ジョージ・ワシントン大統領と、ウイスキー税反乱

イギリスの北米植民地であるアメリカで、蒸留酒が造られた当初は、主に果物を原料とする果実酒であり、
またはカリブ海に浮かぶ島々から運ばれた、糖蜜から造られたラム酒であった。
このラム酒が、悪名高き三角貿易の核となった。
つまり、西インド諸島に浮かぶカリブのサトウキビから作られた糖蜜を、アメリカで蒸留し、
ヨーロッパへ運び売却することで、莫大な利潤を上げる。

その潤沢な資金を持って、アフリカへ大陸へ渡り、奴隷を買い付け、カリブへ運び、サトウトキビの生産にあたらせる。
それは、,1808,奴隷取引廃止令が施行されるまでの長い間、アメリカの負の歴史として続けられた。
だが、奴隷貿易に終止符が打たれるや、ラム酒生産は壊滅的な打撃を受け、
蒸留業者は新しい穀物による蒸留酒を求め、ペンシルバニアなどへ移住する。
やがて、現在のバーボン・ウイスキーの原型が形成されることになった。

酒はもともと、作物の余剰生産物により生産される。
生きるために必要な穀物の他に、余った穀物を、簡単な構造の単式蒸留機により、家内工業的に少量生産された。
その蒸留酒となり付加価値を持った酒が、市場に出て、貨幣との交換価値を得る。
農民たちの汗の結晶から、僅かばかりの酒が生まれ、その酒を売却することにより、多くの農民は生活必需品を得たのである。

さて遡ること、1775から1783にまたがり、かの有名な独立戦争(American War of Independence )という熾烈な戦いが起こった。
イギリスの圧政を逃れ、国難を賭して戦い、アメリカ東部沿岸のイギリス領である13州は、独立を勝ち取り、アメリカ合衆国となる。
だがその代償に、膨大な戦費が残され、アメリカ合衆国の戦後の経済を逼迫させた。
そして、戦後、アメリカ合衆国の経済再建のため、時のジョージ・ワシントン(George Washington1732- 1799年)政権は、
国債償還のため、ウイスキー生産者に重税をかけることになった。

だが、当時、ウイスキー生産のメッカである、ペンシルベニアには、5000人にのぼる、蒸留業者がいたと言われる。
勿論、政府の一方的な重課税を、蒸留業者はいたずらに黙視することはできない。
1791年、ペンシルベニア州モノンガヘラ流域に位置するワシントン近郊で、ウイスキー税反乱、
又はウイスキー税暴動
(Whiskey Rebellion、Whiskey Insurrection)が勃発した。

さらに、ウイスキー生産業者は、各地で暴動の狼煙を上げ蜂起し、1794年にはウイスキー暴動は激しさを増した。
やがては、蒸留業者は、闘うよりは、重税を逃れるために、ペンシルベニアの地を去り、
税金がかからないと噂される新天地、ケンタッキー、テネシーへ移住する者たちも増大した。
だが、無税の夢の地は、幻の噂であった。

だがその地は、ウイスキー造り適した良質の水、石灰岩の岩盤から湧きでる、ライムストーン・ウォーターが流れていた。
さらに、ライムギに変わって、豊富なトウモロコシが稔っていた。
そのトウモロコシを原料にして、ライムストーン・ウォーターで仕込まれ、2度の蒸留により、バーボン・ウイスキー(Bourbon Whiskey)が誕生した。

では、その製造法は、何時頃から開始されたのであろうか。
1783年に、ケンタッキー州のバーボン郡で、エヴァン・ウイリアムス(Evan Williams)が、ウイスキーを蒸留したという記録が残されているが、
現在のようなバーボン・ウイスキー製造に成功したのは、バプチスト派の牧師・エライジャ・クレイグ(Elijah Craig)による。

時は1789年、現在のケンタッキー州ジョージタウンであった。
だが、その頃はまだこの酒は、バーボン・ウイスキーとは言われず、バーボン・ウイスキーの名前が浸透し出したのは、1820年代以降と言われている。
さて、ウイスキー税暴動に戻れば、1792年に制定された民兵法により民兵を組織して、
暴動を抑えようとはかったが、暴動はさらに拡大する気配を見せた。

そこで、
ジョージ・ワシントンは、自ら兵を率い鎮圧に乗り出す結果になった。
さすがに、組織された圧倒的な勢力の兵士による示威行動は効果覿面、戦闘を交えることなく、暴動は敢え無く鎮圧された。
かつて、アメリカ合衆国の歴史において、現職の大統領が軍隊を指揮したことが2度あり、その最初の事件でもあった。

その後、ジョージ・ワシントンは、1797年を辞任し、故郷マウントバーノンに帰り、大農園を経営する。
そして、収穫した穀物から、様々な酒を生産し、アメリカ合衆国内における、最大クラスのウイスキー製造業者になった。
ウイスキー暴動を封じ込めた大統領が、ウイスキー生産業者として君臨する、まさに歴史のアイロニーである。