3幕喜劇
                                             「人生、それぞれに狂騒曲」
                                                作:田村聰明
                登場人物
             佐伯秀哉(洋画家・60歳)
             佐伯真理子(秀哉の妻・56歳)
             佐伯碧(佐伯夫妻の一人娘)・大学病院の精神科の勤務医27歳。少しだけ左足に軽い障害がある。
             加藤澄夫(佐伯碧の恋人27歳・塾の講師で詩人)
             山野きみ子(モデル・31歳)
             黒木猛夫(山野きみ子の愛人・38
             神山正二郎(画廊の主人・80)
             堀井康文(青年実業家・34歳)
             片山マリ(堀井康文の秘書・26)
             警官A(警官Bの上司。小柄で太りぎみ)と警官B(痩せて背が高い)(3幕にだけ登場)
             堀井康文の会社の男性社員山本と安藤の2人と、医者1(3幕にだけ登場)
                          
             東京の郊外。
             かつて、この家の前には、片桐家代々所有の広大な梅園があった。
             が、その土地には、今はこの屋敷とたくさんの新興住宅が建つ。
             そして、現在は、片桐大三の娘の佐伯真理子の家族が住む。
             舞台は、先代の片桐大三が、贅を尽くした洋風建築の居間。
             この建物の中では、靴を履いたままで居られる。
             天井からは、豪華なシャンデリヤに灯りが点いている。
             居間の奥の壁の下手側に、アトリエへ続くガラス窓のある木の扉。
             さらに、上手側にも、佐伯碧や佐伯夫妻の部屋へ続く、廊下への扉がある。
             佐伯碧や佐伯夫妻の部屋へ続く廊下は、アトリエにも続いている。
             上手の横壁の手前には、玄関への扉。
             下手の横壁には、台所へ続く扉。
             観客のいる側に庭があり、かつて、そこから遥か彼方まで、梅園があった。
             居間の中央には、レンガで出来た暖炉が切られている。
             暖炉の上には、電話が置かれている。
             その上の壁には、かつてあった梅園のセピア色の写真が飾られ、妻の父・片桐大三の写真が飾られている。
             正面、暖炉の前、少し下手側には、大きなテーブルと、マホガニーの重厚な長椅子。
             テーブルの下手側にも、木製の長椅子、上手側にも木製の椅子が2脚。
             暖炉の上手側には、ロッキングチェア、どっしりとした黒光りした椅子2脚、その前に木製のテーブルが置かれている。
             このテーブルは正面のテーブルと繋げる事が出来る。
              
               1幕
             4月の桜の季節、午後7時。
             舞台には人は誰もいない。

            (すると、上下を黒い服で決めた男が、玄関の扉を開けて登場した。男はカメラを持ち、カメラには望遠レンズが嵌めてある) 
        
黒木猛夫      鍵が掛けてないとは、物騒な家だな。俺にはとっては好都合なことだが。
            (部屋の中へ入り、扉をゆっくりと閉め、抜き足差し足、アトリエの窓へ。そして、アングルを考えながら写真を撮っている。
            しばらくして、男は足早に、扉から離れ、慌てて、奥の上手の扉を開けて隠れる)

            (やがて、下手から、緑のベレー帽を被り、青色のブレザー、黒のズボンを履いた画家・佐伯秀哉と、モデルの山野きみ子が、青色のガウンを着て登場) 

佐伯秀哉      きみ子さん、今日はこれで終わりにしよう。2時からだから疲れただろう。明日は休み、明後日の2時に頼むね。
            風邪をひかないように、気をつけてくださいよ。まだ完成には時間がかかりますから。
             (秀哉は、モデルの肩に手を回し、顔を近づけた)
山野きみ子     先生、駄目! 誰かに見られたらどうするの?
佐伯秀哉      今日は家には誰もいない筈だ。(一角獣ユニコーンの角のように、頭の上に手を立て、きみ子を追いかける) 
山野きみ子     駄目だってば、先生!(さらりと逃げて暖炉の前へ) 
佐伯秀哉      (さらに、一角獣の真似をしながら)きみちゃん、大丈夫だって。可愛いいきみちゃん!
山野きみ子     いやー! 駄目ー!(佐伯秀哉は、なお追いかける) いやー! 駄目ー!
            (モデルに掛った青色のガウンがはだけ、白い肌が覗く。
            そして、椅子に飛び乗り、ガウンの袖を、蝶の羽のように、優雅に羽ばたき挑発をする)
            (芝居がかって)私は人形の家のノラよ! 先生、貴方はユニコーンじゃなくてヘルメル。
            私は貴方のヒバリジャないわ。自分で生きるの。自由に生きるのだわ!
            (そして、椅子から降り、椅子の上に右足を乗せ、右のハイヒールを脱いで、
            左手に持ち、誘惑するように、前方にかざしながら、左右に揺する)
佐伯秀哉      (一角獣の真似を止めて)へー! ヘンリック・イプセン、知っているんだ。
山野きみ子     これでも私、役者志望だったの。劇団の研究生にもなったわ。
佐伯秀哉      どうりで、仕種が芝居がかっていた。
山野きみ子    その頃、色々なアルバイトをしたな。でも、毎日が充実していた。貧乏も楽しかったわ。それが今は、変な男に貢いで、ヌードモデル。
佐伯秀哉      人生、そんなものさ。なかなか、思い通りにはいかない。(と言いながら、また、きみ子に触れようとする)
山野きみ子     駄目だってば。お触りは料金外!(靴を持った手で一振り。靴が佐伯秀哉を直撃した。その時、手に持っていた靴が床に落ちた)
佐伯秀哉      いて!(床に転げながら)きみちゃん、痛いじゃないか。
きみ子        (佐伯秀哉に近づき)痛かった? ごめんなさい・・・・・・。
佐伯秀哉      (きみ子の手を持ちながら)君の身体が美しすぎる。それが君の罪なんだよ。
きみ子        あら、泣ける科白ね。さすがにフランス仕込みだわ。もっと聞きたいな。
佐伯秀哉      (芝居がかった科白で)ブークロのヴィーナス、アングルの描いた裸体、ルノアールの豊満にして匂うようなやわ肌、
            レオナルド・藤田の大理石のような乳白色に光る女の肌。
            私の描く女性は、永遠の理想の美の象徴なのだ。それが貴方の肉体を借りて、美しくも光り輝くように表現される。
山野きみ子     (うっとりと)・・・・・・。
佐伯秀哉      エラン・ビタール! 魂の飛翔! 君はキキ・ド・モンパルナスになれる。 第1次世界大戦の最中、
            ユトリロ、モディリアーニ、スーチン、レオナルド・藤田のモデルになった伝説の女性だ。
            さらにかの世界的な写真家、マン・レイのモデルにして愛人。
            そして歌手にして女優がモンパルナスのキキ。君はキキになれる!(きみ子に近づき、抱こうとする)
山野きみ子     いやー、先生! そうは問屋がおろしませんよ。ここまでおいでーだ。(舌を出し逃げる)
佐伯秀哉      逃げたって無駄だ。

            (2人は追いかけっこをしている。やがて、きみ子を捕まえた。そして、強く抱きしめた)

山野きみ子    (うっとりと佐伯秀哉を見て)先生、また、タンゴを踊って。
佐伯秀哉      ウイ!ウイ! 踊りますか?

