雨、情趣と荒び

2008年8月30日

午後の4時20分頃に、家を出る。
すると、横殴りの激しい雨が降っていた。
またもやの豪雨。
肌寒い日が続き、えっ?、これで今年の夏も終わりかと思いきや、
少しの夏がぶり返した。
夏が戻り、ほっと一息、嬉しくなったのもつかの間。
今度は猛雨、豪雨が襲う。

昨日の夜も、雷鳴がズドドーン、ズドドーンと鳴り響き、
閃光が光り続けた。
最近の天候は極端が過ぎる。
驟雨、霖雨、慈雨 、涙雨、緑雨、淫雨 など、
情趣に溢れた雨の世界とは程遠くなってきた。
日本の四季折々の、雨に綴られた風趣の世界も、
だんだんと薄れていくのかもしれない。

バケツをぶちまけたような雨の中、
傘もささずに、平然と歩く人や、自転車に乗って走り行く人もいる。
最近は、雨にも負けず、風にも負けずに、
何事もないかのように、道を歩いている人たちを散見する。
そんなに急ぐこともないだろう。
雨が収まるまで、どこかで雨宿りでもして、雨を眺めてはどうだろうか。
霧雨や小糠雨なら、濡れていても、何処か風情がある。
豪雨に打ちひしがれた姿には、
荒びの哀れさえ感じるのは、私だけだろうか。

お天道様、お手柔らかに
2008年8月29日

雨上がりの公園。
アブラゼミの大合唱がかまびすしい。
朝まだき、激しい雨にうたれた、木々の葉が眩い。
雨が染みた樹木からは、柔らかく、ミントのような香りが匂う。
爽やかに吹き抜ける風に、草木がそよぐ。

すると、何処やらか、ツクツクボウシの蝉の声。
最近は、滅多に聞くことのない、懐かしい鳴き声。
アブラゼミで夏は始まり、ツクツクボウシとともに、夏は終わる。

それにしても、今日の局地的豪雨は、すさまじかったようだ。
各地に甚大な被害をもたらした。
店を閉めて家に辿り着いた頃、空に閃光が、幾度も走った。
闇夜が一瞬にして、明るくなり、薄墨色の空が浮かび上がり、雲は銀灰色に耀く。

雷鳴は轟くこともなく、不気味に、稲妻が空を照らし出す。
まるで、革命前夜の予兆のような不気味さ。
そして、部屋に戻ると、激しく、雨が降り出してきた。
テレビでニュースを見ながら、酒を飲み、明け方近くに寝た。

起きてみれば、豪雨により、様々に混乱をきたしている。
これから先、まだまだ、こんな局地的豪雨が頻発するという。
秋になれば、台風もやってくる。
お天道様、お手柔らかにお願いいたします。


おめでとう!姉弟で双子の男児誕生!
2008年8月28日

「マスター、ママ、無事、双子が誕生しました」
kさんが嬉しそうに、報告してくれた。
今年の初め、戦闘機に乗っている弟さんから、聞いていた。
「マスター、どうやら、双子みたいです」
そして、8月15日の終戦記念日に、無事、誕生した。
お姉さんの携帯電話に、元気な男の子の、一卵性双生児君が写っていた。

「マスター、姉と弟が双子って、凄いでしょ。それも4人とも男って」
お姉ちゃんも、9年前に、双子の男の子を出産した。
それも、帝王切開ではなく、自然分娩で出産した。
双子の出産の場合、現在は帝王切開が多いという。
お姉ちゃんの子供は、2人とも、2620グラム。
弟さんの子供は、2300グラムと2400グラム。
一卵性双生児では、大きいほうだそうだ。

最近は少子高齢化が、社会問題にもなっている。
でも、このところ、私のお店のお客様には、
子供が誕生したり、近々、誕生する予定の人たち多い。
どうやら、ここに来て、やっと、新生児が増え始めてきたようだ。
最近は、幼稚園の児童も増えてきたと、お母さんたちが、嬉しそうに言っていた。
若いお客様たちが結婚する時、何時も言うことがある。
「結婚、おめでとう!新しい生活が始まったら、早く子供をつくってね。子供は国の宝だから」

子供の成長は驚くほどに早い
その成長する姿を見て、自分の歩んできた道のりがわかる。
そして、子供を育てながら、色々な事を発見し、教えられながら、親も成長する。
お姉ちゃんの双子君も、わんぱく盛りで、誰よりも元気。
身体も、同級生より、かなり大きく育っているらしい。
弟さんの双子君も、きっと、同じように、元気に育つことだろう。
もう僅かな沖縄の生活。
双子君に、たくさん、沖縄の美味しい空気を吸わせてあげてください。

