小さな旅&日記
2002年3月 
  
「もう桜の季節がやってきた」
 3月20日(水)
3月18日、光吉さんの試合の応援に後楽園に出掛けた。
春とはいえ、暖かい薫風が吹き渡る、すがすがしい天気である。
ついでに、足を伸ばして、白山通りから右折して、外堀通りに出る。
後楽園ホールを右に見ながら、通り越して一路九段へ。

千鳥が淵の桜は、このところ首都高からしか眺めていないので
、直に桜並木を散策するのは、何年ぶりになるのだろうか。
此処の桜は、お堀とのコントラストが秀逸である。
桜の幹も太く、古木の風格があり、会場芸術派の日本画の巨星、
川端龍子(1885-1966)の描く豪華絢爛な桜を彷彿とさせる。

並木の側の路上に車を付けて、ママさんと桜並木に出る。
やはり、予想どうり桜はまだ2分咲き程度で、花見の人出はまばらである。
今週の週末辺りは、桜も咲き誇り、お花見の見物人で溢れかえっている事だろう。
来週の週末はそろそろ桜も、風に吹かれて、桜吹雪のようににちりじりに舞い、
お堀の水面は桜の絨毯のように、光輝ていることだろう。

桜並木の遊歩道にも桜が敷き詰められ、桜花のクッションが何故か、
身体にしみ込む様で、怖い気がきっとすることだろう。
ズッシリと桜の香りでむせ返るように臭う、桜花の絨毯をキュッキュッと歩いていると、
坂口安吾の「桜の森の満開の下」に描かれているように、桜の下には死体が埋まり、
異様な妖気が漂っているような、空恐ろしい不思議な気持ちになるものである。

私たちは、堀から吹く桜の香りのする微風を肌で感じながら、しばし休息をする。
早いもので、お正月が過ぎたと思ったら、もう桜の満開の季節が、すぐそこまでやって来ている。
急ぎも焦りもしないが、無理もせずにそこそこ気ままに、充実した一年にしたいものだ。


「男は、仕事のなかにも、ロマンで生きる」

火曜日の夜といおうか、ほとんど明け方に、テレビで収録したビデオを見る。
世の中では、大変に評判になってるらしい「プロジェクトX」なる、NHKのドキュメント番組である。
富士山頂に、巨大レーダーを備えた、気象観測のための、測候所建設の壮絶な記録である。
大成建設の現場監督と、気象庁の測候課長との、心の交流を太い横糸に、
現場監督と建設作業員達との緊張と友情を縦糸に、ドキュメンタリーは展開する。

冬の富士は、美しい景観からは想像できないほど、過酷な厳寒と予測できない強風の魔界の地である。
気温は零下20度以上、積雪は数メートルに達する。
レーダー建設のために、1年をとうした調査が必要になった。
大成建設の現場監督をチームリーダーとして、調査隊が編成される。
登山経験もない調査隊は、なんとも無謀にも、冬の富士の調査に出発した。

チームリーダーは、家族にあて、遺書をしたためたそうである。
予定どうり調査は進められ、冬の雪にも突風にも耐えられる
、頑強な測候所建設のロマンを実現することへ、ゴーサインの決断は下された。
そして、工事は着手されたのであった。
期間は、富士の気候条件が比較的安定する、夏の2ヶ月間だけである。

一刻の猶予はない。
夏の富士は、雷が気が狂ったように炸裂する。
作業員達は、身の危険を感じ契約を解除し、下山しようとした。
雷は怒り狂い、作業員達のヘルメットから、気味悪く紫色に放電し、ギラギラ薄気味悪く輝いていた。
一度しかない命、此処で無残にも、雷の餌食になりたくはないと思うのは、至極当然である。
しかし、現場監督は作業員に言った。

「人は、生きている間に、生きてきたことの証を残せたら、こんなに幸せなことはないではないか。
新幹線に乗り、富士を見たとき、あの山頂のレーダーは、俺達が1939に完成させたんだと
誇りに思えるではないか。家族にも、あの測候所は俺達が造ったんだと言える」
作業員達は、富士の夏山の恐怖に怯え慄きながらも、皆、勇気をもってレーダー建設を再開する。
やがて、地上で組み立てた巨大なレーダーのドームを、地上から、ヘリコプターで移送するクライマックスがやってきた。

数百トンのドームをヘリコプターで移送することは、操縦士にとっては命がけの行為であった。
泰然自若、鷹揚に構えた柔和そうな夏の富士山頂は、乱気流が渦巻き、突風が吹き荒れている。
良好な自然条件でも不可能な重量を、なおかつ、富士山頂という悪条件で遂行することは、まさに自殺行為である。
誰も操縦の引き受け手はいない。
「もしや、かつて、海軍航空隊にいた神田操縦士、彼なら引き受けてくれるかもしれない」
神田操縦士に白羽の矢がたった。

神田操縦士は、男たちの壮大なロマンに共感するとともに、かつて、海軍航空隊の教官として
、戦場へ送り出した多くの尊い若き航空兵達のためにも、敢然と要請をひきうける。
そのときの模様を語る神田操縦士の眼には、涙が込み上げ、涙を堪える瞳が静かにキラキラと輝いていた。
「私は、多くの若者を教官として、戦場に送り出した。若者達は、帰らぬ人となってしまった。

生き残った私で役に立つ事が出来るのなら、彼らのためにも何かしてやりたかった」
今はなき日本の侍のように、凛々しく端然と何かを噛み締めるように、とつとつと語る神田氏の眼に、
私たちが失い始めた大切な物を、なにか問い掛けているようであった。
1939年、現場監督と作業員達と気象庁の課長、
そしてヘリコプターの操縦士たちの命がけの努力により、富士山頂に悲願の測候所が完成した。

仕事の中にも、壮大なロマンをもって、夢を実現する男たちは、
まさに、富士に立つ神々しいギリシャの神々の様に燦然と輝いていた。
かつて、新田 次郎の小説「富士山頂」や「強力物語」で、
このドキュメンタリーと殆ど同じ話しを読んだ記憶ががある。

新田次郎、実は、ドキュメンタリーの登場人物の気象庁の課長藤原 寛人であり、私が20歳くらいの時、
劇団東演で演出家の八田元夫氏から、新田次郎の子供時代の事を良く聞いた事を思い出し、
このドキュメンタリーを不思議な感慨をもって見させてもらった。

八田氏のお父さんと新田次郎の父親とは、親しい友人であり、
お父さんの教え子に芥川龍之介もいたと話していたことを、私は思い出した。
この私が、20歳の頃とは。
なんとも時は無残にも、アッという間に過ぎ去って行くものであろうか。