            (山野きみ子は履いていた残りのハイヒールを脱ぎ捨て、踊り始めた。2人は情熱的に、タンゴを踊り出した。曲は「真珠採りのタンゴ」)

            (すると、玄関でチャイムが鳴った。2人は踊りを止め、玄関を見て顔を見合わせる。そして2人の身体が離れる)

山野きみ子     奥さまかしら・・・・・・?
佐伯秀哉      誰だろう? 真理子の帰宅は、8時と言っていたはずだが・・・・・・。
山野きみ子     先生、私はこれで。お疲れさまでした。明後日のの2時ですね。
            (投げキッスをしながら、逃げるように、片方のハイヒールを持ちながら、アトリエにある着替えの部屋に。
            だが、先ほどの片方のハイヒールは、忘れられ、投げ出されたままだ) 

            (妻の佐伯真理子が登場。右手には大きな買い物の袋を提げている)


佐伯真理子    何か女性の声が聞えたけど・・・・・・、誰かいたの?
佐伯秀哉      いや、誰も。さっき、モデルのきみ子さんが、この部屋で休んでいたけど。今、アトリエで着替えているはずだ。
佐伯真理子    (椅子の前に投げ出された、水色のハイヒールを見つけて)これは何? なんで片足だけなの・・・・・・?
佐伯秀哉      ・・・・・・? それは・・・・・・。
佐伯真理子    ・・・・・・。あなた、また、モデルさんにちょっかいを出してるのね。幾つだと思っているんですか。
            もうすぐ還暦だというのに・・・・・・。まったく、何を考えていることやら。
佐伯秀哉      それは誤解だ。何で物事を悪く悪く考えるのさ。君の悪い癖だ。
佐伯真理子    何が誤解ですか・・・・・・、まったく。ばかばかしいたらありゃしないわ。
            (買い物の袋を、テーブルにどさりと置く。そしてハイヒールを拾った)

            (すると、着替えを終えた山野きみ子が、片足だけハイヒールを履いて、びっこを引きながら登場。何かを探している)

佐伯真理子    (意地悪く、後ろに隠していたハイヒールを、顔の前に上げながら、慇懃に差し出し)これかしら?
山野きみ子     あら、奥様、どうして私のハイヒールを・・・・・・?
佐伯真理子    (ハイヒールを、山野きみ子に手渡す)こちらが聞きたいわ!(秀哉を横眼で睨む)
佐伯秀哉      (ブレザーのポケットからパイプを取り出し、煙草を詰めるわけでもなく、口にくわえる)・・・・・・。
山野きみ子     (佐伯真理子に近づき、靴を受け取る)奥さま、ありがとうございます。
            (靴を履き終え)先生、では、私はこれで失礼します。(扉を開けて振り向きざま、二人に)おやすみなさい。

           (退場する)


佐伯真理子    懲りない人ね、あなたって人は!
佐伯秀哉      またそれだ、どうして、私を信じてくれないのですか。
佐伯真理子    信じてくださいって? 何を信じるのよ。 若い女が、片方の靴を忘れて、慌ててアトリエへ消えた。
佐伯秀哉      打ち合わせだよ、ここで。モデルさんとも色々と相談しなければいけないこともある。
佐伯真理子    何が打ち合よ。裸で何のご相談かしら・・・・・・。 8年前の夏のこと、まだ懲りないの。
佐伯秀哉      またそれか、済んだことじゃないか。私はとっくに忘れたよ。
佐伯真理子    便利なものね。嫌なことは、すぐに忘れる。大事なことは憶えられないくせに。
佐伯秀哉      失礼な言い草だな。
佐伯真理子    じゃ、思い出させてあげるわ。貴方のセクハラの代償に、私が幾ら慰謝料を払ったと思うの。
佐伯秀哉     ・・・・・・。
佐伯真理子    それだけじゃないわ、私は大恥をかかされたのよ。あの時の情けなさといったら、もう二度と忘れませんわ。
佐伯秀哉      もう良いじゃないか。あの時はすまなかった。でも、今は違う。
            きみ子さんとの事は、貴方の誤解だ。何年、一緒に夫婦をやっているのかね。

佐伯真理子    32年よ。時間なんて関係ないわ。信用が大切なのよ。
佐伯秀哉     そんなにないかな信用?
佐伯真理子    あるわけないでしょ。    

佐伯秀哉      では、百歩下がって、信用がないのは仕方がないとする。
            (その言葉に逆襲するかのように、パイプを持った手をかざしながら、芝居がかった調子で)
            芸術家は何時も、全てのことに感動的でなければならないのさ。
            自然を愛し、人を愛し、心の中に熱い情念を燃やしていなければならない。
            燃えたぎる創造への力が、人々の心を揺さぶり、衝撃的な感動を与えることが出来る。
            現実の苦しさ、悲しさ、惨めさを忘れさせ、未来に向かう力を与える。それが 絵描きとしての使命にして誇りなんだ。
            そんな私が、いい年をして、私の娘より少し年上の女に、手を出すと思うのかい?

佐伯真理子    何が芸術よ、絵描きですか。私の家の財産を、全部、食いつくしたくせに。
佐伯秀哉      それはひどい言い方だな。確かに、お父さんには、フランス留学のお金を援助していただいた。
佐伯真理子    それだけじゃないわ、貴方が一人前になるまでに、私の生まれて育った、この片桐家に代々伝わっていた梅園も、みんな売り払われたわ。
            情けないことに、今は他人様の住宅になってるじゃないの。
佐伯秀哉      確かに、ここまで来れたのは、この土地のおかげだったかもしれない。だが、使ったのは私だけじゃない。君の浪費にも責任がある。
佐伯真理子    私にも?
 私の浪費にも責任がある・・・・・・?
佐伯秀哉      そうさ、私は、私の身の丈にあった生活をしながら、絵を描きたかった。
佐伯真理子    私が財産を食いつぶしたって言うの?
佐伯秀哉      君だけじゃない。私に甲斐性がなかったから、すべてこうなったのは確かだ。
            (真理子に近づいて)もうよそう、私が悪かった。(佐伯真理子の手を握る)
佐伯真理子    都合が悪くなると、そうやって、すぐに誤魔化す・・・・・・

佐伯秀哉      こんな事言いあっても、何にもならじゃいじゃないか。残されえた人生、仲良く暮らそう、もうお互い若くはないのだから。
佐伯真理子    年? 悪かったわね、お婆ちゃんで。       
佐伯秀哉      (大げさな身振りでいや、)お婆ちゃんどころか、君はまだまだ若い! 
佐伯真理子    (佐伯秀哉の身振りと声色を真似て)君はまだまだ若い! 何よそれ!
佐伯秀哉      おかしいかな?

佐伯真理子     当り前よ! 人を小馬鹿にして! その言い方が許せない!

        
   (佐伯秀哉に飛びかかる。秀哉は部屋を逃げ回り、テーブルの下へ逃げ、一目散にアトリエへ
            扉を開ける前に、扉に体当たりをしてしまった)

佐伯秀哉      いてー!

          (佐伯真理子も追いかける時、テーブルにぶつかり、床に尻もちをつく。佐伯秀哉は慌てて扉を開け、
            中へ入り、扉を閉める。今度は佐伯真理子が、閉まった扉にゴツンと当たってしまった
)

佐伯真理子    (扉を叩きながら)開けなさいよ!
佐伯秀哉      開けられるぐらいなら、閉めはしないよ。
佐伯真理子    (扉を叩きながら)私がいなかったら、何も出来ないくせに、憶えてなさい!
佐伯秀哉      ・・・・・・(無言)

            (その間に、黒木猛夫が扉から顔を出し、そーっと扉を開けて登場。
            そして、玄関から姿を消した。すると、しばらくして、玄関のチャイムが鳴った)


佐伯真理子    (玄関に近づきながら)誰かしら? 碧にしてはまだ早いし・・・・・・(扉を開けて玄関へ)あら、神山さま。
神山正二郎    (玄関で声だけが聞える)夜分失礼します。
佐伯真理子    どうぞこちらへお入りください。
神山正二郎
   (玄関から部屋へ)ちょっと、この近くに用事がありましたので、立ち寄らせていただきました。
            今、男の人が、慌てて玄関を出て行きましたが・・・・・・?
佐伯真理子    ・・・・・・誰もいませんでしたけど・・・・・・。
神山正二郎    そうですか・・・・・・。私の思い違いかもしれませんね。ところで、先生は御在宅でしょうか?
佐伯真理子    はい、アトリエの方にいます。
神山正二郎
   (テーブルに鞄を置き、アトリエへ向かい、ノックをする)先生、神山でございます。
            (そしてドアのノブを引く)ドアに鍵が・・・・・・? 先生は何時も、鍵を掛けて仕事をするのですか?

