下戸が酒豪になった

今月の3日(2010.7.3)、元国立民族博物館を創設し、初代館長に就任した、梅棹忠夫氏が、90歳の生涯を閉じた。
京都大学では、動物学を専攻するが、大学院時代、内モンゴルへ生態調査隊に参加後、民俗学へ転向した。
そして、今西錦司の「霊長類の文化と人格研究」会に参加し、1957年
文明の生態史観序説」を発表する。

私も、大学に入学した頃、ベストセラーのこの著作に接し、従来の東西文明比較史観と一線を画し、
さらに、当時、歴史学を席巻していた、マルクス史観とも異なる、生態学に基づいた画期的な考察に、瞠目させられたことを記憶している。
その梅棹氏が、大学の後輩にあたる、日本を代表する碩学にして哲学者の梅原猛氏に言ったそうだ。

「梅原君、君は酒をべらぼうに飲むさううだね
くだらないからやめなさい」
だが、梅原氏は悔しいので、60歳までは酒をやめなかったそうだ。
ところがである、当の梅棹氏が、45歳頃から酒を飲み始め、ウイスキーを一瓶くらい開けるようになったという。

或る日こと、霊長類研究の世界的権威で、梅棹氏が尊敬する今西錦司氏と、アフリカのキリマンジャロに登ることになった。
その時、今西氏に言われたという。
「酒もやらないようじゃ、山登りもできんぞ」
師匠の一言で一念発起、梅棹氏は酒豪になった。

かつて、日本画の巨匠横山大観画伯がいた。
氏の画風は、朦朧派などと言われるが、画壇にあっては、酒に関して、朦朧どころか、酒豪番付の横綱クラス。
ところが、氏は一滴の酒も飲めない下戸だった。

東京美術学校(後の東京芸術大学)の学長だった岡倉天心は、当時の美術界に反旗を翻し、日本美術院を創設。
日本の未来を託す弟子、下村観山、菱田春草たちを引き連れ、茨城県五浦で美術活動を展開した。
その中に、若き日の横山大観もいた。
そして、或る日の事、岡倉天心は、横山大観を叱ったそうだ。
「一升酒ぐらい飲めなければ駄目だ、絵は描けん!」

そこで、横山大観は発奮、血の出る思いで酒を飲む努力をした。
その甲斐が実り、日に二升三合、晩年でも一日一升は飲むという酒仙となった。
それを知った広島にある酒造、酔心山根本店の社長は、横山大観に約束をした。
「先生の飲む酒は、私どもが面倒をみさせていただきます」

そして、約束通り、一斗樽で送るが、余りの消費の早さに吃驚したそうだ。
だが、画伯が生きてる間、約束を果たし続け、90歳で生涯を閉じるまで送り続けた。
その行為に対し、感謝の気持ちで、酔心酒造へ、画伯作の日本画を寄贈したのだから、その対価は莫大なものとなった。
今は酔心酒造に、たくさんの画伯の絵が飾られている。

日本の大政治家の一人、吉田茂の息子に、吉田健一という英文学者がいた。
酒と料理をこよなく愛し、酒と料理に関するたくさんのエッセーを、洒脱で軽妙にして、流麗な文章で書いている。
だが、彼もやはり下戸だった。

文人墨客が集まる割烹とおでんの「銀座はち巻岡田」で、酒豪たちは傍若無人にして、丁々発止な会話の中、吉田氏は何時も一人浮いていた。
酒飲みたちは、下戸に対しては、決して優しくはない。
かえって、下戸はうざったい存在であり、吉田氏は、話の輪から大いに外れた寂しい存在だった。

そこで、彼は奮起した。
そして、酒を飲めるように、日々血の滲む努力をした。
その辛い日々が、やがて、一人の酒と料理を愛する文学者を誕生させた。

酒を飲むことがそんなに大切なことなの? と、人は訝しがるかも知れない。
だが、酒のあるところには人がおり、人がいるところには酒がある。
酒を酌み交わすことによって、人の輪が膨らみ、世の中は愉しく回る。
だが、その酒は、それぞれに、百役の長になる酒であることに間違いはないだろう。