「マスターの呟き日記」
2001年9月-12月
  
「海が見たいな、ママさん」
12月2日(日)

18日(日)快晴、今日は海が見たいな。
「ママさん、もし出来たらでいいのだけど、茨城まで行かない。俺、海が見たいんだ」
[今から?行ってもいいけど。時間もまだ早いから」

病人のママさんに、俺は無謀にも、茨城の大洗海岸を行きを頼む。
お人よしのママさんだから、嫌な顔もせず気持ちよく、承諾してくれた。
何処へ遠出するにも、ママさんの力に頼る、俺達の悪い習慣。懲りたはずなのに、サルの脳みそで、
咽喉元過ぎれば、すぐにも熱さを忘れる。

時間はまだ午後の一時、まだまだ時間は充分にある。
夜昼逆転の俺達の生活感覚では、この時間はまだまだ朝なのだ。
善は急げ、早速、車に乗り込み、俺はママさんの隣の席に,偉そうにデンと座る。
俺は、悲しいことに、免許証は原付だけなのだ。車の運転が出来ないテイタラク。

身分証明書の提示の時は、小心者の俺は、原付の印の処を隠したくなる。

板橋の外れの徳丸から、外環に乗り、常磐道を一路北進する。
ビュンビュンと軽快に飛ばす。
天気はドライブにはウッテツケ、久し振りの常磐道だ、何故か懐かしい感じだ。

一年半位前になる。
やはり、何故か急に海が見たくなり、午後の3時ころに大洗海岸に向かった。
海岸になんとか到着した時は、もうとうに日は暮れ落ち、真っ暗な海岸で、
貝殻を2人で拾って帰ってきたほろ苦い思い出がある。

「今日は、海岸には明るいうちに着けるね。こんなに早く出てきたんだから」
「また、浜辺で、たくさん貝殻を拾おう。そして、お店の玄関に置いておこうよ」
「そうだね、ヒョッとしたら、あの貝殻達がママさんと僕達を守ってくれたのかもしれない」

常磐道を40分くらい北上したあたりで、矢田部東PAで休憩をとる。
昨日、お酒を控えめだったせいか、とてもお腹がすく。

僕は醤油ラーメンで、ママさんはピリカラの味噌ラーメンを注文する。
「ずっとラーメン食べてなかったから、外でラーメン食べたかったの」
ママさんはとても美味しそうに、ラーメンを食べている。

ママさん、こんなに元気になってくれてとても嬉しい。
本当に、手術をしてくれた先生や、看護婦さんたちには感謝しなくてはいけない。
ママさんはもう一息で、元のママさんに戻れそうだ。

此処のPAのラーメンが、以外にも美味しかった。
麺もシコシコしてコシがあり、スープもアッサリ味でいながら、喜多方ラーメン風でなかなかいける。
ママさんの残した、ピリカラのスープも飲んでみる。
辛いのだけれども、尖ったズンと当たる辛さはなく、サラサラと爽やかなピリカラでちょっとしたものだ。
どうせ、PAのラーメンだからと見下していたせいか、エラク得をした感じだ。

茨城県のPAに置いてあった観光マップを頼りに、大洗の海岸にひたすら向かう。
まだまだ時間は充分にある。
初めて日のあるうちに、果てしなく広大な秋の海を眺められそうだ。

私達は、パーキングエリアで手に入れた、茨城県の観光マップをたよりに、目的地に向かう。
やがて、桜土浦ICで高速を下り、霞ヶ浦を縦断する計画をたてズンズンと車を飛ばす。
途中に、大きな公園があり、休日のせいなのか、車がギッシと路上に止められている。
好奇心の旺盛な私達も、車を止めて「光と風の丘公園」にぶらりと行ってみる。
気だるそうに大きな風車が、ユウックリと自慢げにトロトロと回っている。

僕は展望台に行って、望遠鏡で野鳥観察でもしたかったのだけれど、
ママさんはまったく無関心そうなので、未練を残しながら車に戻る。

いよいよ、湖を縦断して、大洗海岸の「潮騒はまなす公園」に向かう。
国道354をひたすら行けば目的地には行けるはずだ。
まだ時間は3時、充分に余裕である。

国道と言っても、名ばかりで単なる普通の道路、そろそろ着くはずの霞ヶ浦大橋有料道路がいつまで走れども前方に現れない。
はてまた、道を間違えたかと出来損ないのナビゲーターは少々不安になる。
国道がこんなに細くてガタガタの田舎道のはずは無いぞ、なんて心細くなる。
一本道、此処まできたら引き下がれねーぞなんて、私は気張っているが、運転してるママさんは、「アンタ、大丈夫なの、
たのむわよ」なんて、キット腹の中では言いながら、口には出さずにひたすら運転している。

