小さな旅&日記

「55歳、人生の始めかな」 
7月9日(火)
去年の9月、ママが入院し、大変に暑い暑い秋を迎えました。
毎日、病院やら自転車通勤やらで、私も何かと疲れていたのでしょうね。
店を終え、朝の4時頃から、他所の店で飲み始めたのがいけなかった。
ドローンとしながら、目を覚ましてみてビックリ!
ウエストバッグに入っていた財布が、そっくり抜け落ちている。
つり銭、売上、カード、免許証、全てパーである。

酔っ払って、道路にズリズリッと、顔面から突っ込んだのか、メガネのレンズにキズがついている。
ほんの僅かなキズでも、目の前に蝶がフワフワと飛んでいるようで、いたく見にくい。
お陰さまで、メガネもソックリ新調することと相成った。
何とも、今回の酔っ払いは、大損をこいたものである。
いい歳をして、情けないことだと、その時だけは、いつもの事で、大いに反省する。

その時、紛失届を出していた免許証を、7月2日、江東試験上に、再交付に行く。
高島平から、地下鉄の三田線で大井町まで行き、乗り換えて東陽町まで出かける。
違反をした訳でもないのに、なんで東陽町くんだりまで、このクソ暑い時に
行かなきゃナラネエンダ!なんて、少々憤慨しながらも、シブシブと出かける。
手続きは一時間あまりで終わり、まだ4時。
時間は、まだ少々あるようだ。

よし、木場から門前仲町くらいまで歩いてみよう。
プラプラと知らない町を探検するのは、なにかとてもワクワクする。
意外なところに、思わぬものがあったり、何時も気になっていながらも、
なんとなく行かずじまいで過ごしてきたものに、偶然に出っくわして、
ビックリ、感動!感動!なんてことがよくある。
だから、ブラブラ歩きの、「街の探検」はいつも楽しい。

ブラブラと25分ぐらい歩いただろうか。木場に到着する。
学生時代、クラスの同級生の家に、遊びにきた事がある。
私の学生時代だから、押して知るべし。何十年も、前の話しだが。
彼の家は、木場の材木問屋で、今風に言えば、若旦那である。
彼曰く「木場も問屋をたたむところが増えてきているよ。それも、昔からの、
大所が結構、店じまいをしている。

うちなんかは、親父の代で始めた店なんだけど、何とか頑張ってるみたいだ」
当時から、すでに、優勝劣敗の資本主義の原理が、昔ながらの木場にも吹き始めていたのだ。
そんな彼も、今は新木場で、大旦那として立派に店を構えている。
バブルの頃は、大変に儲かって、羽振りが良かったみたいだ。
先日、会った時「今は、新築の家が建たないので、この商売芳しくないね。
有るのは、含み資産だけ。

たまに、いい話しがあれば、貸し倒れなんて事になるし。こんちは、バタバタしないに限るね」
そんなこんなで、木場はもうすぐ、夏祭りである。
辻のあちらこちらに、富岡八幡様の祭礼のポスターが貼ってある。
神輿の担ぎ手の募集と、担ぎ手の股引きやら脚半などの指定が色々と書いてある。
そうか、富岡八幡宮は、すぐこの近くにあったんだ。
昔から、気になっていた八幡様である。

私の誕生日は8月13日であり、富岡八幡様も祭礼の時期を同じくしていたからだ。
何時かは、行ってみなければと思いながら、ついつい、行かずじまいになっていたのだ。
そうだ、今日こそ、お参りをしてこよう。
「しおみ橋」を渡る。
護岸工事がなされて、何の変哲もない橋だが、昔は、彼方に江戸湾を見渡し、
潮の香りを嗅ぎながら、はるか彼方には、富士山を仰ぎ見れたのかもしれない。
木場の豪儀な旦那衆、背中に彫り物をしたいなせな鳶や大工が、
この橋を往還していたのだろう。

橋を渡ると、憧れの富岡町である。
きっと、この近くに、八幡様はあるはずだ。
そんな予感が不思議と働く。
やがて、昔懐かしの、下町の純情商店街がひらける。
どうやら、門前仲町まで続く商店街のようだ。
私は、一人合点した。
「そうか、富岡八幡様の門前にあるから、門前仲町なんだ」
大変なことを発見したようで、エラク嬉しくなった。

人は、思いもよらない発見をすると、子供のように嬉嬉とするものである。
でも、何時までも、こんなつまらない事にでも感動できる、童心を失いたくないものだ。
商店街をブラブラ行くと、堂々とした参道の入り口に出くわす。
そうそう、此処があの、下谷神社の千貫神輿より更にでかい、
日本一の千貫神輿の富岡八幡宮である。
私は少し興奮しながら、参道を進む。

7月23日(火)大暑、一年で一番暑い日だそうな。
言われなくても、クソ暑いわいなんて、喚いてしまいたいほど、
焼け付くように、まったくアッチッチー!
参道をまっすぐ歩いて、50メートルも来た頃だろうか、左手に大きな銅像がある。
ナンじゃ、この爺さんは。

草鞋脚半で、背筋をシッカリと伸ばして、威風堂々と手を大きく前後に振りながら、
何処へやら、元気に出かける姿のようだ。
銅像には、伊能忠敬と打ち込まれていた。
202年前の寛政12年閏4月19日、陽暦1800年6月11日、早朝、忠敬の一行は、
富岡八幡宮で参拝して、未開の地、遥か彼方の蝦夷地に、測量の旅に出立した。
忠敬、齢55歳の時であった。
佐倉から50歳にして江戸に出て、黒江町、現在の門前仲町1丁目に隠宅を構え、
日本全国の測量のたびに出たのである。

そう、私も8月で55歳になる。
こんな偶然に、意味深な55歳に遭遇させてもらい、何か今日一日、八幡様に感謝したくなった。
人間は熟慮の末、思い立って、何かを行動するとき、其の人にとっては、ピカピカの元年である。
何時も、何かに向かって行為し、進んでいく時は、新鮮な驚きと発見をしながら、
新しい生命を生きつづけることが出来るのではないのだろうか。
40歳を過ぎたら、自分で感じた歳が自分自身の歳であり、「俺はもう40歳になってしまった」
と感じた時から、心の退行が始まるのではないのだろうか。

「俺は、まだまだ55歳、やる事はたくさんある。自分の人生は楽しく生きなくては。
より一層豊かに生きるために、精一杯努力するのさ。人間のなす事に完成はない。
無限の未完成に向かって生きてゆくのさ」
人は毎日毎日、死のタナトスの世界に向かっているのではなく、日々,
生の謳歌のエロスの連続の果てに、ポカリと死の深淵が大きく口を開けているような気がする。
本当に何時までたっても、青臭くて嫌になりますね。
私の周りにいる人には、結構迷惑を掛けているのでしょうね。
皆様の善意と寛大な気持ちに、感謝!感謝!の毎日です。