佐伯真理子    (言葉に含みを持って)何故か、そういう時もあります・・・・・・。
            (ロッキングチェアに座り、そっけなく)呼んでみたらいかがですか。

            (傍白)あの色気違い! 今に見ていなさい。
神山正二郎    (振り返って)何か言いました?
佐伯真理子    いえ、何も・・・・・・。(傍白)年のわりに耳がいいわ。
神山正二郎    (振り返って)何か言いましたかな・・・・・・?
佐伯真理子    いいえ傍白)油断も出来ないわ・・・・・・。
神山正二郎    やっぱり聞える・・・・・・、気のせいなのだろう。(アトリエの扉に近づき、ノックしながら)先生、神山です。
佐伯秀哉      何かご用事で?
神山正二郎    はい、ちょっと、娘さまの碧さまの事で。
佐伯秀哉      それなら、そこにいる妻の真理子に伝えてください。ちょっと、手が離せませんので。
佐伯真理子   
 (傍白)手が離せない? さっきまで、余計な手を出していたくせに。 顔が出せないと言ったら良いじゃないの!
神山正二郎    (振り向く・・・・・・。
佐伯真理子    (無言で、顔を横に振る)
神山正二郎    時間はとらせませんので、こちらへ来ていただけませんか。
佐伯秀哉      ・・・・・・(無言)
神山正二郎    碧さんの結婚の事で、ちょいと、先生と奥様に、ご相談がありまして。話が終わりましたら、すぐ帰らせて頂きます。
佐伯真理子    (神山に近づきながら)碧の縁談ですか?
神山正二郎    そうなんです。私の親戚のものなのですけど。
           (テーブルに置いた鞄から、写真を取り出す)この子なんです。私の甥の堀井康文と言います。年はは34歳です。

佐伯真理子    (写真を手に取り)あら、ご立派な人ですわね。少し太めで貫禄がありますこと。この後ろの赤の外車も素敵。
神山正二郎    昔はスマートだったんですがね・・・・・・。
佐伯真理子    あら、失礼いたしました。でも、顔が大きくて、とても立派ですわよ。お仕事は、何をなさっていますの?
神山正二郎    会社を経営しております。
佐伯真理子    それは立派なこと。大学はどちらで?
神山正二郎
    東大を中退しました。
佐伯真理子    優秀なんですね。でも、何故、中退なんです?
神山正二郎
    「大学で学ぶものは、もう何もない。自分で事業を起こす」と言って、大学を2年で中退し、会社を仲間と始めました。
            それが時代の波に乗り成功しました。
佐伯真理子    本当に、凄いことですわ。今時、見上げたものです。
神山正二郎
    康文は車が大好きで、現在、外車を5台も持っています。
            私は1台で充分だと思うのですが・・・・・・。それに自家用ジェット機で、海外へ出張しています。

佐伯真理子    自家用ジェット機ですって! お金持ちなんですね。何をなさっているんですか?
神山正二郎    私ら年寄りには、よくわからないのですが。
            インターネットとかの仕事で、大儲けしたそうです。そして、投資会社を造り、外国の会社を買収したりしています。

佐伯真理子    そうでございますか、インターネットでねえ。
            神山さん、こちらへどうぞ。取りあえずは、お座りください。そして、もっと、お話を聞かせてください。

神山正二郎    (椅子に座りながら)それにしても、先生は、どうなさったのでしょうか?
佐伯真理子    如何したのですかね・・・・・・。
            私が呼んでみましょう(扉に近づき、優しい声で)秀哉さん、神山さまが、碧の事でお見えですよ。早く、こちらへいらっしゃいな。
佐伯秀哉      ・・・・・・。
佐伯真理子    (少し、焦れながら)早くいらっしゃらないと、(静かではあるが、少し強い調子で)後は知らないわよ。
神山正二郎
    何かあったんですか?
佐伯真理子    少々・・・・・・、いえ、何もありませんわ。(扉に向かって、優しく)秀哉さん、神山さま、御急ぎですよ。
神山正二郎    私は別に急ぎませんけど・・・・・・。 
佐伯真理子    ( 神山正二郎へ)そうじゃないんです。
神山正二郎
    また、出直して来ましょうか?
佐伯真理子    いえ、せっかくのお話です。ぜひ、詳しくお話し下さい。
           (アトリエの扉に近づき)秀哉さん、私は飲み物の用意をしますから、神山さまとお話ししてくださいね。
           神山さま、ちょいと、失礼いたします。
神山正二郎
    奥さま、お気遣いなく。
佐伯真理子    どういたしまして。すぐに秀哉は出て来ると思いますので、どうぞ、お話ししていてください。

           (佐伯真理子は部屋を出て、下手の台所へ消える)


           (佐伯秀哉が、そーっと扉を開けて、下手を確認しながら顔を出す)

佐伯秀哉       (扉をそーっと開けながら)神山様、しばらくぶりです。
神山正二郎     この前来たのは、去年の暮でしたかな。早いものだ、歳月が経つのは。お庭の桜も満開ですね。何時見ても立派な桜だ。
佐伯秀哉 
     真理子の父の自慢の桜です。春先の梅園もそれはそれは立派なものでしたが・・・・・・。
            今は全てが住宅に変わりました・・・・・・。土地がなくなったのも、真理子は私のせいだと言うのですが・・・・・・。
神山正二郎
     でも、先生は頑張って今の地位まで上ったではないですか。佐伯秀哉の名前は、洋画好きなら誰でも知っております。
佐伯秀哉 
     私も真理子の父上には、なんとか私の描く作品で、恩返ししているつもりです。
神山正二郎    それで充分じゃないですか。私も貴方を、片桐さまに紹介して良かったと思っています。
            片桐さまも、かつては、絵描きになりたかった。
            だが、厳格な父親は「絵描きと役者はいかん」と、怒られたそうです。それで、大学を出て、この家を継いだのです。
            私もこの土地で育ち、父上とは高校の美術クラブの先輩と後輩の関係で、お父様の無念はよく存じています。
            だから、貴方のような、将来有望な洋画家を、育てようと思ったのです。片桐先輩は、草葉の陰で喜んでいると思います。
佐伯秀哉      神山さま、ありがとうございます。
神山正二郎
     ところで、先生、今は何を描いているのですか?
佐伯秀哉      はい、200号の大作を描いています。題して「ヴィーナスと一角獣」
           日本を代表する裸体画になると思います。これを持ってフランスで個展を開く予定です。
神山正二郎
    「ヴィーナスと一角獣」、素晴らしい画題だ。
            日本だけでなく、フランスの画壇にも、衝撃を与えるでしょうな。その後は、私の画廊で個展をお願いしますよ。
佐伯秀哉 
     分かりました。その時はよろしくお願いいたします。
            理想の女性美を象徴するヴィーナス、男を暗示する一角獣のユニコーンは、私の永遠のテーマです。
            ところで、今日は何かご用事でも? 碧の事で何にか言ってましたね?
神山正二郎    はい、お宅の碧さまのことで。
佐伯秀哉 
     碧のことで・・・・・・?
神山正二郎    碧さまは、お幾つになりましたか?
佐伯秀哉 
     今年で27歳です。
神山正二郎    早いものですね。私が最初に会った時は、まだ、こんなに小さなお嬢さんで、まだ幼稚園児でした。
            それが今は、27歳とは驚きです。大学でお医者さんをしているそうで?
佐伯秀哉      はい、順日大学病院で、精神科の勤務医をしています。
            大学病院は、当直などがあって大変みたいです。我が娘ながら、よくやってるなと感心します。

