マルチン・ルターとビール
2010年9月1日

宗教改革者ルターは、1517年、ローマ教会の堕落を弾劾し、95カ条の論題を宣言、贖宥状批判を開始した。
古来、西方教会には、贖罪のために、3段階のプロセスがあった。
第1に洗礼を受けた後、犯した罪を悔い反省する。
第2に司祭に罪を告白する。
そして最後の第3番目に、罪を許してもらうために、償いをすることであった。
しかし、この償いをすることは、大変に厳しく重いものとされていた。

その罪を許すという贖宥状を、中世以降、カソリック教会が、封建領主や貴族や富豪などに対し、
多額な金や寄進などと引き換えに乱発していた。
さらに、ローマの聖ペトロ寺院大聖堂の再建の名目で、神聖ローマのマインツの大司教が、
アウグスブルグの大富豪フッガー家から、多額の借金をしていたことが発覚。
その穴埋めのために、ドイツで、罪の償いをのための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。
その不正に対し、ルターは、真の信仰は聖書にありとして、ローマ教会に対して、抗議したのである。

聖書は当時ラテン語で書かれ、民衆と大きく乖離していたのであるが、
ルターは民衆の言葉であるドイツ語で、聖書を翻訳した。
時はグーテンベルクが印刷機を発明し、実用化の段階を迎えていた。
ドイツ語の聖書は、急速に民衆のものとなって広がっていった。
さらに、ラテン語で歌われていた教会のミサも、ドイツ語で歌われ、
音楽を愛するルターは、讃美歌の作詞作曲もしたと伝えられる。

さて、このままでは、神聖ローマ帝国の権威も失墜しかねない事態に至った。
1521年4月17日のこと、神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、
ルターの翻意を促すため、ルターをウォルムス帝国議会へ召喚した。
神聖ローマ帝国皇帝を筆頭に、居並ぶ諸侯の前で、糾弾されるルターの精神状態は、計り知れない緊張状態であった。
その時、彼の敬虔な信者でもあり、秘書役を務める婦人が、
1リットルの陶製のジョッキに、並々と注がれたビールを持って来た。
ルターは、一気にビールを飲み干し、元気を貰って勇気百倍、裁きの会場へ登壇したという。

その時のビールは、アインベック・ビール。
12世紀から15世紀にかけて、世界の貿易に君臨していた北ドイツのハンザ同盟諸国の重要な貿易品に、
小さな街アインベックで出来るアインベック・ビールがあった。
そのビールは、ヨーロッパ諸国のビール愛飲家にとっては、まさに垂涎の的であった。
そのビールは、やがて、16世紀の後半、バイエルン候ウィルヘルム5世により、
宮廷付属醸造所で造られるようになり、ボック・ビールと改称され現在に至る。
やがて、このボック・ビールは、新大陸のアメリカにも輸出され、
ボトルのラベルには、マルチン・ルターの肖像画が描かれていた。

やがて、1525年の年、ルターは42歳にして、若き26歳の元修道女カタリーナ・フォン・ポーラと結婚する。
彼女は貴族の家に生まれ、カトリックの修道女となるが、
やがて、ルーターの信奉する信教に心酔し、修道院を脱走して、ルーターの下へ嫁いだ。
さらに驚いたことには、彼女は修道女時代、修道院でビール醸造学をを学び、
さらに、ビール醸造技師の資格を持つ、一流のブラウマイスター(公認醸造技術師)でもあった。
ルターとの結婚式当日、アインベックから、何事にも屈しなかった、ルターの勇気を称え、ビール樽が贈られたという。

16歳年下の美貌の元修道女と迎える毎日の生活。
「私の女王」と著書で自慢する程に愛する、カタリーナ手製のビールを飲み、子供をもうける幸福な家庭生活。
古代エジプト以来、ビールは飲むパンとも言われている。
修道士たちの、過酷な修行も、修道会で作られたビールの栄養により、耐えることがが出来たのである。
愛妻の手ずからの、愛情あふれるビールが栄養となり、
強壮剤となって、うら若き妻との夜な夜な、幸せな毎日が続いたのであった。
なお、ドイツ語のBockは、偶然にも雄牛のことを意味する。
雄牛のように逞しくなるビールなのかもしれない。