蝉の一生
2008年8月27日

夕暮れも近い頃。
階段をあがっていると、
ごろりとお腹を出して、アブラゼミが死んでいた。
余りに見事な、枯れた死に様。
まだまだ強い陽光を浴びた蝉の死体。
足で踏みそうになり、ぎょっとする。

アブラゼミの蝉の一生。
地中で5年くらい生活ののち、
地上に出て、1週間の生の光芒。
暗い地中の闇の中、無音の生。
やがて、夏の光に誘われて、地上へ。
夏を彩るように、激しく鳴き響く。
蝉の声と共に、夏は始まり、鳴き声が途絶える時、夏は終わる。
暗く永い生の後、夏の耀きの中、短い一瞬の生を謳歌する。
大地に育まれた生が、一気に、地上の光の中で躍動する。

このところ、ぐずついた天気が続き、肌寒い。
まだ今は夏だが、まるで気候は秋の様子。
今日は久しぶりに晴れ上がり、夏の暑さがぶり返した。
そして、せみ時雨が、夏日を盛り上げてくれた。
余りの酷暑・猛暑は御免だが、
そこそこに、夏は夏らしくあって欲しい。

挨拶は感謝の気持
2008年8月26日

何時も降りる、三田線板橋区役所前。
改札口を通る時、改札口で、駅員の挨拶。
「ありがとうございました」
通る人すべてに、少し高めの声で、挨拶をしている。
声が明るいので、振り返ってみたら、けっして、若くはなかった。
改札を通過する、すべてのお客様に、声を掛けているのだ。
こんなことは滅多にない。
なにか、プレゼントを戴いた用で、気持ちが良い。

鉄道もサービス業。
お客様に、感謝の気持ちを持つのは、当たり前のことだが、
規模が大きくなるに従い、人は感謝の気持ちを失う。
どこかで、私達がやってあげているんだという錯覚に陥る。
私達の商売でさえ、店が繁盛して、店が大きくなったり、
順風満帆だったりすると、そんな陥穽に陥ることもある。
もちろん、そんな傲慢な気持ちを持つようになった時、
事業は破滅の道を歩くことになるのだが。
やはり、初心を忘れず、感謝の気持ちを持ち続けることが大切だ。

駅員の人は、素直な気持ちで、自分の感謝の気持ちを表現しているのだろう。
マニアルには、感謝の気持ちを忘れずにくらいは書いてあるだろう。
しかし、具体的に、改札口で、声に出して表現せよとは、きっと書いてないと思う。
駅員の人は、自分の判断で、感謝の挨拶をしているのだ。
些細なことにも、感謝の気持ちを持てる人は幸せである。
人の幸せは、感謝の気持ちの大きさに比例すると思う。
貧しい心には、貧しい人生しか訪れない。
感謝する心は、やがて、世の中のために、
何か役立ちたいという気持ちに変わるだろう。

それにしても、最近は、マニアルがないと、
行動のできない人が増えてきたのは問題だ。
マニアルは行動の最低の基準。
行為のの規範にはならない。
現実は複雑にして、大いに矛盾を孕む。
その時、現実に対処するには、
柔軟な自分の判断と思考に頼るしかない。

「小さな旅&日記」を更新
2008年8月25日


わが町、大山と野良猫
2008年8月23日

私のお店のある大山東町は、野良猫が多い。
猫好きの人にはたまらないようだ。
よそから、引っ越してきて、私の店に最初に来たお客さは、
一様に、嬉しそうな顔をして、私に言う。
「マスター、ここは、猫があちこちに居て良いですね」

夜中になると、自転車に、猫の餌を、
山のように積んで、猫小母さんもやってくる。
あちらこちらに、隠れていた猫達が、
にゃーにゃーと鳴きながら、子猫、親猫、
様々な模様の猫ちゃん達が、猫小母さんの餌に群がる。

或る日のこと、しばらくぶりに、猫小母さんがやって来た。
それまでは、深夜の決まった時間に、毎日現れていた。
今日は、どこか、おろおろ、そわそわ、周りの気配を気遣っている。
すると、猫小母さん、私の顔を見て言った。
「この前、突然、男の人に、コノヤローってぶん殴られちゃって」
その時できた痣が、頬に残っていた。

野良猫のために、餌を与える好意も、善かもしれない。
毎日の餌代だけでも、大変な出費は間違いない。
だが、住民にとっては、野良猫は迷惑の種であることも事実だ。
野良猫は、生きていても、寿命は5年くらいと言われているそうだ。
冬の寒さと夏の酷暑は、半端じゃない。
野良猫は、自分の力で、生き続けなければならない。

