「キングダム オブ ヘブン」
2005.05.16

今日は墓参りに出かけるつもりが、寝坊する。
このところ、朝帰りが多く、少し疲れたからまあしょうがないかと納得。
計画は急遽変更。
板橋サティーで映画でも観よう。
インターネットで捜して見ると、封切りピカピカの「キングダム オブ ヘブン」があった。
なかなか面白そうだ。
上映は18時50分。
十二分に時間はある。
大相撲を見てから出かければ充分。

やはり今日は日曜日。
キップ売り場には小さな列ができていた。
こんなことは初めてだ。
以外に、今日は混んでいるのかも。
私たちは、列の後ろを指定して購入。
歳をとると便利なこともある。
なんてったって、二人で二千円なりのシルバーチケットは、感動的に安い。
売店で、ママはチーズ味のスモールのポップコーン。
ビッグなんて人間の食べる量じゃないよ、ほんとに。
スモールサイズで充分だ。

だから、アメリカ人はデブッチョになるのよなんて、失礼なことをのたまう。
私はホットコヒー。
酒を飲みすぎると、翌日はきまって下り腹。
まだ、物を咀嚼し消化する自信がないから、コーヒーで我慢。
NO10番の劇場に。
中はガランとして、つい数えてしまった。
10組もいない。
なんと言うことか、ビックリ仰天。
やがて、照明が少しずつ落ち、観客席は暗くなった。

上映が近づくにつれ、だんだんと客席は埋まるが、やはり、ガラーンとした状態に変わりなし。
やがて映画は始まった。
スクリーンは幅一杯に広がり、まさに大画面で映画が展開し始めた。
やはり、映画の醍醐味は劇場でしか味わえない。
中世の十字軍の話だ。
娘を失い失意のどん底の中、妻までも自殺。
やり場のない悲しみを抱えた鍛冶屋の青年のところへ、本当の父親が尋ねてきた。
実の父は高潔な名君につかえるエルサレムの領主。
自分の継承者になってくれること懇願。

しかし、青年ははきっぱりと断る。
だが、自殺した妻を地獄から救うためには、選択肢は一つ、エルサレムに向かうことであった。
そして、海港メッシナからエルサレムを目指すが、暴風雨に会い船は難破。
浜に一人だけ打ち上げられられた。
ここから、青年が一人の勇者としてたちあがり、正義の騎士になる壮大な話しが始まる。
船が沈没する前、父は航海の船上、死の今わの際で、息子に継承の印の剣を手渡した。

この剣は騎士の象徴。
やがて、苦難の末、父の使えた王家に従い、自由な国、理想の王国の建設を始める。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、全ての宗教が共存できる争いの無い平和な国を。
しかし名君は若くして、病に倒れる。
名君は騎士に王位継承を求められるが、騎士は己の信念のもと拒絶。
強硬派で独善的で狂信的な、名君の妹の婿が王位を継承。
領土拡張と富の簒奪の野望に燃える新王は、イスラム教のサレセンの大軍の殲滅に立ち上がる。
やがて、サラセンの狡猾な作戦にしてやられ、部隊は全滅。

サラセン軍の作戦を見破り、エルサレムに残った騎士は、エルサレムの城塞都市を死守することになった。
父から言い渡された言葉、「自分の信念と正義のため。そして民衆のため」に立ち上がる。
たとえ、自分の犯したことが、キリスト教の教義から逸脱していたとしても、
今は民衆を救うため、民衆の命と生活と自由のために戦うのであるならば、神はきっと許してくれる。
そして、神が存在しているとしたならば、正義の戦いであるならば、きっと我々を護ってくれるはず。
圧倒的に不利で絶望的な状況のなか、武器をもったことも無い民衆を、城砦の尖塔から鼓舞する。
自分の命、自分たちの自由、自分たちのエルサレムは、自分たちの力で護らなければならない。
座して待っていても死があるのみ。

ここから、戦闘シーンの大スペクタクルが始まる。
時代考証はしているのだろうが、投石機の異常な大きさ、城壁に飛び移る塔の大きさにはビックリ。
中世の戦争が長年月になるのは、兵士の多くは農民であることによる。
戦争は農閑期に行なわれ、農繁期は一時停戦なんて悠長なものでもあった。
また、砦の城砦を乗り込んでいくのが難しい場合は、
城砦の下に坑道を掘って侵略したりする長期戦であった。
まあ、娯楽大作・大スペクタクル巨編だから野暮を言うのはよそう。
戦闘シーンはダイナミックに展開。

時代考証がどうのこうのというよりも、大画面に繰り広げる壮大なドラマはやはり圧巻である。
西部劇など単純なストーリー好きな我にはピッタリ。
勧善懲悪など、若い頃は馬鹿にしたものだが、今は分かりやすいドラマが一番。
昔は分りにくいものが芸術、分かりやすいものを読んだり見たりすると、
フザケンナ!と腹が立っていたのだから、今とはえらい違いだ。
シナリオそのものにもだいぶ無理があり、ドラマの展開の仕方はかなり強引で荒いがまあいいか。
でも、これがアメリカの超娯楽スペクタクルの面白0さ。
どでかく荒々しい大スペク巨編ならではの醍醐味。