もうそろそろ、頼むよ。
有料道路に出て湖水を渡らなければ、絶対に大洗には行けないのだから。
大いに不安になりながら、とにかく突き進む。

ママさんが、見つけた。
「ホラ、アソコに標識が。よかった、間違って無かった。」
口には出さないでいたけれど、ママさんも辿り着くのか不安だったのだ。
確かに出ている。「霞ヶ浦大橋」私は、ホッと胸をなでおろす。

料金の360円を払い、橋を渡る。
広い霞ヶ浦を渡るが、思っていたほどの感動が無い。湖水も汚れていれば、風物詩の香港のジャンク船のような帆掛け舟もいない。
アッというまに渡りきってしまった。360円、高いじゃないの。ふざけんなと憤慨しながら、北海に向かい、2番目の無料の橋を渡る。
いよいよ大洗の海がやがて見えるはずだ。

遥か右手に霞ヶ浦の北海を見渡しながら、さらにさらに突き進む。
やがて、湖上にオレンジ色に輝く夕日と、豪華絢爛とした王朝絵巻のように、雲海が夕日に黄金色に照り輝いていた。
俺も死んだら、きっとあの極彩色に光り輝く雲海の彼方に、消えていくのだななんて、不思議と感傷的になってくる。

余裕を持っていたはずなのに、あっという間に、またもや夕日を拝むことになってしまった。
早く行かねば、明るい海がまたもや見れない。嫌な予感がして来た。
「この道は国道51ごうだよね」「さっき書いてあったわ、だから、きっと大丈夫よ」
地図に描かれているように、右手には遥かに湖が広がっている。間違いは無いはずだ。

秋の日は、ストンと釣瓶落しのように瞬く間に落ちる。
アッという間に、暗くなってしまった。
アーアー、今回もダメだと諦めながらも、目的地に行くことだけは絶対に諦めないぞと、気合を入れる。

やがてさらに進んで行くと、わたるはずの無い橋を渡ってしまった。
なな、何故だ、大洗の筈が、潮来に来てしまったではないか。
まるで狐につままれたような可笑しな話だ。
どうやら、私達は海岸とは逆に進んでいるようだ。

「あなた、この地図大雑把でダメよ。本屋で道路の地図買ったほうかいいわよ」
エンエンと運転しているのはママさん、いささか疲れたのだろう。
まったくもって、こんなに今のママさんを酷使しちゃいけない。

本屋で地図を買い、店員の女の子に道を聞く。
田舎の子なのか、何故かモジモジして要領をえない。
ヒゲ生やした私みたいなオッサンは怖いのかなと思いながら、ショボショボと車に戻る。

やはり逆方向へ走っていた。
まずは手始めに、有名な鹿島神宮を通過しなければならない。そして、大洗海岸へ行くのだ。

もうあたりは真っ暗である。
最初の目的地、潮騒はまなす公園はとても遠そうである。どこか海は無いものかと思いきや、前方に「下津海岸」とあるではないか。

「ママさん、此処にしない。なんか寂しそうな気もするけど。君ももう疲れただろう」
私達はまだ見ぬ下津海岸へ寂しい人気の無い田舎道を進む。

デコボコした道の両脇には、民宿が建ち並び、寂しそうにスナックや小料理屋がポツンポツンと店を開いている。
夏の海水浴シーズンは、ピチピチ、ボイーンボイーン、ムチムチ、ムキムキの水着姿の若者達で溢れかえっているのだろう。
いまは、私達以外、人っ子一人もいない。

道がさらにデコボコするとともに、砂道になってきた。
すると、正面に防波堤が見えた。
突き当りを、ハンドルを左に切ると、正面に雄大で真っ暗な海が立ちはだかっている。

やっとの思いで、大洗の海に着いた。
他にも、何故か車が2、3台止まっている。
「きっと、しし座流星群を見に来ているのよ。ここで見たら綺麗ね」
そうだ、あと数時間で、流星郡の煌びやかな天体ショーが始まるのだ。

私達もここで時間が許すものならば、是非とも見たいものだ。
私達は、階段のようになった防波堤を、一番下の段まで下りて、夜の海を見る。
どす黒く盛り上がる波が私達を飲み込むように、グググと盛り上がりながら向かってくる。
大自然の迫力にたじろぎながらも、2人で暫らくの間、海を見ていた。