よく、猫派とか、犬派とか言われる。
私も、昔は犬派と思っていたが、
猫を飼っていれば、可愛さがつのり猫派にもなる。
動物とはそういうものだろう。
愛玩動物をペットと呼ぶ。
でも、どこか、人間の動物に対する、
一方的で、エゴイスティックな関係の響きがある。

猫派とか、犬派。
犬は、毎日、散歩をさせなければならない。
猫は、何時もマイペース。
そして、散歩もさせずに、自由気ままに放っておける。
やはり、手間いらずの猫に、私は軍配をあげる。
猫の、あの自分勝手で、飼い主に振り回されない、ふてぶてしさが好きだ。

「小さな旅&日記」を更新
2008.8.21

父親の車椅子を押して、競艇へ
2008年8月20日

ソルティードッグを飲みながら、Sさんが言った。
「マスター、明日、福岡へ帰ります」
「お盆に帰らなかったの?」
「お盆シーズーンは高くて」
「両親、喜ぶだろうな」

Sさんの父親は、5年くらい前まで、博多で、焼き鳥屋とお好み焼き屋をやっていた。
だが、5年位前、脳溢血で倒れた。
そして、毎日のリハビリにより、今は車椅子で、外出も出来るように回復した。
Sさんのお父さんは、若い頃から、競艇が大好き。
ほとんど負けないらしい。
競艇の帰りには、お土産やプレゼントを、Sさんの家族は貰ったもの。
今は、一人で出かけられないので、お母さんと一緒に、競艇に出かける。

でも、競艇場には、女性は少ない。
さらに、車椅子で来る人は皆無だろう。
お父さんの替わりに、マークシートに書いて、船券を購入しなければならない。
そして、船券が当たれば、大勢の男の人の列に並んで、清算しなければならない。

競艇場の雰囲気は独特だ。
お母さんは、あまり行きたくないようなのだが、今は、お父さんのただ一つの楽しみ。
嫌な顔もしないで、車椅子を押して競艇場へ行く。
「明日、家に着いたら、さっそく、母親の変わりに、競艇場へ、父を連れて出かけてきます」

東京から帰省した息子のお供で競艇場へ。
きっと、お父さんは喜ぶだろう。
車椅子に座るお父さん。
息子に分からないように、そっと、心の奥で、感謝の涙を流しているかもしれない。
そして、そんな親孝行な息子に育って、お母さんも誇りに思うだろう。
Sさんは、今年から、東京に研究に来ている。
心優しいSさん、やがて、きっと、素晴らしい研究論文を書くことだろう。

私の人生と趣味
2008年8月19日

私はよくお客様に聞かれる。
「マスターの趣味は何ですか?たくさんありそうですけど」
私には趣味はないと思っている。
何時も仕事と趣味が一致しているからだ。

若い頃は芝居をやっていた。
劇団に通い、そして、自分で劇団を作っていたこともある。
そして、自分の劇団のために、戯曲も書いた。
だが、芝居では生活できず、フレンチのサービスで、
ホテルや大使館など、いろいろなところで働いた。
負けず嫌いなので、そこそこ、フランス料理の勉強もした。
当時、フレンチのメニューなど、フランス語でかなり書けた。

やがて、芝居を辞め、業界紙の記者を少しの間やっていた。
その時初めて、世界経済のことなど、本気で勉強をした。
日本が高度経済成長で、世界に躍進する元気な時代。
日本の一流企業の役員と、インタビューなどをした。
何時も芸術論争に明け暮れていた私には、とても新鮮だった。

やがて、ひょんなことから、
フレンチのキャリアを買われ、料理屋の支配人になった。
今まで、まったく触れたことのない和食の世界。
寸暇を惜しんで、日本料理と日本文化の事を勉強をした。
日本の作法、料理の器、日本画、日本料理の歴史。

幸い私は湯島に住んでいた。
目の前に、国立博物館がある。
国宝級や重文級の作品が、平常陳列されている。
休みの時や遅番の時など、よく見にいった。
本物を見れば審美眼は磨かれる。
偽ものはすぐさま見切れるようになる。

支配人の仕事の一つに、器の購入がある。
磁器、瀬戸物、漆など、それぞれの専門店から仕入れる。
こちらが、品物を見切れなければ、仕事にならない。
季節の折々、座敷の床の間の掛け軸も、交換しなければならない。
そんな仕事を、9年間続けた。
おかげで、何時もヨーロッパ志向だった私に、
日本の文化伝統の素晴らしさを教えてくれた。
そして、3人目の子供が誕生した時、次の仕事を始めた。
それが、今の仕事だ。

最初の頃はお客様が来ず、想像以上に苦労した。
だがその時、腐らずに、本格的に、洋酒と向き合った。
振り返ってみれば24年。
やっとそれなりに、一人前のバーテンダーになったようだ。
しかし、いまだ、完璧にシェーカーを触れたと思った時はない。
きっと、何時か、これだと思えるシェークが、出来る時も来るだろう。