            (下手から、真理子が、ウイスキーと氷と水を持って登場する)

佐伯真理子    (ロックグラスに氷を入れながら)神山様は水割りでよろしかったですね。
神山正二郎    奥様、すぐに失礼しますから、お気遣いなく。
佐伯真理子    (グラスを神山の前に置く)はい、どうぞ、ご遠慮なく。神山様はオールド・パーが好きだったですわね。
神山正二郎    よくご存じで、光栄の至りです。

           (佐伯真理子は佐伯秀哉の隣に座ると、 佐伯秀哉は横にずれる。さらに、真理子が横へ、すると、秀哉は横にずれ長椅子から落ちた)

神山正二郎    どうしましたか・・・・・・?
秀哉・真理子   (2人は揃って)別に!・・・・・・。
佐伯秀哉     (神山正二郎の席を回り、神山正二郎の隣の椅子に座る)私はここで。(そして、自分でウイスキーを注ぐ)
神山正二郎    ・・・・・・?
佐伯真理子    (テーブルに置かれた写真を取り上げ)この方、お幾つ?
神山正二郎    今年で34歳です。碧さんが27歳と、先ほど伺いました。年格好もちょうどよいですな。
佐伯真理子    神山様とは、どういうご関係で?
神山正二郎    私の甥っ子にあたります。つまり、私の兄の次男坊です。
            先日、私のところに遊びに来た時、「伯父さん、誰が僕のお嫁さんいないかなって言うもので」、
            兄が言うには、仕事は猛烈にするが、あとは車に乗るだけが趣味。決まった人がいないと言って気をもんでいました。
佐伯真理子    (佐伯秀哉に)外車5台、自家用ジェット機で出張するそうですよ。
佐伯秀哉      外車5台、自家用ジェット機で出張! 驚いたものだ。
佐伯真理子    貴方とは天と地ほども違うわね。
佐伯秀哉      (むっとして)・・・・・・、俺は画家だからな。サロン・ド・ドートンヌにも入選している。
神山正二郎    その通りですよ、奥さま。先生は立派なものです。
佐伯真理子    でも、私の梅園が代償よ。代々大切にしてきた私たちの梅園が、今は全て他人さまの家ですわ。
佐伯秀哉      俺が頼んだわけじゃない・・・・・・。だが、フランスに絵の勉強に行かせてもらえた事には感謝している。
            そして、俺たちの生活の面倒もみてくれた。
佐伯真理子    お陰で今はこの屋敷と、小さな庭しか残っていないわ。
神山正二郎    奥さま、話を戻しまして・・・・・・。如何でしょうか、この甥っ子と、一度、碧さまとお会いして頂けませんでしょうか。
佐伯真理子    神山さまのご親戚ならぜひとも。(傍白)外車5台に、自家用ジェット機! 魅力だわ!
佐伯秀哉      碧には好きな人がいるんじゃないかい? 確か、高校時代の同級生。加藤澄夫君が・・・・・・。
神山正二郎    ほー・・・・・・、そんな方がいらっしゃるのですか?
佐伯真理子    ただの昔馴染みの同級生です。別に決まっている訳ではありません。
佐伯秀哉      でも、もう長い付き合いだぜ。12年の付き合いになる。
神山正二郎    それは長いですな。
佐伯真理子    ただ長いだけです。何もあるはずないわ。
佐伯秀哉      あるかないか、それは分からんだろう。
佐伯真理子    あの子は、貴方とは違うんです。そんなことが、ある筈ないわ。
神山正二郎    (2人を見ながら、怪訝な顔)・・・・・・。
佐伯秀哉      澄夫君はお金はないが、好青年だと思うがね。そりゃ自家用車もない。ましてや、自家用ジェット機など想像もできない。
佐伯真理子    私はもう、お金の苦労は、あの子にさせたくありません!
佐伯秀哉      お金の苦労? 君が働いたお金を、俺が食いつぶした訳ではないだろう。
佐伯真理子    同じことよ、お父さんの遺産を食いつぶしたんだから。だから、澄夫君は駄目なの。自称詩人にして塾の講師じゃ困るの。
神山正二郎    それでは、今回の話は、なしにいたしましょうか? こういう事は、ご夫妻に納得して頂かないと・・・・・・。
佐伯秀哉      そうですね、取りあえずは、そういう事でお納めいただけたら・・・・・・。娘の大切な将来の事ですから。
神山正二郎     分かりました、今回の事はなかった事に致しましょう。
佐伯真理子    待って下さい。私は悪い話だとは思いません。外車が5台に自家用ジェット機、素敵なお話だと思います。
佐伯秀哉      真理子、幸せはお金じゃ買えないよ。

佐伯真理子    幸せも貧乏で壊れる! (秀哉をきっと睨み)お金があるから、女遊びも出来るのよ、ねー貴方! いったい誰のお陰かしら?
神山正二郎    (2人を見て)・・・・・・(傍白)今日はどうかしてる。
佐伯秀哉・佐伯真理子 何か言いまして・・・・・・?
神山正二郎    いや、何も。
佐伯秀哉・佐伯真理子 ・・・・・・。  

佐伯真理子    良い話ですわ、ぜひお願いいたします。
神山正二郎    と、言われましても・・・・・・。先生、よろしいのですか?
佐伯秀哉      ・・・・・・。
佐伯真理子    (強い口調で)貴方、異存はありませんね!
佐伯秀哉      ・・・・・・(小さく頷く)

佐伯真理子    神山さま、よろしくお願いいたします。
神山正二郎    それでは、いつ2人を引き会わせましょうか?

佐伯真理子    来週の日曜日は休みだと言ってました。どうでしょうか、来週の日曜日の午後2時と言うことで。もう一度確認をとってみますが。
神山正二郎    私も康文に連絡を入れて、都合を聞いてみます。何もなければ、それで決定といたしましょう。
佐伯真理子    それまで、お見合いの話は、私たちだけの秘密。碧には内緒にしておきましょう。

神山正二郎    はい、お約束いたします。
佐伯秀哉      私は反対だな・・・・・・。碧の承諾も取らないなんて。
佐伯真理子    心配いりません。私が責任を持ちます。神山さま、そういうことで、よろしくお願いいたします。

            (そこへ、佐伯碧が帰宅した。右足に障害があるせいか、歩き方が微かに縦に揺れる)

佐伯真理子    (碧に近寄りながら)お帰りなさい。今日は早かったわね。
佐伯碧       そうでもないわ。もう8時半ですもの。
神山正二郎    碧さま、お久しぶりで・・・・・・。ご立派になられて。今は精神科のお医者さんだそうで。
佐伯碧       はい、順日大学の勤務医をしております。
佐伯真理子    ところで、今月の最終日曜日、お休みでしょ? 何か用事でもあるかしら?
佐伯碧       たぶん休みだと思いますが・・・・・・。スケジュール表を見ないと、はっきりは言えませんが・・・・・・。何かありますの?
佐伯秀哉      実は・・・・・・。
佐伯真理子    (秀哉をさえぎり)じゃ、家にいるのね。
佐伯碧       はい? ところで、神山さま、何か御用でしたの?
神山正二郎    (無言)・・・・・・。
佐伯秀哉      実は・・・・・・。