自然の壮大さに比べれば、私達の存在なんてたかが知れたもの。
そんなちっぽけな存在だからこそ、一回かぎりの生命を大切にしなければいけないのかもしれない。

「ママさん、こんだこそ明るく輝いた昼の海を見にこようね。そして、浜で貝殻を拾おう」

私達は、下津海岸を後にして、折角此処まできたのだからと思い、鹿島神宮に寄る事にした。
10分もすると、神宮の鳥居の前に到着する。

適当な所に、車を置いて、境内の参道を2人で進む。
私達以外誰もいない。何時もの事だけれども、大勢人がいるべきところに、まったく人がいないというのも、すこし寂しい気がするものだ。
境内は、シーンと静まり返り、ヒノキの大木が私達を包み込むようで、ヒヤっと冷たい。
樹の精たちがが何か私達に木霊のように囁いているようである。

百メートル位行くと、正面に堂々とした神社に辿り着く。
賽銭箱の横に書かれた参拝の仕方に則り、2人で神妙に拍手を打って手をしっかりと合わせる。

時間が時間なので、神社の奥は通行止めになっていた。
今度は必ず、この先をぶらぶらと散策したいものだ。
深い樹叢は動物や植物の自然の宝庫だそうである。丸一日使っても飽きる事がなさそうだ。
一番奥の奥の宮からは、広大な太平洋が遥か彼方に見渡せるのだろう。
私達は今きた人気の無い寂しい参道を戻る。

これでなんとか東京に帰れる。
千葉県の柏市から高速に乗り、東京へ帰ろう。

すでに、時間は7時を回っている。
東京までだいぶある。
ママさんも疲れているみたいだ。柏に着いたら、どこかで晩飯でも食べる事にしよう。
頼りない私のナビゲーションで、どんどんと夜の街道を突き進む。
やがて、利根川沿いの片側一斜線の真っ直ぐな道に出る。
軽快いにビュンビュンと、車を飛ばす。

アレ、この道柏へ行かないよ。
「ママさん、俺達逆へ走ってるみたいだ」「どうしてかしら。間違えるはず無いのに」
なにしろ、この道は土手沿いの一本道。ユーターンするにも、後ろからも前からも、車が切れ目なしにビューンビューンと飛ばしていく。
私達も、仕方なく後ろを突付かれるように、10キロ近くもまったく無駄な逆送を余儀なくされる。
やっとの事で、車をユーターンさせ、今きた道をイライラしながら戻る。

どうして2度までも、こうして道を間違えてしまうのか。
元きた道をしっかりと確認しながらもどる。
「ママさん、此処だよ。この道を右だよ」「ホラ、書いてあるよ。柏って」「ひどい標識だよ。
最初に来た方向には、標識がないんだから。何故此方だけにあるのかね。まったく役人は馬鹿なんだから」
憤慨しながらも、今度こそは柏に行けそうである。

「ママさん、拍で飯でも食べよう。こんなつもりじゃなかったんだけど、遅くなってしまって悪かったね。途中で少し休もう」
やがて、1時間もすると我孫子を過ぎ、やっとのことで柏についた。
なんとなんと、8時も過ぎてしまった。

駐車場に車を置く。
居酒屋で生ビールでもグビグビと飲みたいものだ。
前のビルの2階に和民がある。「和民でいい?」「何処でもいいわ。
早く行こう」「ママさん、あそこ、面白そうだよ。チョット行ってみない。歌舞伎町の白川郷みたいじゃない」

酒郷吉春と看板が出ている。
古めかしい木戸をくぐり、中へ入る。
とても広い店だ。お客様もビッシリと入っている。
昔の庄屋の屋敷のような重厚なつくりで、どっしりと落ち着いている。
私達は、庄屋屋敷の土間から上がるように、広々した座敷へ、ヨイコラショと上がる。

サービス係は、半纏を着た若い茶髪のお兄さんやルーズソックスのお姉さんたちだ。
店の雰囲気に合わないぜ、君達と思いきや、どの子も皆行儀よくなかなか感じが甚だよい。
今時の若者は、見かけで判断しちゃいけないよ、なんて思いながら注文をする。

「生ビールとウーロン茶をとりあえず宜しく」
やっとのことで、待ちに待った生ビールにありつけた。

色々と料理をつまむが、どれもなかなか丁寧につくられている。
地鶏の焼き鳥やレバーもシコシコ、ホクホク、プッチプッチと歯ごたえもよく、なかなかジューシーで宜しい。
河豚のから揚げも、サクサクとカラリと揚がり、器に敷かれた天紙もサラリと油が切れている。

マグロのなめろーやら海の幸がふんだんに盛り込まれたサラダの海賊サラダなど、ママさんは美味しそうに食べている。
最近、やっと少しずつ食欲も出てきたみたいだ。
私はグラスのビールを追加して飲み干す。
「スミマセン、真澄の純米吟醸」と私は注文する。
ママさんが一瞬「マタカ!」と顔が曇る。