私の人生。
好きだから始めたのか、一生懸命、
努力してやってきたから、好きになったのかは分からない。
その時、その時代を、精一杯生きてきたとは思う。
ただ一つ、はっきり言えることは、
幸運なことに、仕事と趣味が一致していたという事。
これからも、趣味と仕事を一致させながら、愉しく生きていこうと思う。

夏と地球温暖化
2008年8月18日
一昨日、秩父から帰ってきた。
初日はとても暑かったが、帰って来る日はとても涼しく、朝方は寒いくらいだった。
昨年に比べると、秩父の夏は凌ぎやすかった。
夕方になると、ヒグラシの悲しげな鳴き声も聞こえた。
このところ、あまり聞こえなかったヒグラシの声も、復活していて嬉しい。

今年は、色々な所で、ヒグラシの鳴き声が、聞こえるような気がする。
東京でも、蝉の声が喧しく、大いに夏を演出してくれる。
昔は、東京では、ミンミンゼミなど、滅多に聞く事は無かった。
今はどこでも聞こえる。
やはり、地球温暖化なのだろうか。
関東地方では、滅多に見る事もなかった、
南方系のクマゼミの生息分布域も、かなり北上している。
茅ヶ崎辺りでは、かつて、大量発生した事もある。

地球温暖化の影響による、気温上昇と降水量の変化。
森林にも大きな影響を与えている。
日本の森林面積の17%を占めるブナ林。
このまま、平均気温が上昇すると、甚大な影響をうける。
世界遺産に認定された「白神山地」のブナ林も、
今世紀末には消滅すると言われている。

通勤と新聞小説
2008.08.13
私の家には、夕刊が4時頃に届く。
その新聞を持って家を出て、私の店へ。
大体は、ママの買い物ついでに、駅まで、車に乗せてって貰う。
そして、電車に乗っている間、新聞を読む。
最初に、まずは、連載小説から読み始める。
昔は、連載小説など読まなかったのだが、
読む週間がつくと、これがなかなか面白い。

決まっただけの小説の量の執筆は、さすがにプロ。
なかなかの技術だなと、可笑しな感心。
時間に追われてるのに、夕刊が来るまで、家で待機することも度々。
まずは、ストーリーの展開が面白い。
そして、話が二転三転して、一筋縄では、進んでいかない。
連載が進むにつれ、想像だにしない方向へ、話が広がっていく。
人物の性格も、深く、陰翳をもって描写される。
その登場人物が、憎たらしくなるほどにも描かれているから凄い。

私にとって、小説とは、基本的に、ストーリーの面白さである。
さらに、そのストーリーの骨格を成すものが、登場人物の深い性格描写だ。
新聞の連載小説には、読むものを引き付け、明日を待つほどに、読者を魅了する。
最近の小説には、そんな小説の魅力に欠けた作品が、多いように思う。
読者をぐいぐいと、作品世界へ引きずり込むような、骨太な作品が少ない。
今日は少し早めに家を出て、池袋で買い物をする。
だから、残念ながら、夕刊を持たずに出かける。
明日の朝までのお預け。。
毎日の数分、小説に触れる生活も愉しい。

私と8月12日
2008.8.12
今日で日航ジャンボ機が、御巣鷹山に墜落して23年が経った。
その日、私は女房の実家の秩父に、家族と共にいた。
今の店を始めて、まだ、1年足らずであった。
店はまだまだ軌道に乗らず、赤字続きの毎日。
幼稚園の年少組を筆頭に、3人の小さな子供がいた。

支配人の頃は、お盆シーズンは忙しく、なかなか休みが取れなかった。
家族全員で過ごす、秩父のお盆は初めてだった。
その頃、秩父の女房の実家は、古い家を壊し、新しい家の普請をしていた。
私達は少し離れた高台にある、姉さん夫婦の家に泊まっていた。
そして、私は終日、見晴らしの良い庭で、秩父の里山の風景を眺めていた。
朝昼晩、山里の風景は、それぞれに、異なった風情を見せる。

秩父の人たちは、私が飽きもせず、椅子を出して、
ただただ、景色を眺めているのに呆れるほどだった。
都会の喧騒から離れて、秩父の美味しい空気を吸い、
夏日に焼けた里山の土の匂いを嗅ぐ。
やがて、裏山から、遠く近く、ヒグラシの裏寂しく哀しげな泣き声。
風にそよぐ木々の微かなざわめきのなか、吹き渡る風も爽やかに流れる。
夏の陽光も傾き、遠くの山なみも、夕靄に暮れ始める。
山々には夕暮れの残光が耀き、
真っ青だった夏空も、柔らかな茜色に染まり始めた。