しかし、この映画自体、アメリカのイラク侵攻を批判しているようなところが随所にある。
聖地奪回の大義名分のもと、エルサレムへ向かう十字軍。
じつはそれは他国への侵略であり、領土の拡張と富の簒奪以外の何物でもない。
世界の警察を気取る覇権主義のアメリカ・ブッシュ政権が、イラクの石油の権益を確保したいばかりに、
核保有を画策すると決め付けた独裁者フセインを、世界平和の名のもとに制裁の大儀のもとに侵略。
今でもイラクに血みどろの混乱と無政府状態を引き起こしていることは周知の事実。
まさに状況は酷似している。

また、随所に、聖職者の偽善性と醜悪さを描写しているところはかなり辛らつでもある。
まだ、アメリカの娯楽大作にもアメリカの良心が健在なのを知って、何故かほっとする。
神は愛と正義と信念の人を創り出したのではない。
愛と正義と信念の人の中に神はやどる。
そんなスピノザ的汎神論が根底に流れているのかもしれない。

私がクラプトンに似てるからって、どうして怒るの
2005.05.5

二年位前の話かな。
ヨコスカさんが友達とやって来た。
本当に久しぶりの来店だった。
「イマモトさん、如何してるかな。会いたいな」
「呼んでみましょうか。ひょっとしたら、来れるかもしれないし」
私は電話をしてみた。
幸運なことに、店で再会できることに。
「イマモトさん、元気そうですね。変ってないですよ」
相変わらず元気なヨコスカさん。

少し甲高い張りのある声は、バリバリの現役デザイナー兼プロデューサー。
そんなこんなで、居合わせたみんなも、ヨコスカさんのペースで盛り上がる。
そんな時、ヨコスカさんが危険な言葉を発した。
「マスター、クラプトンに似てるよ」
その瞬間、みんなの目が点に!
「え?、マスターが」
「嘘だよ!、どこが?」
「そんなこと、絶対にないよ。私、昔から大好きなんだから」
「マスターが似てるなんて、絶対に許せない!」

集中砲火がヨコスカさんへ。
あまりに、非難が大きく、攻撃も激しい。
さすがのヨコスカさんも堪らず放った一撃!
「あたしね、昨日、クラプトンのライブ、一番前で見てきたんだから」
あまりの反撃に、一同ビックリ!
「あたしも芸術家のはしくれよ。目はしっかりしてるんだから」
その時、私ははたと発見した。
じつは、私はクラプトンに少し似てるのかも知れないということを。
そして、そのあと、ママの実家の秩父へ、正月に出かけた。
お神酒も回って、こちらもだいぶハイテンションに。

音楽好きな甥っ子に。
「この前、俺、誰かに似てるって言われたのよ」
「誰かな」
「かなり世界的に有名。ミュウジシャン。教祖的かな」
「タムラさん、分った」
「早いね」
「ちょっと、ニ階に言ってくる」
二階からポスターを持ってきて、パッと広げた。
「タムラさん、これでしょ」

それは、紛れもない、クラプトンのライブのポスターだった。
やはり、俺は似てるのかななんて、コソバユイ感じもするが、決して悪い気持ちではない。
そして、新潟からツヨシちゃんが5/3の祝日に、ピーポッポにやってきた。
酒が入り、夜も更け、みんな佳境に入り、大いに盛り上がり始めた。
いつしか、誰かは誰かに似てるよ、なんてざれ話しになった。
調子にのって、「俺、誰かに似てない?」
煥発をいれず、タナカさんの彼女、「クラプトンに似にてる」
またもや、みんなあっけにとられ目が点!

「それはないんでしょう」
「マスターは、いいとこダンディーな井筒監督だよ」
またしても、可哀相に、猛攻撃に晒された。
「そんなことないわよ。だって、この前、ライブ観にいったばかりなんだから」
わたしも、「今のクラプトンのライブを見た人は、皆、分かるのよ」
「マスター、それはないよ。人によったら怒るよ」
え?クラプトンてそんなに凄いのかしら?
「クラプトン、とんかつが大好物だそうだから、奢ってあげたいくらい。俺、とんかつのことは詳しいよ」
「マスターったら、かなわないな、まったく」

「俺は日本人。日本に来た時くらいは、クラプトンが俺に似てるなんて言っちゃおうかな」
でも、私がクラプトンに似てると言うことが、そんなにいけない事なのですかね。
二十歳の頃は、ヒデ&ロザンナのヒデにそっくりだったおかげで、
結構いい思いをさせてもらったもののだが。
いまは、井筒監督に似てるからと言っても、笑いはすれど、怒る人は皆無なのに。
何故になぜに、クラプトンに少し似てると言うだけで、そんなにむきになって否定するのですかね。
思い切って、俺は大山のクラプトンだなんって言っちゃおうかな。
大変なことになりそうで、クワバラクワバラ。
それでも、似てると言われるだけでも、悪い気はしないから、まあ好いか、ひひひひひ・・・・・・・。