小さな旅&日記


越生梅林と顔振峠
2005.03.27<日>

越生梅林入り口
今日はなかなかの好天。
少し遅れてしまったが、予定通り、越生梅林に出かける。
時間が無いので、川越の市街地に入り、近回りしようとしたのがいけなかった。
かえって、迷路に嵌ったように時間をくってしまった。
やはり、昔から言うように、急がば回れの格言は正しいことを実感。
しかし、基本的な方向は間違えずに、何とか日高を抜けて越生梅林に到着。
午後4時はとうに回っていた。
駐車場に車を停める。
どうやら駐車場は無料のようでありがたい。
入り口に看板が出てる。
少し時期遅れで、だいぶ散っていたのは残念
間違いなし、ここが越生梅林。
越辺川<オッペガワ>がサラサラ流れている。
遠い昔、このあたりは朝鮮からの文化の伝道者・帰化人が多く住み着いた土地。
きっと、朝鮮語が日本語に転化したのだろうと、得意な自分勝手な解釈。
川沿いの梅林の下をそぞろ歩く。
優しく微かに吹き流れる風に、梅のやわらかな香りが鼻先を心地よくくすぐる。
昔懐かしい郷愁を覚えるのは、やはり日本民族の血なのだろうか。
もう日も力なく、風も少し冷たく感じる。
早い時間は、子供ずれの家族や老若男女でさぞかしや賑わっていたのだろう。
すでにこの時間、閑散としている。
梅にも、紅梅・白梅・枝垂れ梅・豊後などたくさんの種類がある
紅白や淡いピンクの梅花はすでに咲きほころび、すでに散り落ちているものも多い。
やはり、すこしだけ時季遅れになってしまったのだろうか。
ぷらりぷらりと梅の香りに酔いながら、ふわふわと土の道を歩くのは楽しい。
人間はもともと土に触れながら生きてきた動物。
アスファルトやコンクリートの道では、人間は知らず知らずのうちにストレスをためているはず。
人間の遺伝子は何十万年という時間の単位で作られてきたもの。
20年30年の時間の急激な文明の変化には、遺伝子も悲鳴をあげていることだろう。
越生梅林の観梅の全盛期に造られた「あずまや<休憩所>」を再現したという建物に腰を降ろす。
なぜか、ここを吹き抜けてゆく風は、たっぷり梅の香りをのせている。
逆光でママの顔が分らないいね あずま家に座った私
ママを呼んでみる。
「ここに座ってみれば。すごく香りが強いよ」
ママも同様に感じたらしい。
あずま家の屋根が香りを凝縮してくれているのだろうか。
もう充分に梅林を堪能した。
まだ時間がある。
はてさてこれからどうするか。
展望台からの遠景 不思議な形の展望台