空はさらに茜色を濃くし、山なみの残光は微光に変わり、
山々は夕暮れの中、陰影深いシルエットを映し出す。
その黄昏の景色を見ながら、ふがいない自分自身に、心の中で涙する。
3人の子供を抱え、このままでは先が見えない。
自分で振ったサイコロの目は、自分自身で吉に変えねばならない。
人に相談すれば、悲しませるだけだ。
私も大きな店の支配人を、9年もやったプライドもある。
やはり始めたことは、最上とまでは行かなくても、
結果を出さなければならない意地もあった。

暗澹と重い気持ちで、日が落ち行く山々を、ただ漫然と眺めていた。
すると、夕靄を切り裂くように、1台のヘリコプターが、上空を飛んで、山なみの彼方へ。
次々と、ヘリコプターが、轟音をあげながら、低空飛行で飛んで行く。
数は途切れることもなく、夕靄の中に消えていった。
何があの山なみの彼方で起こったのだろうか。
不吉な思いを抱きながら、山なみを眺め続けていた。

やがて、山々は空と混じりあい、幽妙なな水墨画の世界。
月は中天に耀き、星がきらきらと耀き始めた。
ヘリコプターの音も途絶え、山里に静寂が訪れた。
翌日、テレビで、日本航空123便墜落事故を知った。
あの山の彼方が上野村。
そして、そこに御巣鷹山があった。

私は、毎年、8月12日が来ると、あの時の光景を思い出す。
あの苦しかった時があったからこそ、自分は少し強くなれた。
あの苦しい時代があったからこそ、一生懸命に努力した。
そして、私の店を、24年間続けることが出来たのだと。
この日が来る度に、私に初心を教えてくれる。

私の3人の子供達も、みな成人して社会人に育った。
今、こうして、かつての、苦しかったことを、思い出として語れるようにもなった。
明日、13日で、私は61歳になる。
健康だけには気をつけて、これからも、生涯現役で頑張りたいと思う。
<追記>
14日(木)から17日(日)まで夏休みします。
皆様も、良い夏休みをお過ごしください。

堂々とするとは?
2008年8月11日
この何日か、猛暑ではなく、少しだけしのぎよい。
黄昏時、駅への道。
いちじんの吹き抜け風が、気持ち良い。
公園の森の陰翳は深く、アブラゼミの声の大合唱。
道を走る車のフロントガラスが、ぎらりと陽光に反射する。

今週はオリンピックの話題満載。
毎日、マスコミの報道合戦で賑やかだろう。
昨日と今日、柔道と100メートルの平泳ぎで、二人の日本人が、金メダルを獲得した。
決勝まえから、私は二人の金メダルを確信できた。
やはり、向かって行くものが、違うのだろう。

向かうものは一つ。
それは己なのだろう。
そして、その先に、戦うべき相手がいる。
だから、堂々としている。
人間にとって、一番大切なことは、堂々としていることである。

言葉が通じなくても、堂々と日本語を語れば、
日本語を理解できない外国人でも、伝えたいことは伝わる。
卑屈になって、片言の外国語を使うよりは、理解してもらえる。
堂々としている人間に、人間の存在の大きさを感じるからだ。

堂々とするためには、やはり、自分が寄って立つ、精神の居場所が必要だ。
それが誇りであり、心の道である。
今秋は、私も14日(木)から17日(日)まで夏休み。
日本の歴史や心を、勉強しようと思っている。


Kさんの自分へのご褒美!
2008年8月9日
「Kさん、もう、開院して、1年はたちましたよね?」
「マスター、嫌だな。もうすぐ、2年ですよ」
「早いものだね。2年ですか」
「今年の10月24日で、ちょうど、2年です」
Nさんは、学部は違うが、偶然にも、私の大学の後輩。
私の店に来て、すでに、16年くらいはたつのだろうか。
当時は、大学を卒業して、サラリーマンをしていた。

建築会社の営業で、かなり優秀なセールスマンであった。
学生時代から、インドやチベットなど、アジアの旅をしている。
そして、ある時、突然、会社を辞めて、退職金を持って、大好きなアジアへ旅立った。
1年くらいして帰国。
私の店に、チベットで買ったお香を、お土産に持って、やって来た。
やがて、都内の最高級ホテルで、マッサージの仕事を始めた。
彼を指名する、有名なサッカー選手や、代議士もいるほどだから、腕は確かなのだろう。

そして、何故か、鍼灸の学校へ入学。
卒業して開院した。
彼は、バーボンのオールド・クロウが大好きだ。
何時も、ダブルのロックで、美味しそうに、ぐびりぐびりと飲む。
彼はサラリーマン時代から、アジアの人たちのために、義援金を寄付している。
いまでも、毎月、ずっと、続けている。