佐伯真理子    (秀哉をさえぎり)じゃ、日曜日の2時頃、家にいるのね。
佐伯碧       たぶん・・・・・・? それがどうかしまして?
佐伯真理子    ということで、(神山正二郎へ)よろしくお願いいたします。
佐伯碧       ・・・・・・。
佐伯真理子    神山さま、精確なことは、また後日、ご連絡いたします。
佐伯碧       ・・・・・・少し疲れましたので、失礼いたします。神山さま、ごゆっくりしてくださいね。

            (上手奥の扉から退場する)

神山正二郎    昔のままだ。笑顔が美しい。そして、礼儀正しくて、とても優しい。ぜひ、この話を進めさせていただきます。
佐伯真理子
    こちらこそ、良いお話をありがとうございます。
佐伯秀哉      私は気が進まないね。昔から付き合っている澄夫君がいるじゃないか・・・・・・

佐伯真理子    時が来れば、全ては解決します。
神山正二郎    (テーブルの鞄を持ちながら)それでは、私はこれで失礼いたします。(玄関口へ)
佐伯真理子    ご苦労さまでした。気をつけてお帰り下さいませ。
佐伯秀哉      (軽く会釈をして、頭を下げる)

            (神山正二郎は退出した)

佐伯秀哉      ・・・・・・私は気が進まないが・・・・・・
佐伯真理子    良いお話ではございませんか。何が不服なのかしら、貴方は? 碧には貧乏はしてもらいたくないの。
佐伯秀哉      今でも、碧は立派に生活しているじゃないか。
佐伯真理子    でも、澄夫さんでは、先が思いやられるのよ。
佐伯秀哉      澄夫君だって、働いていないわけじゃない。ちゃんと子供の学習塾の先生をしている。そして、詩を書いている。
佐伯真理子    それがいやなの。画家と詩人、どこか匂いが似ているの。そのうち、働かないで、詩人1本で行くなんて事になったら大変でしょ。
佐伯秀哉      澄夫君に限って、絶対にそんなことはない!
佐伯真理子    どうして貴方に分かるの?
佐伯秀哉      匂いで分かる。
佐伯真理子    だから、その匂いが、私は嫌なのよ! 貧乏詩人なんて、私はまっぴら!
佐伯秀哉      貴方が結婚するわけではないんですよ。結婚するのは碧です。
佐伯真理子    碧は私のたった1人の娘です。彼女の幸せが私の幸せ。そして、私の幸せが碧の幸せなの。
佐伯秀哉      それなら、碧の気持ちを、もっと大切にしてあげなくてはいけないだろう。
佐伯真理子    分からない人ね。大切にしているから、今日の縁談があるんじゃないの。
佐伯秀哉      私には一向に、貴方の気持ちが理解できん。
佐伯真理子    理解できなくても結構! この件は進めますからね。
佐伯秀哉      私は反対だ。澄夫君が可哀そうだ。
佐伯真理子    澄夫君、澄夫君って、嫌に肩を持つこと・・・・・・。
佐伯秀哉      そうさ、澄夫君は好青年だ。何時か近いうちに、必ず文学賞を取ると私は信じている。
佐伯真理子    どうして、貴方に分かるの?
佐伯秀哉      私の感さ。そんな予感がする。
佐伯真理子    当てにならないこと。
佐伯秀哉      私は、フランスに行っていた時、君に言ったはずだ。
            必ず、サロンヌ・ド・ドートンヌに、入選すると断言した。その通りになったではないですか。違いますか?

佐伯真理子    ・・・・・・
佐伯秀哉      世界の巨匠、マチス、ボナールやルオーたちが参加し、あのセザンヌ、ピカソ、ルノワール、モディリアーニ、ミロなどが活躍した展覧会さ。
            日本人では、藤田嗣治、小山敬三、佐伯祐三、ヒロ・ヤマガタ、織田広喜、鶴岡義雄が挑戦した権威ある展覧会なんだ。

佐伯真理子    だからどうしたのよ。お父様のお金を食い散らかしたくせに。
佐伯秀哉      その言い方は失礼だ、許せんな!

佐伯真理子    そうじゃない? お陰で、残されたものは、この家と小さな庭だけじゃないの。
佐伯秀哉      でも、私は、君の父上との約束は守った。必ず一流の画家になると。
             そして、フランスを代表する展覧会に入選した。きっと、お父さまは理解してくれていると、自信を持って言える。

佐伯真理子    だからって、モデルに手を出していいわけ? 冗談じゃないわ、まったく。みっともないったらありゃしないわ。
佐伯秀哉     そのことは君の誤解だと、さっきから言っているじゃないですか。しつこいな君も。
佐伯真理子    何がしつこいのよ!(佐伯秀哉に詰め寄る) あの水色のハイヒールは何なのよ!
佐伯秀哉      だからそれがどうしたのさ。
佐伯真理子    貴方も強情ね! もう許さない! 

          (佐伯秀哉は慌てって逃げ、アトリエの扉を開け、部屋に飛び込み、扉を閉める)

佐伯真理子    (扉を叩きながら)秀哉さん、許さないからね。覚悟していなさい! そして、神山さまのお話は決めましたからね。
           (振り返り、正面に歩きながら)全く、芸術家って、生活力もない癖に、気位だけは高いのよ。
           そして、幾つになっても、性欲だけはごご盛んなんだから、手に負えないわ。ほんとうに、困った種族だわね、まったく・・・・・・。


         (テーブルの上のグラスやアイスペール、酒瓶をかたずけ、下手の台所に消える。その時、観客に向かって独白する)

佐伯真理子    絵描きに惚れたら、貧乏が付いて回るわ。
         
           2幕
            4月の最終日曜日の午後2時頃。
            場所は1幕と同じ部屋。

         (佐伯真理子が、豪華にツツジが活けられた花瓶を持って登場

佐伯真理子    (テーブルの上に花瓶を置きながら)この季節はやはりツツジね。かつて私たちの広い土地には、何時もたくさんの花が咲いていたわ。
            春になると、梅の園には、一面に紅白の梅の花が咲くの。そして、水仙の黄色い花も可憐に咲き始める。
            やがて、桜が咲き、深紅のツツジが太陽を浴びて輝くの。

            何時でも、この私たちの土地に咲く花たちが、季節を鮮やかに教えてくれたわ。
           それが今では、僅かに残された、400坪程の土地だけ・・・・・・。
            私たちの生活のために、少しづつ少しづつ売却してしまった・・・・・・。芸術家との生活、何時の時代でも、苦労だけが付いて回るわ。
           
            (佐伯秀哉がアトリエから出てくる)

佐伯秀哉      庭のツツジかね。見事なものだ! 昔はたくさんのツツジの花が咲いていた。本当に、ここは季節の花々が咲く花園だった。
佐伯真理子
    そうですね。それが今、残された僅かの庭だけ。広大な私たちの土地は、いったい何処へ行ってしまったのかしら。
佐伯秀哉      ・・・・・・・・。           
佐伯真理子    たくさんの季節の花々の咲く彼方に、くっきりと姿を現した富士山がとても美しかった。
佐伯秀哉      本当に、花園の彼方に、雪をいただいた真っ白な富士山は、絵のように美しかった。
            夕暮れ時になれば、夕靄に霞む山並の上に、夕焼けの残光を浴びた富士山が、くっきりとシルエットを浮かびあがらせていた。
佐伯真理子    この自然が、私たちの宝物だったの。でも、今は何も見えないわ、この僅かに残された庭以外は・・・・・・。
佐伯秀哉      過ぎたことは、幾ら考えたとても、もう帰ることはないのさ。これからを大切に生きることに意味がある。
            だから、私は、これからも、人々に感銘を与えられる作品を作るために生きるつもりだ。
佐伯真理子    貴方はいいわ。何も失わなかったのだから。
佐伯秀哉    
 いや、私だって、そんな不甲斐ない自分に情けなかった。でも、私に出来ることは絵を描くだけだ。
            君のお父さんに、恩返しをするためにも、素晴らしい絵を描く事しか考えられなかった。
            その結果、君たちの先祖さまから預かった土地を、切り売りさせてしまった・・・・・・。       