ママが「黒山三滝に行ってみようか」
私達はさらに奥地の黒山三滝に向かう。
道はだんだんと狭くすこし険しくなる。
鉱泉宿も出現した。
機会があったらぜひとも寄ってみたいものだがと思いながら、いつしか目的地近くへ到着。
車での進入はここで禁止らしい。
滝までは片道1キロはあるらしい。
往復で2キロ。
もう日もだいぶ落ちてきている。
今日のところは諦めて、次回早い時間に来て滝を見に行くことにしよう。
この地は義経伝説とも所縁があるようでなかな魅力的だ。
ぜひとも次回は探索をしてみたい。
急遽計画を変更。
顔振り峠からの沈む夕陽 画像をクリック⇒拡大
顔振り峠へ。
今来た道を戻り、途中の2差路を右へ。
片側1車線の上り勾配の道を突き進む。
8キロ位で目的地へ到着するみたいだ。
やがて道は1車線になり急勾配になる。
グイーン、グイーンとエンジン音を響かせながら上る。
遙な山並みに金色の太陽が輝き、雲海を煌びやかに照らし出す姿は感動もの。
つい車窓越しに写真をパチリ!
さらに車は進むと、ひっそりと隠れるように集落が顔を出した。
どんな所にも人は住んでいる。
今更ながら、人間の逞しさを思いおこさせてくれる。
昔々、高貴な身分の落ち武者の一団が、人も通わぬこのような急峻な山里に隠れ住んだのだろう。
またもやかって極る私の妄想癖。
集落を抜けてさらに進む。
沈みかけた夕日を背景の私
もう集落もなさそうだ。
だいぶ高いところまで登りつめたようだ。
前方に茶屋が見える。
どうやら、顔振り峠に到着したようだ。
茶屋は3軒。
1軒はすでに閉まっていた。
1軒の茶屋は山を切り開き、秩父や山梨の連山を見渡すように建ってていた。
急勾配の鉄の階段を登ると店のテラスに出る。
家族3人ずれが休んでいた。
遙彼方に煌々と太陽が輝き、幾重にも重なる山脈を照らす。
私はビールと湯豆腐を注文。
ママは雪見蕎麦を。
沈みかけた夕日を背景のママ
瓶ビールを飲みながら、テラスごしに見渡す広大な夕陽と、山脈の繰り広げるパノラマは美しい。
山を吹き渡る風も少し肌を刺すようで冷たいが、自然の霊気をたっぷり吸った風は優しい。
暫らくして卓上コンロに乗った土鍋が運ばれてきた。
主人が言うように、地元産の木綿豆腐がドカッとサービス盛りで入っている。
カチンとガスをつける。
ママの蕎麦もやってきた。
なかなかボリュームもあり、蕗の薹の天麩羅がどしっと三つも入っている。
やはり、早春の蕗の薹は美味しい。
春の味は苦味だ。
ついでに、蕎麦もご相伴に預かる。
シコシコ、ギシット歯ごたえがある。
これは本物の手打ちだ。
こんなに人里はなれた峠の茶屋で、本物の蕎麦を食べられるなんて望外の喜び。
すでに沈んだ夕日の残光が美しい
店の若旦那は話し好き。
遙彼方の山脈の説明を、柔らかい口調で、的確に教えてくれる。
右の切り立った高い山は武甲山。
中央が山梨の山。
天気が好ければ、真ん中にドシーンと富士山が見える。
ズーッと左手は丹沢。
店主の言うように、あれほど輝いていた黄金色の太陽が、嘘のようにストーンと消えてしまった。
山脈は夕陽の残照のシルエットの様で美しい。
日が落ちると、何となく風も心なし強く、寒々しくなるような気がする。
隣の家族も帰ってしまい、私達だけが残った。
きっとここもそろそろ店じまいなんだろう。
名残惜しいが、私達も退席しなくてはいけないと思うのだが。
顔振茶屋の店内
まだ少し余韻に浸りたい気持が、「すみません、お酒1本いいですかね?」
「どうぞどうぞ。冷やにしますか?」
「お手数ですが、燗でお願いします」
「お酒は武甲だけになりますけど」
「お願いします。なにせ、酒飲みは節操が無くてすみません」
竹製の徳利と同じく竹製の盃がやってきた。
またしても、サービスですと言って、大根と人参の浅漬けに、ほうれん草のおひたしがついてきた。
幾重にも幾重にも重なった山脈は、水墨画の世界のように幽玄な風情。
人間の幸せは美しい自然に抱かれながら生きること。
それが一番なのだろなといたく納得。
確かに、美しい自然に恵まれたところほど、生活するうえにおいて、不便で大変なことは事実なのだが。
テラスに残された私は燗酒を飲みながら、何故か心地よい寂寥感に浸りながらチビリチビリ。
酒も終わる。
まさか、もう1杯という訳にもいかない。
ひっそりと佇む店の看板
すると親父さんが登場。
「旦那さん、いい身体しとるね」
「お邪魔してます」
「まあ、わしの酒じゃ。飲んで下さい」
店主の親父さんが登場し、私の徳利になみなみと注いでくれた。
親父さんはマグカップに入れた酒を飲んでいる。
私は注がれた酒をグビグビと頂く。
店主が大きなガスストーブをつけてくれた。
身体がグーンと心から温まってきた。
親父さんが昔のことを語り始めた。
13歳で王子の酒屋に丁稚小僧で働き始め、毎日家が恋しくて布団で泣き明かした日々。
そして、50数年前に、顔振り峠に茶屋を出した時の苦労。
雨の日も風の日も、下の吾野の町から自分はサイダーを2ケース。
奥さんは1ケース背負って2時間、茶屋に運ぶ辛さは筆舌に尽くせないほど辛かったそうだ。
だが、今は舗装道路も完成し、まるで夢のようだと。
昔を語る80歳の老人の目には、うっすらと涙が光っている。
「私は倅に何時もいっている。商売は正直にしなきゃいけない。それが信用という財産になる」
かれこれ、親父さんと1時間以上は話しこんでしまった。
私達もそろそろ此処を辞さなくてはいけない。
「親父さん、今日は色々な話しをありがとう御座いました。また、必ず来させて頂きます」
親父さんが両手を出した。
私も両手で親父さんの手をしっかりと握った。
今は老人の手だが、暖かい温もりの中にも、骨太でガッシリトした労働者の手を感じた。
「旦那さん、また来てよ。必ずだよ」
「暖かくなったら、必ず来ますから。親父さんも元気でいて下さい」
会計は2310円なり。
顔振茶屋の大旦那と。さすが仕事をやり遂げた80歳は神々しい
画像をクリック⇒拡大と
3千円を払い、お釣りはチップでとも一瞬思ったのだが、この好意は金で払ってはいけない。
次回来る時に、親父さんに美味しいお酒を1本届けたほうが、
どれほどか綺麗な感謝の表現ではないだろうか。
私が会計の間に、親父さんはオレンジ・ジュースを2本持ってきていた。
「帰り道、このジュースを飲みなせえ」
「ありがとう御座います」
私の気持ちもウルウルしてきた。
「この道は暗いから、奥さん、気をつけて帰ってくださいよ」
私達は階段を下り駐車場へ。
寒空のした、テラスの端から、親父さんはまだ私達を見守ってくれている。
「気をつけて帰りなさいよー」
「分りました。親父さんも元気でー」
車は駐車場を発進しようとするが、親父さんはまだ手を振っている。
私も窓を開け手を振りながら出発。
私達が見えなくなるまで、ずっとずっと手を振ってくれているのだろう。
なにか、ズシンと人の情愛に触れた様で嬉しさがこみあげて来る。
親父さんは言っていた。
遙下に見える吾野の町の日
「旦那さん、お酒っていいね。あっしは60になるまで飲まなかったの」
きっと、毎日の労働がきつくて、酒を飲む状態でなかったのだろう。
「旦那さん、あっしは刑務所に入ったことは無いけんど、毎日の生活は刑務所の様だった」
親父さんたちの夢は、毎日ゆったりと風呂に浸かりたいことだそうだ。
顔振り峠にはまだ水道が通っていない。
毎日、下からタンクで運ぶのが日課で重労働らしい。
何時の日か、遙彼方の山脈と雲海を見渡しながらの入浴が実現することを願ってます。