「此処の主人きっと諏訪の人だよ。だって日本酒は全部諏訪の銘酒宮坂醸造の真澄だけだからね。
先先代の主人は広島大学で醸造学を学び、日本で最初に7号酵母開発した人だよ」なんて、
ママさんにしょうも無い説明を、いい訳のように語りながら、クビクビとさけをのむ。
「ママさん、ヒレ酒があるね。折角だから飲んじゃおうか」
ママさん「勝手にすれば。また始まった。しょーが無いんだから、まったく」という顔をしている。

ヒレ酒が蓋付きの湯呑に入れられて運ばれてきた。
「この季節は、やはりヒレ酒が一番だね」「お酒もいいけど、帰りがあるのを忘れないでね。しっかり地図を見てよ」
少々、ママさん、呆れ顔である。

どうして、どこでも、ヒレ酒はこんなに熱く燗をするのだろうか。出来るならば、燗どころも聞いてみてもらいたいものだ。
それに酒がベタベタと甘いのもいただけない。
河豚のヒレの香ばしさを引き立て、お酒の風味や持ち味を生かすためにも、
逆に辛口の本醸造等が良いと思うのだが、如何なものか。

ムム、当店限定の真澄樽生酒があるではないか。
「ママさん、コレ凄いね。限定樽生だって。一杯飲んでみようかね」「勝手にすれば」
「ソウダネ、あり難いね。帰りはチャントするからね」
塩を盛った角打ちで、チュルチュルと舐めるように飲む。「なかなか、この枡酒なかなかいけるよ。マイッタネ、本当に」
「アンタ、シッカリシテよ、私まだ身体本調子じゃないのだからね。また入院しなければいけないんだから。頼むわよ」なんて、
俺にママの眼が訴えているようだけど、飲み始めると、無責任にもダラダラと止まらない。
我ながら本当に困ったものである。

(一口知識。日本酒の燗について)

燗とは、火と水の間と書くように、熱燗は大体50度位とされている。
人肌とは、熟女の股の間に挟まれた時の温度とも?言われている。正確なところ、何度くらいなものであろうか。
出来れば、もう少し、若くてもよい気がしないでもないが。

雪冷え:5度、花冷え:10度、涼冷え:15度、常温:20度、日向燗:30度、ぬる燗:40度、上燗:45度、
熱燗:50度、飛切燗:55度位とされている。


1時間余、私は特に大いに楽しんで店を後にする。
会計は〆て6000円「コレは安いね、大当たりだったね」なんて酒飲みの厭らしさでママさんに擦り寄る。

これからいよいよ東京へ帰還である。
「チョット待ってて、コンビニに行ってくる」
ママさん、またかという顔をしている。
私はビールを3缶、ママさんへのゴマすり用にセブンスターを2箱買い車に戻る。

さー、出発である。
車のラジオが放送している。常磐道の上りは20キロの渋滞。
私達は日光街道から環七に出ることにした。
ナビゲーターの私は、気持ちよく旅心地で、1缶2缶と飲み進み、車が環七に出たころはだいぶ出来上がってきた。
「ママさん、環七にやっとでたね。もう真っ直ぐだから、分かるよね」

私は3缶めのビールを飲み干した。

「アンタ、着いたわよ」
眼をさますと、見覚えのあるいつもの駐車場に車は静かに止まった。
なんとなんと、11時になってしまった。
「ママさん、こんなつもりじゃなかったのに。お疲れ様出した」
ママさん本当に疲れたようだ。走行距離はなんと200キロを越していた。

流星群の天体ショーもあと3、4時間で始まる。
「ママさん、あとで此処で流星を見ようよ」私達は固く約束をした。

私は家に着くや、まだ懲りずに赤ワインを飲み、グッスリと寝込んでしまった。
グルグルと回るように訳の分からない夢を見ていたような気がする。

ママさんと子供達は、シッカリと流星を見たようである。

グニャグニャタコサンで、TOEIc990点、

11月8日 (先勝) 快晴 何もしないうちに冬が来そうだ、如何しよう

誕生花 せんのう LYCHNIS FLOS-CUCULI 花言葉 機知
誕生星 キファ・アウストラーリス ○キイワード・集中力・寡黙・謙虚☆行動力ある実直さ

この日生まれの著名人 若尾 文子(1933)キャサリン・ヘップバーン(1909)アラン・ドロン(1935)