「僕がアジアへ行った時、たくさんの人たちに助けてもらった。
だから、僕に何か良いことがあった時、自分へのご褒美として、
その寄付金を、自分で決めた額だけ増やしています」
「Nさん、その心が大切なのよ。人のために、
何かをしてあげようという気持ちが、何時かは何かの形で生きてくる」
私の人生60年の、僅かな経験からも、偉大な事業を成功させた人たちは、何か世の中の役に立ちたい、
人のために何かをしてあげたいという、崇高な心を持っている。
自分を振り返ってみて、もう少し、その高邁な心を、私自身
が持ち合わせていたなら、私の人生もまた、変わっていたかもしれない。

「マスター、何処か痛かったり、だるかったりしません?。
一度、僕の鍼、うけてみて下さい。とても効きますよ」
「でもね、何処も痛くも痒くもないのよ」
「膝や腰も?」
「ぜんぜん。でも、だいぶ前、階段を上るとき、膝が痛いのよ。
これはまずいと思って、体操で直しちゃった。
その体操を、店に来る整形外科の先生に言ったら、誉められちゃった」
きっときっと、痛いところがなくても、豊かな癒しの時を、プレゼントしてくれるだろう。
学芸大学前、やはり、私にとっては遠い。
どなたか、学芸大学近くの方は、一度は出かけてみてくださいね。

宇宙の神秘と隕石
2008年08月08日

「隕石の研究ですか?」
「そうです」
私の店の近くに、極地を研究する、某研究所がある。
そこで、今年の4月から、研究生活に入ったNさん。
まだ、弱冠25歳。
隕石を研究することで、数億万年か数百億万年か知らないが、
宇宙の誕生や消滅の秘密が解明されるという。
それも、正確に解き明かされるというから、凄い話だ。

宇宙から、無数の隕石が、この地球上に落下してきていると。
Nさんも、2年後に、南極観測船「白瀬」南極へ。
そして、永い越冬生活をおくるらしい。
そこで、隕石の研究をする。
世界中に、無数の隕石が落下している。
だが、たくさんの物に隠れて、発見しにくいのが隕石。

南極には、障害物が、ほとんど存在しない。
氷結した大陸。
そして、大きな山脈がある。
凍てついた雪原に、隕石は降り落ちる。
やがて、雪原は春になると、一部、解け始める。
宇宙から、何万光年の彼方、降り落ちた隕石は、山脈の麓に押し流されてくる。

剥きでた隕石。
宇宙の秘密の謎の宝物。
たくさんの隕石を、労せずして、拾うことが出来るという。
そして、たくさんの隕石を解析することにより、宇宙の神秘が開け放たれる。

南極はやはり危険と背中あわせ。
危険地帯は、至るところにある。
クレバスは、大きな口を開けて、人を飲み込む。
間一髪、命からがら、クレバスの淵から生還した隊員もいたらしい。

隕石の研究って何?とよく聞かれるそうだ。
子供の頃から、星を見るのが好きだったNさん。
自分の好きな研究を、続けていけることに喜びを感じている。
「きっと、お金には縁はないでしょうが、やりがいのある仕事だと思います」
隕石とともに、宇宙の壮大な歴史の研究。
殺伐とした現代、若者の純粋なロマンに乾杯!をする。

私は、何処かへ旅した時、石を拾って持ち帰ってくる。
そして、店の玄関の横に並べてある。
山や川や湖の石。
それぞれに表情がある。
私に向かって、「拾っていっても良いですよ」と囁いている。
石には、石の精が宿っているようである。
良い気のある石を、拾うことにしている。

Nさんに、隕石の見分け方を聞いてみた。
隕石は鉄分が凝縮しているので、手で持つと、ずしりと、異常に思いらしい。
色は黒か緑。
でも、緑は滅多に見つからないらしい。
今度の私達の「小さな旅」の石拾い。
楽しみがまた一つ増えた。
今度は、ぜひとも、隕石を探してみたい。

ほんの僅かな、毎日の正座
2008年08月07日

毎日の体操の後、少しばかりの正座をする。
2年前くらいの或る日。
秩父で法事があった。

秩父三十二番法性寺の住職が来て、法要をしてくれた。
親戚の全員に経本が配られ、正座をして、仏壇の仏様に、お経を唱和することに。
ところが、如何したことか。
情けないことに、正座が出来ないのだ。
少し前までは、いとも簡単に出来たはず。

高校時代は、柔道部なので、冬場には、板の間で、永い間正座もさせられた。
それが、今は正座も出来ないていたらく。
日本男児として、恥ずかしいこと、この上なし。
その時以来、毎日、欠かさず正座をする。