何時の日か、チャンピオンを育ててください
2005.03.16<水>

かつての名ボクサーカシアッス内藤が、咽頭癌にかかっているそうだ。
1970年代の日本ボクシング界のスター選手、東洋ミドル級の王者でもあった。
そして沢木耕太郎の「一瞬の夏」のモデルにもなる。
沢木氏はこの作品で作家の地位を不動にした。
カシアスは人気ボクサーでることは勿論、才能にも恵まれていたが、ここ一番の勝負に弱かった。

それも、彼の優しさと誠実さが、勝負師として災いしたのではないかと、酷評する人たちもいた。
アメリカ人の黒人との混血ボクサーは、リングを離れて紆余曲折の人生を歩む。
だが、現在は多くの人々の援助に支えられながら、
横浜に「E&Jカシアス・ボクシングジム」を今年の2月にオープン。
練習生も少なくまだまだ赤字のようだ。
これからが大事な時。

しかし、現在は重度のがん患者で、手術が必要だそうだ。
だが、手術したからと言って、長い寿命を保証してくれる訳ではない。
さらに、手術をした場合、舌を切除しなければならない。
話すことは勿論、食事をとることも不自由になることは必定である。
ならば、よりよく充実した人生を送れるならば、
たとえ1年の命でも、立派に納得のいく人生を生きることを選択。

病に冒されながらも、一瞬の残された時間であったとしても、
より美しく充実した人生を生きたいと希求するする姿に拍手を送りたい。
末期がんの宣告を受けている苦悩は計り知れないが、
病に屈せずに明るく生き続ける姿には、神々しささえ覚える。
一瞬のボクシイグジムのオーナーでは終わってもらいたくはない。
自分の果たせなかった永遠の夢、世界チャンピオンをカシアス内藤氏が、
何時の日か必ず育ててくれることを楽しみに待ってます。