1895年の今日、ドイツ人医師レントゲンがX線を発見する。
偶然にも、不思議な光線を発見したが、正体がが解らず、X線となずけた。

ケルト関係の本を探しにブラブラと池袋に出掛ける

池袋は都会だな、なんでこんなにビルが立ち並び、洪水のように人で溢れているのかな、
なんて田舎者の驚きで大いに感心する。

でも、よく考えれば、俺はズットずっと東京っ子の筈なんだけれども。

目的の本屋のジュンク堂の前に着き、エッ、これが全部本屋さん?
なんでこんなにデカイのなんて、まったく、目が点になるのが情けない。
デカイ本屋は、新宿の紀伊国屋か渋谷の大正堂、御茶ノ水の三省堂、銀座の近藤書店。
近藤書店が出てくるのはさすが、都会人の俺様、ザマーミロなんて、
田舎者になった江戸っ子はすぐに吼える。

天気は最高の散歩日和、まだまだ時間は充分にあるので、
この際、鬼子母神廻りでもしてみようか。
トロトロと明治通りを目白方面に向かい、トコトコと歩いてゆく。

アッと驚き、アレアレ、中村さんの学校が、こんなに池袋の駅近くに進出しているではないか。
ほとんど西武デパートの隣、出世したものだ。
「日本一のTOEIcの専門校」堂々とデカデカト看板がでている。

確かに、自他ともに、認める日本一のTOEIcの達人、
中村さんのESSENCE ENGLISH SCHOOLが威風堂々と存在していたではないか。

昔、彼と賭けをしたものだ。
「マスター、TOEICの試験で、僕が満点をとったら、僕の好きなボトル3本プレゼントしてくれる」
「いいよ。でも、中村さんが取れない場合、私は何もメリットないよね。
これは賭けにはならない勝負だよね。ボトル1本にしようよ」

TOEICのことを何も知らない私は、ウイスキーのボトルをケチる。
これが、ピーポッポのマスターのセコイトコ、自分で嫌になってしまう。

「マスター、何も解っていないね。990のスコアーをとるのは至難の業なんだけれども。
でも、いいですよ。約束ですからね。マスター何かメモ用紙下さい。チャン書いときますから」

ドロドロになるまで飲み明かして、ヘロヘロになりながら、その脚で試験会場に出掛けたのである。

「中村さん、もううちも終わりです、帰りましょうよ。今日は大事な試験でしょう。
帰りましょッたら帰りましょう。外は明るいですよ。なんか、外に出るのが恥ずかしい位ですよ。
帰ろうよ、ねー、ほんとに中村は馬鹿なんだから」

彼はヘロヘロと千鳥足どころか、クニャクニャタコサンで大山駅に歩いていきました。

そして数ヵ月後、彼が何時ものようにヒョウヒョウとピーポッポへやって来た。

「マスター、これを見てください、ホラ此処」

TOEICの試験のランキングの一番上に、中村 紳一郎の名前が、
エッヘン!とばかりにあるではないか。
ゲゲ、990点のフルスコアーである。ヤラレター!イッポン参ったー!

「マスター、僕の勝ちですね」
私は喜んで、彼の好きなマッカラン12年を、お祝いにプレゼントしたのである。

「マスター、ドロドロに酔っ払って、試験に行ったから良かったのかもしれません。
きっと、余計な緊張が取れたので、自然体でいれたのだと思う。
マスターの店で飲み明かしたから取れたのかもしれない。この事は一生忘れないと思います」
なんと、あり難いお言葉、賭けに負けた悔しさも忘れて感謝、カンシャ。

それからというもの、彼は自分の英語力をチェックするためにと、
絶えずTOEICの試験を受けているが、990点をとるのはいとも簡単になったようである。

それにしても、ヘロヘロのグニャグニャでよく取れたものですね。
私には、才人のことは、本当にもって解りません。

何時もグニャグニャタコサンでいい仕事ができるなら、
このワタクシめは、どんなにすごい事か出来たのでしょうかね。

「男は諦めもカンジン」

10月19日木 

私の辞書に不可能という文字がないはずのナポレオン、
モスクワからフランス軍撤退を開始。
この時から、ナポレオンの凋落が始まる。

久し振りに、昔でいえば、ヘルスセンターのような「お風呂の王様」に出掛ける。
何時もであれば、ママさんが送り迎えしてくれるのだが、仕方なく、テクテクと山あり谷ありの徳丸地区より、
限りなく埼玉県に近い下赤塚地区まで歩いて出掛けた。

驚くなかれ、¥650でジャグジーやらサウナやら、露天風呂につかるやら、ビーチシートで居眠りするやらで、
4時間余のリラクゼーションアワーを過ごす。
これ以上、風呂に浸かっていたら、多分ふやけてフニャフニャのコンニャク状態になっていただろう。

風呂を出て、2階の休憩所で、枝豆とモロキュウを摘まみながら、生ビールをチビチビ飲んでいると、
ヤヤ!ナントナント、私好みの、小股の切れ上がった、腹だしルックに片肌出しのティーシャツ、
ピチピチのジーンズ穿いた、ながい茶髪のネーサンと言うのか、オカーさんといえばいいのか迷う、
男の心を弄びそうな、魅力的な年の頃なら38位の女性が現れたではないか。

