぶらぶら、屋台でも覗きながらの時間つぶしは楽しい。
やはり、ハレは日常とは一味も二味も違った、テンションの高さ、響き、色合いがあって心が躍る。
呑龍さまから帰り、大勢集まった、三橋家
昼食時はとっくに過ぎている。
帰りの道のり、皆もだいぶ小腹がすいてきた。
ここらで、ラーメンでも食べようかと衆議一決。
すると、大きな看板が出ていた。
佐野手打ちラーメン。
さっそく、車を右に切り、寒々として、遙に広がる田んぼを、切り裂くように真っ直ぐの一本道。
しかし、行けども行けども、ラーメン屋はない。
すこし、みな不安になる。
何キロ走ったのだろうか、諦めかけた時、ラーメン屋は出現した。
田舎の距離感は大雑把なもの。
東京だったら、フザケンナと言うほどの距離でも、地元では当たり前なのだろう。
物事は、きっと、これくらい大雑把で、のんびりしていた方が、精神衛生上、良いのだろう。
可愛い孫を抱く、三橋の、通称・ニーさん
ラーメン屋に入る。
玄関には、たくさんのサイン入り色紙が飾ってある。
きっと、この地では、有名店なのだろう。
広い店、ランチタイムを過ぎたせいで、客は殆どいない。
私たちは、奥の座敷に陣取る。
皆、さまざまなに注文。
私は、佐野青竹手打ち・醤油ラーメンに餃子。
運転しない私だけが、生ビールを注文。
何時も、すこし、悪い気がして気がひけるのだが、気持ちよく許してくれるから嬉しい。
やがて、それぞれに、思い思いのラーメンがきた。
最後に残って、朝まで飲んだな  マイちゃん&ユウちゃん
ラーメンの麺は、さすがに、手打ちだけあって、シコシコチリチリで私は好きだ。
ただ、スープが薄口の醤油味。
すこし、味にコクがなく、物足りない感じ、私は醤油をさす。
私だけでなく、他の面々も、やはり物足りないようだ。
餃子は、厚めの皮はパリッと焼かれ、中には、小ぶりだが、ギッシリと詰まった肉。
噛むと、ジューシーではないが、モッコリとした歯ごたえ。
ニンニクの香ばしい香りが、口の中に広がるが、けっして、強すぎず、なかなかの味で美味しい。
腹ごしらえも終わり、
でも、誰も、呑龍さまが何所にあるやら正確には知らない。
これから、秩父に帰るのだが、正月二日の帰り道、まだまだ、楽しい寄り道がある。
そして、脳天気な私は、酒をチビリチビリ飲みながらのほろ酔い加減で、来た道を秩父に戻る。
秩父の皆様、何時も何時もお世話様。
新年早々のほろ酔いをお許しのほど。