佐伯真理子    いまさらそんなことを言われても、失われた土地は帰ってこないわ。
佐伯秀哉      確かに、君には悲しい思いをさせた。だが、今の我々には、立派に育った娘がいるじゃないか。
           私も洋画家として、そこそこのポジションにはいる。これからはもう、君に悲しい思いはさせないつもりだ。

佐伯真理子    ・・・・・・。
佐伯秀哉      僕たちはまだまだ若い。だから、これからの人生を、大切に生きようじゃないか。
佐伯真理子    ・・・・・・、でも、それなのに、あのモデルさんとは何をしていたのよ?
佐伯秀哉   
   またそれか、うんざりだな。だから何度も言っているだろう、君の誤解だって。         
佐伯真理子    何よ誤解って! 女には直感ってものが働くの。

            (玄関のチャイムが鳴った)

佐伯真理子    あら、神山さまかしら(玄関へ。そして、ドアを開ける)いらっしゃいませ。神山さま、どうぞ中へお入りください。お待ちしておりました。
           
         

            (神山正二郎と堀井康文が登場)

神山正二郎    今日は良い陽気で気持ち良いですな。お庭のツツジが満開でした。いつ来ても、お花が奇麗で。
佐伯真理子    昔に比べれば、まるで箱庭のようなものですわ。
佐伯秀哉   
   神山さま、わざわざご足労いただきありがとうございます。
神山正二郎    この子が甥の堀井康文です。
堀井康文      伯父さん、この子はやめてくださいよ。私だって、もう34歳ですから。
神山正二郎    そうか、34歳になるか。私には、まだまだ鼻たれ小僧なんだけどな。考えてみれば、今は立派な青年実業家なんだからな。
堀井康文      それほどでもありません。世界には、まだまだ、凄い会社があります。やがて、世界一になるつもりですが。
            (持っている大きな花束を、佐伯真理子へ手渡す)
佐伯真理子    ありがとう、なんて素敵な花でしょう。さすがに、神山さまの甥ごさんだけはありますわね。
            お花なんて気がきくこと。将来が楽しみですわね。本日はようこそおいで頂きました。
            私が佐伯真理子、碧の母です。そして、こちらが、私の夫で洋画家の佐伯秀哉です。
           伯父さまには、昔から何かとお世話になっております。 私たちが知り合ったのも、伯父さまのお世話でした。
            (佐伯秀哉を横目で見ながら)でも、その事が成功だったか、失敗だったかは分かりませんけど・・・・・・。
            立ち話もなんですので、どうぞ、こちらにお座りください。

            (それぞれに、大テーブルを囲んで、座る。)

佐伯真理子    私は頂いたお花を花瓶に活けてきますので、ちょいと失礼いたします。(下手へ消える)
神山正二郎    先生、大作は出来上がりましたかな。私も大いに期待しておるのですが。
堀井康文      どんな絵をお描きになっているのですか?
神山正二郎    「ヴィーナスと一角獣」
200号の大作だそうだ。ぜひ私どもの画廊でもお願いしますよ。
佐伯秀哉      はい、何時もお世話になっている神山さまですから、喜んで展示させていただきます。
神山正二郎    それでは、今年の秋頃にはいかがでしょうかな?

佐伯秀哉      かしこまりました。
堀井康文      先生、その 「ヴィーナスと一角獣」、ぜひ、私に購入させてください。
佐伯秀哉     
 (きっと、堀井康文を睨む)
神山正二郎    康文! 失礼なことを言うものではありません! 
         
堀井康文      でも、幾らでも値段はかまわないから買いたいのです。
佐伯秀哉      君は絵を好きですか? 美術展など観に行きますか?
堀井康文      今はとても忙しいので・・・・・・。
佐伯秀哉      忙しいからこそ、人は絵を求め、音楽を愛し、演劇を愉しむのではないでしょうか。芸術はお金では測れないものです。
堀井康文      ・・・・・・(言われていることが、余り理解していないようだ) 

神山正二郎    先生、まだまだ、世間知らずでして、申し訳ありません。
堀井康文      何か悪いこと言ったかな? 僕は誠意で言ったつもりですけど・・・・・・。少しでも、高い値段で購入してあげたいと思っただけです。
神山正二郎    康文、黙りなさい!

堀井康文      え? 伯父さん、どうかしましたか? 

            (そこへ、大きな花瓶に花を活けて佐伯真理子が登場した)

佐伯真理子    どうかいたしまして?

            (一同、無言)

佐伯真理子    (上手のテーブルにお花を置く)なんて奇麗なんでしょう。生花があるだけで、こんなにお部屋が華やぐ。康文さん、ありがとう。
            待ってて下さいね。今、碧を呼んできます。(上手奥の扉から退場)
神山正二郎    あの碧お嬢さまが、精神科のお医者様になったなんて驚きです。子供の時から、素直で優しいお嬢さまでした。
            私がキティーちゃんを持ってきてあげたら、大喜びをしていたのを、昨日のように憶えています。

佐伯秀哉      そんなこともありましたね。娘も神山さまには、とてもなついていました。
            今でも、キティー人形は、碧の部屋に飾ってあるんじゃないですか。

堀井康文      へー、キティーちゃんが好きだったんだ。それなら、でっかいキティーちゃんも、買ってきてあげたらよかったかな。

         (佐伯秀哉と神山正二郎は、顔を見合わせる

         (そこへ、佐伯真理子と碧が登場する)

佐伯碧       おはようございます。でも、もう2時ですね。私たちの仕事は、時間の観念がおかしくなっちゃって・・・・・・。

            (神山正二郎と堀井康文は、立ち上がり、碧の方へ歩く)    

神山正二郎    こんにちは、何時もお元気そうでなによりです。(堀井康文を指して)これは私の甥の堀井康文です。
佐伯碧       佐伯碧です。
佐伯真理子    若いのに、会社を経営しているそうよ。何という名前でしたかしら?
堀井康文    
  ソフトウィンドウと言います。碧さん、ご存知ですか?
佐伯碧       はい、インターネット関係の会社ですよね。
堀井康文      それは恐縮です。碧さんまでがご存じとは、大変に光栄です。
佐伯碧       若い人たちにも、堀井さんは有名な存在ですよ。
神山正二郎    ほう、康文が若いものにまで知られているとは、これは驚きですな。
佐伯真理子    (佐伯碧に)そんなに有名なの?
佐伯碧       それはそれは、色々な意味で有名です。
神山正二郎    と、言いますと?
佐伯碧       私も余り詳しくはありませんが、最近は色々な会社を買収しているようですわね。
堀井康文      よくご存じですね。新しい事業を自分の会社で開発するよりは、成長している会社を買収した方が、経営効率はとても高いですから。
            それに、現代は、新しい事業を展開するには、莫大な開発費用と時間がかかるようになりました。
佐伯碧       でも、買収された会社は、たくさんの人がリストラされるわ。
堀井康文      それは仕方がありません。資本主義は、過酷な競争社会です。食うか食われるかです。
            私の会社でさえ、10年後はどうなっているか分かりません。
佐伯碧       でも、そうやって、リストラされた人達が、私の科へ、大きな精神的な傷を負って、治療にやって来ます。
堀井康文      ・・・・・・。
佐伯真理子    (とりなすように)さあ、皆さま、そちらに座って、ゆっくりお話しませんか。
佐伯秀哉      そうだな、碧もこちらに一緒に座って話そうか・・・・・・。