何故か、一人。、几帳面に自分の座るテーブルを一生懸命に拭いている。
オネーサンには似合わないよ、なんて言ってあげたいのだけれども、余計なお世話。
いい女だけど、きっと男は苦労するよななんて勝手に思い込む。

係わり合いになりたくないね、小心者の俺は見てるだけで充分。
結婚なんかしたものなら、ノイローゼ、命ちじめて、墓場いき、クワバラクワバラ。
彼女は一人テーブルに座り、何を思うかタバコを気持ちよさそうに、深々と吸い込み、ゆっくりとゆったりと紫煙を吐き出す。

暫らくすると、見たところ35か6歳の子供ずれ、昔風の色男が登場する。
男は生ビールのジョッキを持ち、彼女のいるテーブルにヤワラ座り、静かにビールに口をつける。
2人の可愛い女の子は、それぞれ丼物をテーブルに運び、とても美味しそうに食べ始めた。
何故か、一家団欒の楽しいひと時なのに、会話がない。

いったいどうしたことだろうか。
オネーサンのオカーサンはただひたすら、プカーリ、プカーリとタバコを喫っている。
色男オト-サンは物静かに生ビールを飲み、2人の可愛らしい少女は丼を啜り、
オネーサンオカーサンは、タバコをプカーリのプカーリと燻らせている。。

突然、クライマックスがやって来た。
オネーサンのオカーサンがスックとたち上がり、お風呂セットの入ったバッグを持つが早いか、
その場を立ち去り、後ろを振り向くこともなく、まっすぐひたすら早足で退場し始めた。
幼い妹は「オカーサン、待って!」と言いながら、駆け足で追いかける。
オカーサンは舞台からアットいう間に消え去り、幼い彼女は呆然と立ち尽くす。

やがて、気を取り戻したのか、トボトボと寂しそうにテーブルに戻る。
しかし、お父さんと長女はあたかも何もないかのように、生ビールを飲み、娘は食事をしていた。

そらみろ、やっぱしそうじゃないか。
だから、言ったこっちゃないだろ。男は苦労するって。

多分、下の娘は彼女の連れ子、上の娘は色男の連れ子。
女は男をつくり娘を連れて駆け落ち、しかし選んだ男はカイショなしの優男。
男に見切りをつけ、家を出る。
そしてスナックで働くこととなった。
一方の色男のオトーサンといえば、優しいがその根っからの優柔不断さに辟易した、
派手目の女房に、男をつくられ娘を置きざりにされて、男と駆け落ちの悲惨な憂き目を味わうこととなった。

毎日アンニュイで気だるい時を過ごしている或る時、彼氏は彼女の勤めるスナックに、
偶然にも何気なく入った。
何を語るわけでもなく、何時も物静かに男はスコッチウイスキーを飲む。
彼は店に、それ以来度々顔を出すようになる。

何時も、寂しげに酒を飲みに来る影ある男に、彼女は何時しかいとおしく感じるようになる。
境遇の似ている二人はやがて親密な関係になり、同棲を始め、2人の子供のためにもと籍を入れ、
はや3年の歳月が過ぎた。

時というものは残酷なもの、たぶん、彼女はまた男をつくったのかもしれない。
このせつない現実を甘受しているのだろう。なのに。
其れなのに、男をつくってサッサと砂を蹴って女は無情にも去っていく。

色男のオトーサン早く見切りをつけたほうがいいよ、未練をもって深追いは禁物。
オトーサンの声が聞こえそう。
「余計なお世話は止めてくれ、俺の気持ちが分かるわけないだろ、アンタ」

枝豆とモロキュウをツマミにチビチビとかってに想像をめぐらす、暇つぶしの一日でした。


(10月9日 曇り 秋色一段と深まる 誕生花はウイキョウFENNEL 花言葉は賞賛 
誕生星はコル・カロリ  シャイな慎重☆理想の人は頼りになる人、力強い人
☆1940年ジョン レノン1897年大仏 次郎誕生)
ピーポッポの誕生日

十七年前の今日10月九日、ピーポッポは大山に産声を上げました。
それまで、東上線の存在も知らず無謀にも、店を開店しました。
てんてこ舞いの、労多くして利益なしの情けなく、悲惨でいながらも、とても楽しい毎日でした。

試行錯誤や考え違いやら、思い過ごしやら飲みすぎやらの、
愚かで馬鹿らしい日々を繰り返しているうちに、なんとか17年という歳月が流れました。
開店した、その日に来ていただいた、涙が出るほど嬉しかったお客様達も、
今は皆子供を何人も育てる逞しいお父さんになっています。
あの頃はフサフサクログロだった頭髪も、白髪交じりはまだいいほうで、今では見る影もなく、
後ろに後退したり、頭頂部が恥ずかしげもなく剥き出しになったりした、
ご立派な親父になっしまいました。