最初は、足の裏に、お尻が乗らず、宙ぶらりんの情けない姿。
やがて、だんだんと、努力のかいあり、膝も曲がり、足の裏に、お尻がぺたり。
だが、まだまだ、乗せ続ける余裕などなかった。
やはり、努力は大切なもの。
今では、長時間、気持ちよく正座も出来るだろう。

正座をして、肩の力をするりと抜き、両手の掌を軽く乗せあい、親指を合わせ、円を描く。
頭を前に、ゆるりと垂らし、瞑目する。
その瞬間から、不思議なことに、外界の音が、すーっと薄れて、遠くなる。
道路を走る車の音さえ、彼方から、透き通るように、清澄な響きに変わる。
聞こえるはずもない、風のそよぎさえ、心で聞いているようだ。
ほんの僅かな正座。
心の澱を、洗い流してくれる。

平和は築くもの
2008年08月06日

夕刻、食事へ。
空はどんよりと重い雲に覆われえている。
何時ものことか。
用心にこしたことはない。
面倒だが傘を持って出かける。

すると、空はかき曇り、暗雲急を告げる。
やがて、大粒の雨が、傘を襲う。
傘を、ぶつぶつぶつっと、叩くようなリズム。
やはり、またか。
大山駅の踏み切りは、ラッキーなことに開いていた。
ハッピーロードのアーケードに、無事、退避した。

今日は広島に原子爆弾が投下された、63回目の「原爆の日」
日本は、ただ一つの原爆の被爆国だ。
私がまだ、芝居とかかわっていた頃、
私の友人は、8月5日深夜から、広島へ向けて、ティーチイン列車を走らせた。
まだJRは国鉄と言っていた時代。

特別急行列車を、3輌借りきり、
「愛と怒りのゼミナール」のタイトルの下、広島まで熱く語り合った。
夜中の人気深夜ラジオ番組「パックイン・ミュージック」でも、大々的に取り上げられた。
ティーチイン列車は、勿論、全車輌、満席。
車両のなかは、様々なテーマが、翌日まで、語られた。
社会には、いまだ、社会の変革を目指す、政治の季節があった。

戦後、63年。
太平洋戦争の敗戦という、日本の有史以来、未曾有の体験。
広島と長崎の原爆投下で、終戦を迎えた。
私の父親も外地で、現地招集された。
私の兄と姉と母親を、外地に置いて出征した。
そして、終戦。
命からがら、引き揚げ船で、日本へ帰国した。

父親は、暗号解読士だったらしい。
勲功をあげて、大きな勲章を貰ったと、お袋が言っていた。
親父は、余り、戦争の事を語りたがらなかった。
その親父もお袋も、今は他界している。
今から思えば、もっともっと、親父に、戦争の真実を、聞いておけば良かった。
2度と起こしてはいけない、惨酷で悲惨な戦争。

その戦争の愚かしさを、しっかりと、
私達は、次代の若者たちに、伝えなければならない。
戦争を体験した、私達の親の世代。
そして、その子供世代の私達。
次世代へ、真実の声として、伝えなければならないだろう。
最近の若者の2割方は、アメリカと戦争した事さえ、認識していないと言う。

日本の歴史教育には、大きな問題がある。
何処の国でも、国の歴史を正しく教育するのは、当たり前だろう。
日本がアジアに侵略したのも事実だが、世界で唯一の被爆国でもある。
そろそろ、日本の歴史を、義務教育の時から、しっかりと教える必要があるのではないか。
それを言うと、日本の左翼は、すぐに、教育の右傾化だと騒ぎ立てる。

日本の国の正当な歴史。
日本が犯した過去の過ち。
そして、これから、世界の平和に向かって、発信しなければならない責務。
平和は与えられるものではない。
自分達が、努力して、築き上げるものである。
他国の庇護の下、傘の下の平和の虚像は、何時かは無残にも崩落する。

わが店の前、大山東町の道路が渋滞
2008年08月05日

このところ、夕方の5時頃になると、ドドット猛烈な雨が降る。
昔ならば、季節の夕立と情趣もあった。
雨に煙る都会の姿にも、何処かほのぼのとした情感があった。
しかし、最近の夕刻の雨ときたら、バケツどころか、大樽をぶちまけたような凄さ。
跳ね返る雨飛沫。
道路は奔流で溢れ、玄関のプラスティック製のステップさえ押し流して行く。

この夏の狂ったような豪雨は、日本の雨とは思えない激しさ。
雨と鼓動するように、遠く近く、ドドーン、バリバリッと、雷が鳴動する。
食事を終え、外に出たら、猛雨だった。
道路を洗うがごとく、激しく降る雨。
遠くで、雷の閃光と轟音。