            (それぞれに、大テーブルの椅子に移動する)

佐伯碧       ところで、皆さまお揃いで、今日は何かありまして・・・・・・。
神山正二郎    はい、今日は私の甥の康文を、碧さまにどうかと思いまして?
佐伯碧       ・・・・・・。
佐伯真理子    実はね、先日、神山さまがお見えになったわよね。あの時、神山さまからお話があったの。
佐伯碧       ・・・・・・なんのお話ですか?
佐伯真理子    貴方の縁談よ。
佐伯碧       そんなのは困ります。急にそんな話を持って来られても。私は仕事で一杯です。
佐伯真理子    だから、お会いするだけでもと思い、
佐伯碧       今はそれどころではありません! 結婚なんて考えたこともありません。
佐伯秀哉      そうだろう、だから、私は反対だったんだ。
佐伯真理子    (佐伯秀哉を睨む)
佐伯秀哉     
・・・・・・。
佐伯真理子    康文さんは、凄い人ですのよ。外車を5台も持ってるし、自家用ジェット機で、海外出張に出かけるそうなの。そうわね、康文さん?
堀井康文      はい。自家用ジェット機は便利です。時は金なり! 時間はお金に換えられませんから。
佐伯真理子    それに、神山さまの甥子さんですし。ぜひ、ご紹介だけでもと思って、今日、いらしていただいたのです。
佐伯碧       私の都合も聞かないで、失礼じゃないですか。
佐伯真理子    だから、先日、神山さまがみえた時、聞いたでしょ? 「今月の最終日曜日の2時頃、家にいるのね」って。
佐伯碧       そんなの、聞いたことにはならないわ!
佐伯秀哉      私もそう思うがね・・・・・・。
佐伯真理子    (佐伯秀哉を睨む)
佐伯秀哉      ・・・・・・。
佐伯真理子    碧さん、そして、それから、確認もとったわよね。
佐伯碧       でも、そんなの勝手だわ。それに私は、まだまだ、結婚なんて考えてもいません。
            私は少し用事がありますので、失礼いたします。皆さま、ごゆっくりしていってくださいませ。

            (にこりと笑顔見せながら、自分の部屋へ消える)

堀井康文      なかなか厳しい方ですね・・・・・・。でも、自分の意見をしっかりと言える人、私は大好きです。
佐伯真理子    碧はまだまだ子供でして、失礼いたしました。そう言っていただけると・・・・・・。
堀井康文    
 私は何とも思っていません。精神科のお医者さんは、それくらい精神が強くなくては、やっていけないと思います。
神山正二郎    康文、お前もだいぶ成長したな、見直したよ。
佐伯真理子    でも、あの子は昔は泣き虫だったわ。そして、5歳になった春のこと、庭で遊んでいた時、足を挫いてしまって・・・・・。
            それがもとで、今でも少し歩き方が・・・・・・。
神山正二郎    いいえ、ほとんど分かりませんよ。
佐伯真理子    ありがとうございます。そのために、あの子はとても辛い思いをしました。だから、彼女は精神科を選びました。
            私のように辛い思いをした人や、心に傷を負った人たちのためになりたいと思ったみたいです。
            私のような世間知らずにも、あの子の考えの素晴らしいことは分かります。そして、あの子を誇りに思っています。

堀井康文      それは素敵だ。私は足の事など気になりません。おばさん、私は急ぎませんから、時間を掛けて、碧さんと付き合わせてください。
佐伯真理子    おばさんって、何方?
神山正二郎    康文!
堀井康文      え? 

神山正二郎    奥さまですよ。
堀井康文      あ、失礼いたしました。奥さまですよね。
佐伯真理子    どうせ私はおばさんで結構です・・・・・・。
堀井康文      いえ、奥さまです。出来れば、将来のお母様です。
佐伯真理子    まあ、なんて気が早いこと。
堀井康文      ところで、今、佐伯家の土地は何坪あるのですか?
佐伯真理子    ・・・・・・?
堀井康文      ここのロケーションがとても素敵ですから、このままではもったいないと思いまして。
佐伯真理子    もったいない?
堀井康文      はい。だいたいで結構ですので、教えていただけませんか?
佐伯真理子    (少し前へ進み、正面を向きながら、右手を伸ばしながら)昔は、自分の土地だけを歩いて、駅まで行けたとお祖父さんが言ってました。
            でも、現在残っている土地は、400坪足らずです。
堀井康文      400坪ですか・・・・・・。どうですか、この土地に高層ビルを建てては。
佐伯真理子    高層ビル? この土地に?
堀井康文      そうです、ここにです。そして、高級マンションにして貸すのです。私の会社の関係で、不動産会社もあります。
佐伯秀哉      借りてなんかありますか、こんな所に?
堀井康文      現代の贅沢は環境です。ここから少し足を延ばせば、多摩川の清流があります。そして、雄大な山々や自然が豊かです。
            高層ビルからは、遠くに雪を頂いた富士山、夕日に照り映えた秀麗な山稜が見渡せます。さらに秩父連山も我が庭のようなものです。
佐伯真理子    神山さま、さすが、現代の青年実業家だけあって、発想が素晴らしい!
神山正二郎    発想は奇抜だが、不可能なことでもあるまい。だが、果たして、この場所で大丈夫なのだろうか?
堀井康文      伯父さん、実業とは、人が思いつかないことを、発想することにあります。
           そして、綿密に計画をたて、資金を潤沢に用意し、あとは行動あるのみです。
            人が恐れること、人が想像しないということは、いまだ、パイは全て自分のものだと思うのです。危険と成功は背中合わせなんです。
佐伯真理子    さすがに、成功した実業家の、自信に溢れたご意見。私、大賛成ですわ。
            そしたら、最上階に、私たちの住まいと、秀哉さんには、360度のパノラマの見えるアトリエを作ってあげられるわ。
堀井康文      はい、それは簡単に実現できます。
佐伯真理子    秀哉さん、素敵でしょう。以前から言っていらしたじゃないですか、もっと広いアトリエが欲しいって。
佐伯秀哉      それはそうだが・・・・・・。でも、この屋敷と庭を潰して、高層マンションなんて、余りにも唐突過ぎる。それに、私はこの建物、この庭を愛している。
佐伯真理子    もう、そんな時代じゃないのよ。古きものは何時か消滅し、新しい姿で蘇るものなの。
佐伯秀哉      私はそうとも、いちがいには言えないと思う。時代が変わろうとも、人間の心は変わらない。
            そして、一度、破壊された自然は、二度と戻ってこない。
            すでに、この先祖代々伝わる片桐家の梅園は、全てと言ってよいほどに、今は消えてしまっている。
佐伯真理子    誰のせいなのかしら?
佐伯秀哉      確かに、私にも責任はあると思う。だからこそ、残されたこの土地は、なんとか維持しなければいけない。それが私たちの責務だと思う。
佐伯真理子    私は、かつてのように、華やかな時代を取り戻したいの。高層マンションのオーナーになるなんて、夢のようだわ!
佐伯秀哉      それに、建築資金はどうするのさ?