当時、私も37歳でバリバリの働き盛りでした。
髪は勿論クログロフサフサ。
何故か、私より一回り下の年齢のお客さまが多く、店が終わると皆で飲み屋に繰り出し、
大騒ぎなどしたものでした。
夏には、秩父や奥多摩へ出掛けたり、新潟の海でキャンプを張ったりもしました。
そして、キャンプの後には、ラブラブのカップルが生まれ、
そくゴールインなんて目出度い目出度い出来事が度々生まれ、はたま結婚する前に、
ベビー誕生なんて賑やかなこともありました。

17年間の間に、私の店が間接的にも直接的ににも関係したカップルには、
今一体何人の子供達がいるのだろうか。
来年あたりは、全員集合して数えてみたいものだ。
しかし、未だに子供をつくろうともしないし、どうやらエッチもしないで、
手だけをただただ繋いでいるだけの、仲の良い夫婦も多いみたいだ。

アツアツのラブラブなら、そこそこの種があり程ほどの畑があるなら、
必然的に、なる様になり出てくるものは出てくるものと、ついつい当たり前に考えてしまうのですが。
最近の夫婦事情は、私達のような簡単なものではないらしい。
一緒のベッドに寝ていても、何も起きないらしいから、不思議な摩訶不思議な男と女の関係。
私達の時代の鮮烈な印象を残したフランス映画のヌーベルバーグさながらである。

私の店で出会ったり、デートしたり、楽しくお酒を飲んでゴールしたカップルは、
未だ誰も離婚という悲劇に遭遇していない。
確かに、子供をつくらないカップルは結構いますが、皆仲良く楽しく生活してるみたいです。
ただし、同棲したり結婚してからピーポッポにみえたカップルの場合は、
離婚したり、別離れたりのケースはたくさんありました。

私の店に来た時は不倫の関係で、やがてゴチャゴチャ、ハラハラ、ゴッツゴッツ、メソメソしながら、
やがて別離、私の店で出会いを重ね、結婚し、今は子供と三人で幸せに暮らしている2人は、
まさにピーポッポのシンボルみたいな存在ですね。

ながくて短かった17年間、皆様に大変お世話になりました。
これからも末永く、ピーポッポを可愛がって下さい。

ママさんが10月8日(大安)に無事退院しました。

まだまだ、完治までには時間が掛かりますが、とても元気になりました。
皆様に会えるのは、だいぶ先の事になりますが、ママさんも、早くピーポッポで、皆様と楽しいお酒を飲めるのを、心待ちしております。

18年目のピーポッポを、マスター&ママで頑張りますので、宜しくお願い致します。
(9月10日 台風15号が接近し、荒れ模様!)

自転車通勤も、意外と楽しいもの

ママさんが入院して以来、既に2週間が経過した。私は毎日片翼飛行で、
今にも乱気流に飲み込まれ、墜落寸前のキリモミ状態です。
幸いお客さまが沢山来店してくれているので、仕事に追われ余計なことを考えずに、ただひたすら仕事に向かえるので、
ナンとかカントか空中分解せずに、低空飛行をしています。

仕事を終えると、始発になることもあり、早く終われば、子供に貰ったマウンテンバイクで、
エンエンと大山より四つも埼玉よりの東上線の東武練馬まで帰る。

約六キロの道のりを、飛ばし飛ばして、30分で自宅に到着と相成る。
最初の一日目は、脚がパンパンに張り、翌日の事を考えるとゾットするが、
来た道はまた同じように戻らなければならないのが道理と言うもの。

私の住む徳丸8丁目地区は、アップダウンが激しく、四方八方何処へ行くにも、坂を避けてはいけない、
陸の孤島のような恐ろしくもノンビリした処。
尾長鳥は居るわ、山鳩は腐るほど居るし、朝はなんと高らかな「コケコッコー、コケコッコー」の時の声がする。

このあたりの小学生に、「狸が出たよ」なんて言っても、誰も不思議がらない。
其れもそのはず、板橋区で2番目に古い紅梅小学校の校庭を、今でもお狸様が堂々と御渡りをするそうです。
これでも埼玉に限りなく近いとはいえ、れっきとした東京。東京もなんとも広いものですね。
しかし、私が育った天下の世田谷の千歳もまったく今の徳丸となんら変わりありませんでした。

