江戸時代、江戸と奥州の呑兵衛さん
2013年01月23日

浅草山谷に江戸の享保年間に創業した、八百善という料理屋があった。
それは江戸を代表する有名な高級料亭であった。
この料亭が江戸料理を確立し、現在に至る会席料理を集大成した。

その料亭の四代目当主である栗山善四郎は、大変な才人で趣味も多才。
当時の江戸を代表する文人墨客と交流を深める。
その人物たちを見渡せば、そうそうたる顔ぶれである。

狂歌・戯作者の大田南畝(蜀山人)、書家・儒学者の亀田鵬斎、絵師・谷文晁、
絵師・葛飾北斎 さらに姫路藩主酒井忠仰の次男(第4子)として生まれ、絵師となった酒井抱一など数え切れない。
その中でも大田南畝(蜀山人)との交流は深く、
「詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はおかつ料理八百善」の狂歌を残している。

その蜀山人(1749年ー1823年 )、狂名は四方赤良(よものあから)と言い、
「世の中は色と酒とが敵なりどふぞ敵にめぐりあいたい」
「わが禁酒破れ衣となりにけりさしてもらおうついでもらおう」
「朝もよし昼もなおよし晩もよしそのあい合々にチョイチョイとよし」と、江戸を代表する粋人は詠んだ。

江戸の酒徒が蜀山人なら、東北には小原庄助さんがいる。
日本人なら一度は聞いたことのある有名な民謡・会津磐梯山に歌われる人物である。
だが実在した人物か否かは、未だに謎に包まれている。

歌の中で「朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上つぶした ああもっともだ もっともだ」と歌われる。
が諸説があり、その中でも元禄時代の材木問屋で東山温泉をこよなく愛し豪遊した人物。
または戊辰戦争で戦死し、今は会津若松の寺に眠る会津藩士。
さらに白河に住む絵師・羅漢山人宅で客死しした、会津漆器の塗り師だとか。

ところが奥州の白河に、現在も不思議なお墓が立っている。
どうやらそれは呑兵衛のお墓で、徳利を逆さにかぶって、戒名には「米汁呑了信士」と刻まれている。
さらに「朝もよし昼もなおよし晩もよし飯前飯後その間もよし」と、蜀山人の狂歌を改作して刻まれている。
地元では白河市大工町にある、臨済宗妙心寺派天恩皇徳寺にあるこのお墓を、小原庄助さんのお墓だと信じている。

かつての江戸は世界一の人口を誇っていた。
江戸っ子は「箱根からこっちに下戸と化物はいない」と豪語していました。
確かに江戸ッ子は朝から寝るまで酒を飲んでいたようです。

朝は出かけに戸口で一杯から始まり、午後はおやつがわりに軽く一杯、そして晩酌をして寝酒で一日が終わる。
その酒量は五合は下らないとも。
江戸ッ子が喧嘩っ早いのは酒のせいだとも言われている。

参考文献「一日江戸人」杉浦日向子著・新潮文庫