私の店への何時もの道が、大渋滞だった。
日曜日の早朝、首都高速で、タンクローリーが炎上した。
私の店から僅かな距離。
熊野町で、山手通りと川越街道が交差する地点だ。
そして、中仙道と環七も近い。

私の店の前は、その街道を繋ぐ間道になる。
江戸時代には、神奈川県伊勢原にある、
大山阿夫利神社(おおやまあぶりじんじゃ) の参詣道になっていた道。
事故が起きてからこの方、知る人ぞ知るこの道が、一気に脚光を浴びている。
狭い道なので、くれぐれも、事故には、ご注意ください。
近くには、学校や保育園もありますからね。

玉原ラベンダー園、伊香保、そして、榛名神社
2008年08月04日
「小さな旅&日記」を更新しました。

夏の花火の思い出。
2008年08月02日
東武練馬の駅の辺り、とても混雑していた。
板橋サティー前も、駅の構内も、浴衣姿の若者や、中高年の人たちで溢れていた。
今日は、荒川で花火大会。
電車に乗れば、何時もはガラガラなはずなのに、やはり混雑していた。
何処かの花火を見物に行くのだろう。

日本の夏。
全国津々浦々、夏空を、鮮やかに、花火が極彩色に染める。
ドドドーンと、夜空に鳴り響く。
スルスルスルと尾を引いて、夜空に真っ直ぐ、白煙を上げながら立ち上る。
そして、パカーンと花火が弾け、夜空は煌く光の万華鏡。
一瞬の溜息。
そして、うっぉー!と歓声が湧き上がる。

30年くらい前だろうか。
まだ私が、上野の料理屋で、支配人をしていた頃の話だ。
その年、隅田川の花火が復活した。
マスコミでも、大々的に報道をした。
その日は、何故か店は夜になっても暇だった。
やはり、浅草にお客様が奪われたのだろうか。

余りにも暇。
ビルの屋上から、浅草方面を見た。
花火が次々と打ち上げられ、浅草の空は、七色に彩られていた。
そして、何時も通り、9時半にラストオーダーを取ろうとした。
すると、なんとしたことか。
最初はぱらぱらと、お店にお客様が入ってきた。
少し、ラストオーダーを延長した。

すると、次から次へ、お客様が、怒涛のように、押し寄せて来た。
緊急事態発生。
お店の板前さん、コックさんは勿論、仲居さんから、ホールの従業員まで、すべて残ってもらった。
本店と支店とも、一気に、地下一階から、地上5階まで、満席になった。
そして、時間を延長して、従業員一同、必死の思いで働いた。
店は11時ごろ、閉店となった。
レジを閉めたら、一万円札の厚い束が、ずしりと重かった。

翌年、この失敗に懲りて、全員待機で、万全を期した。
すると、如何したことだろう。
浅草の花火は終わったと言うのに、まったく、音沙汰がない。
昨年は、花火の見物客を、上野方面へ、重点的に誘導。
それにより、かなり混雑と混乱きたしたようなのだ。
それを教訓に、観客達も行政も警察も学習したのだった。
やはり、柳の下に、二度の泥鰌は居ない。
そして、用意万端、用意のし過ぎには、空振りが多いという教訓を得た。

Tシャツ雑感
2008年08月01日
何時頃からだろうか、私はTシャツを着ていない。
かれこれ、20年以上は、着てないのではないのだろうか。
何故だか分からないのだか、丸首のシャツ類が着れなくなった。
ワイシャツを着て、ネクタイは出来る。
勿論、バーテンダーだから、蝶ネクタイもOKだ。
だが、丸首は駄目なのだ!

それでは、すべて、丸いものが駄目かと言えば、そうではない。
もっと、ハイネックの、トックリのセーターは大丈夫だから、これまた不思議の一言。
人に言えば、それはおかしいと言う。
私も同感だ。

でも、やっぱり、なんと言おうとも、駄目なのは駄目なのだ。
何とか努力して、着たこともある。
最初の一時間ぐらいは、やったぞ!着れたぞ!と感動する。
しかし、時間が経つにつれて、肩がはり、コチコチに凝ってくる。
やがて、首回りが苦しくなり、やっぱり着るんじゃなかったと、後悔をする。

Tシャツのデザインには、素敵なものが多い。
色も鮮やか、センス抜群のものが、目白押しだ。
何故着れないのか、理由がかいもく見当がつかない。
人は何かのトラウマじゃないのと言うかもしれない。
でも、人間には、理由がない理由って、あるのではないのだろうか。
ことしこそ、やっぱり、駄目だと思うけど、Tシャツに、トライしてみたい。
真夏の浜辺を、Tシャツで決めて、歩いてみたいもの。

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