さて、いかに坂を避けて、大山に行き、また帰ってくるかが、今一番の大命題。
毎日色々な道を行きつ帰りつするが、この命題を解決することなど、絶対に不可能であるとの結論に達する。
それでは、坂をいかに無理せず楽に登りきるかという、小命題はいかに解決するぞや。
私は大発見をした。
私は小躍りするほど嬉しくなった。

答はいたって簡単、無理をして自転車のペタルを漕いで上がらず、自転車を押しながら歩いて上がるという事であった。
例え見栄えが悪く不恰好であっても、脚に負担が掛からず、翌日は絶対に楽である事間違えなしである。
今の逆境を乗り切るためには、自分流で無理をせず、必要以上に逆らわない生き方が必要なのかもしれない,なんて哲学的についつい考察。

しかし、バーテンダーの基本は体力である。
毎日欠かさずにやる、野口体操的柔軟体操、腹筋運動、片手の腕立て、
右左とも15回、親指と人差し指での腕立て10回、そして私の開発したバーテンダー体操。

日ごろ培った体力のお陰で、自転車通勤もだんだんと楽しいものになって行きそうな気がする。
何事も楽しいものに変えていく、肉体的精神的想像力は全てに打ち勝つのかもしれない。

これからまだまだ先が長い、頑張っていこう,オッス!

「ママさん頑張ってね
9月4日
ピーポッポのマドンナ、
ママさんの手術の日がとうとう来てきてしまった。

今日だけは何が何でも、早起きして、約束の時間前には行かねばならない。
前日と言おうか今朝と言うのか、朝の3時で店を切り上げ、少し仮眠を獲る。
そして6時半には目が覚める。

娘に頼んでおいたモーニングコールが、6時40分に入る。
私はブラウンの余り切れない電気剃刀で既にヒゲを剃っていた。
ピーポッポを6時50分に出て、大山駅から病院に向かう。
7時半頃病院に到着。

あまりにも早すぎるので、1階の待合所で、テレビのニュースを見て時間を潰す。
まだ少し早いとは思ったが、手術前の貴重な二人の時間だから、早すぎて迷惑なことは無いだろう。
私はママさんの病室を訪れる。
ママさんは既に起き、余裕かまして読書をしていた。

手術という差し迫った現実を、まだ実感出来ていないのだろうか。
とても明るく元気で、何時ものママさんとまったく違わない。
手術の前の下剤のせいか、何度も何度もトイレに行く。
そして、検温も度々とられる。

いよいよ、大変な手術が刻々と近ずく。
やがて、隣室に行き、いよいよ手術室に向かう白衣に着替え、なにか神妙にベッドに横たわる
看護婦さんが体温やら血圧やらを測り、いよいよ手術台に向かう時が迫ってくる。
ママさん、いよいよ手術を実感し始めたのか、だんだんと不安と恐怖で、顔も身体も強張って来た。

僕は彼女の手を両手で、ギュット握り締めた。
「僕らが付いているから、絶対に大丈夫」
それ以上声にならない。
泪が込み上げ、言葉にならない。
どんなことにも動じないママさんも、言葉がでない。

目には泪が滲み、頬を伝いおちる。

僕に出来ることは、ママさんの目をじっと見て、ただただ、手を握りしめるだけだ。
苦しいのはママさんなんだ、俺が泣いて如何するんだ。
やがて、看護婦さんがやってくる。
「いよいよね。旦那様も手術室までご一緒して下さい」
病室のドアーは開けられ、ベッドは静かに手術室に向かう。

5階から2階へ、エレベータは降下し、2階の手術室の前へ到着する。
「頑張るんだよ。皆で待ってるからね」
ママさんは、小さく頷くだけ。
ママさんの大きな瞳には泪が溢れ、私の顔をジッと見つめている。

「それでは、行ってきます。手術が終わるまで、5階で待っていて下さい」と看護師さんが言った。

手術室へ向かう大きな扉が開けられ、ママさんのベッドは吸い寄せられるかのように、手術室に消えて行った。
僕は、ママさんの姿を瞼に焼き付けるかのように、じっと消え去った扉を、何時までも何時までも凝視していた。
きっときっと、ママさんは無事に戻って来てくれる筈だ。
ママさんは気丈にも、「私、一人で大丈夫だから。貴方も子供達も、手術の後で来て。
多分、私、麻酔で寝てると思うけど。みんな無理しないでいいから」

私は、ママさんに言った。
「明日、僕は来るよ。僕の気持ちが許さないんだ」
僕は、やはり来るべきだった。
こんなに苦しく孤独な時を、ママさん一人にしておかなくて、本当に良かったと思った。

こんなにせつなく悲しげなママさんを見たことは、かつて一度も無かった。
早く、二人で一緒に、今まで通り、ピーポッポで働きたい。
僕らは何時でも、二人で一人前なのだから。