堀井康文      それならば大丈夫です。この土地を担保にして借り入れる。私が保証人になれば、資金は幾らでも引き出せます。
            それはやがて、碧さまのためにも、そして、いずれは私たちのためにもなる。
佐伯秀哉      君、まだ碧の件は何も進んでおりませんぞ!
 早合点してくれては困る。
堀井康文     ・・・・・・。
佐伯秀哉      私は不賛成だ。今は私の稼ぎで、充分にやっていける。この自然があるから、私の芸術もあり創造するエネルギーも与えてくれる。
佐伯真理子     でも、この土地は私の先祖が残してくれたものです。最後に残った土地は、私のために使わせて下さい。


            (玄関のチャイムが鳴った)

佐伯真理子    誰かしら?(上手の扉を開け玄関へ)あら、澄夫さん、何かご用事?
加藤澄夫      (加藤澄夫の声が聞える)今日、碧さんが、こちらへ来るように言われましたので。少し、約束の時間より早いのですが・・・・・・。
佐伯真理子    そうなの、まあ、こちらへお入りください。

            (加藤澄夫が登場する。背がすらりと高いが、かなり痩せている。今時には珍しく、丸い眼鏡を掛けている。一昔前の書生のようである)

佐伯真理子     (傍白)わざわざ、こんな時に来なくたっていいのに。またややこしくなる。
加藤澄夫      (余りにも、たくさんの人がいるので当惑して)僕、出直して来ます・・・・・・。

佐伯秀哉      澄夫君、遠慮せずにこちらへどうぞ。長い付き合いなのですから遠慮せずに。
加藤澄夫      あ? はい・・・・・・。
佐伯真理子     澄夫さん、今、碧を呼んで来ますね。ちょっと待ってて下さい。(佐伯真理子は、上手奥の扉から退場する)

佐伯秀哉      澄夫君、久しぶりだね。今はどうしているのかね?
加藤澄夫      はい、相変わらず詩を書いています。
佐伯秀哉      何処かに発表をしているのかね?
加藤澄夫      はい、先日も文芸誌に投稿しました。何時も最終選考までは行くのですが・・・・・・。
佐伯秀哉      そうですか。きっと、そのうち、文学賞をいただけますよ。とにかく、諦めずに、書き続けることです。
神山正二郎    
佐伯秀哉に向かって先生もそうでしたな。サロンヌ・ド・ドートンヌに入選するまでに、だいぶ時間がかかりました。
佐伯秀哉      45歳の時でした。そこまで続けられたのは、真理子の父親と真理子のお陰だと、今でも感謝しています。
神山正二郎    芸術には、時間とお金がかかり過ぎる。しかし、人に感動を与えることが出来るからこそ、例え貧乏しようとも、一生を掛ける価値がある。
佐伯秀哉      はやく、澄夫君の作品が、日の目を見る時が来るといいな。幾ら時間がかかってもいい、頑張りなさい。そして、続けることです。
加藤澄夫      はい、私には書くことしか出来ませんから。
堀井康文   
  (加藤澄夫に握手をする)澄夫さんと言いましたね。こんにちは、堀井と言います、よろしく。
加藤澄夫      は・・・・・・?
堀井康文   
  今日、私と碧さんとの見合いの日に出会うとは、何とも奇遇です。これも何かの縁ですね。
加藤澄夫      お見合い? ですか?
堀井康文     はい、聞いてないですか?
加藤澄夫      ・・・・・・はい・・・・・・。
佐伯秀哉      いや、お見合いということではないのですよ。顔合わせです。
堀井康文      伯父さん、そうなんですか?
神山正二郎     取りあえずは、まず会うことから始まる。そして、お互いが気に入れば、話は自然と進むもの。それでよいだろうが・・・・・・。
堀井康文      そうですね、形式などどうでもよいのですから。ところで、澄夫さんは、仕事は何をしているのですか?

加藤澄夫      塾の先生をしています。今は、小学生の高学年を教えています。
堀井康文      収入はどれぐらいあるのですか?
神山正二郎    康文、会ったばかりの人に失礼ですよ! 澄夫さん、御免なさいね。世間知らずなものですから。

加藤澄夫      いえ気にしません。よく聞かれることですから。(少し考えて)そうですね、月々26万円くらいですか。
堀井康文      家から通っているのですか?
加藤澄夫      いえ、独立しています。
堀井康文      よくやっていけますね、それで?

加藤澄夫       余裕はありません。でも、生活はちゃんと出来ます。詩を書いていく時間さえあれば充分ですから・・・・・・。
堀井康文      それだけで、充分ですか? 他には何も望まないってことですか?

加藤澄夫      生活が人並みに出来て、さらに、自分の好きなことが出来るだけで満足しています。
堀井康文      私には分かりません。人間の豊かさは、お金にかなり左右されると思いますが・・・・・・。お金がなければ、何もできないとは思いませんか?
加藤澄夫      人には様々な生き方や価値観があることを、私は否定しません。私の考え方としては、物質の豊かさよりは、心の豊かさに意味を置きます。
佐伯秀哉      澄夫君、私も同感です。
堀井康文      でも、物質の豊かさが、心の豊かさを支えると思うのですが・・・・・・。

            (佐伯真理子と碧が登場)

佐伯碧       澄夫君、早かったわね。
加藤澄夫      用事が早く終わったので・・・・・・まずかったかな?
佐伯碧       いいえ。

佐伯真理子   紹介するわ、康文さん。こちらは、加藤澄夫さん、碧の幼馴染みです。
堀井康文    
  みたいですね。今時珍しく純真な方です。
佐伯真理子   こちらの方は、堀井康文さん。インターネットの会社を経営しています。自家用ジェット機で、世界を飛び回っているそうです。
佐伯碧       澄夫君、私の部屋へ行きましょう。
佐伯真理子
   碧、澄夫君も一緒に、もう少しここにいてくださいな。
佐伯碧       なぜ? 私が呼んだわけでもないのに・・・・・・。
佐伯真理子
   どうかしら、澄夫さん?
加藤澄夫      私はいいですが・・・・・・。
堀井康文    
  ありがとうございます。そうしていただけますか・・・・・・。
佐伯碧      ・・・・・・(は少し不満顔である

         (佐伯碧と加藤澄夫は上手の椅子に座る)

堀井康文      ところで碧さん、先ほどもお母様にお話ししたのですが、私の構想を聞いてください。
佐伯碧      ・・・・・・。
堀井康文      現在、佐伯家には、約400坪の土地があるそうです。
           そして、使われている土地は、この古い建物だけです。もったいないとは思いませんか?
           そこで私は、お母様に提案いたしました。お父様は少し反対なようですか・・・・・・。聞いていただけますでしょうか?
佐伯碧       はい、聞くだけでしたら、どうぞ・・・・・・。
堀井康文    
  この土地に、高層マンションを建てるのです。400坪あれば、かなり高いビルが建ちあがります。
           そして、最上階に、家族は住み、佐伯画伯のアトリエも造るのです。
            さらに、2階には、碧さんのクリニックも造るのです。どうですか、私のアイデアは?
佐伯真理子    素敵じゃない、碧さん? さすが、青年実業家ならではのアイデアだわ、そうでしょう?
佐伯碧       私は大反対だわ! 勿論、お父さまも反対ですよね?
佐伯秀哉      勿論! 

佐伯真理子    何故ですの? あれだけあった広大な梅園も全て消え、残された土地は僅かに400坪だけなのよ。このままでは、全て無くなってしまうわ。
佐伯秀哉      そんなことはないさ。私も今は、日本画壇のそこそこのところにはいる。こうして不自由なく生活していけるではないですか。
            そして、碧も医者として、立派に働いている。それだけで充分だと、私は思う。
佐伯真理子    私はいや! 昔のようにもっともっと華やかで、豊かな生活がしたいの。
            父が残してくれたものを、少しづつ食いつぶしてきた生活におさらばしたいのよ。

佐伯秀哉      私にも大いに責任があることは、重々に承知している。
           でも、それだからと言って、この土地に、高層マンションを建てなくてもよいと思うが・・・・・・。
佐伯碧       私もそう思うわ。それに、土地が無くなったのは、お父様の責任だけではないと思う。
佐伯真理子    それ、どういう意味かしら?
佐伯碧       ・・・・・・。
佐伯真理子    それ、どういう意味なの?
佐伯碧       ・・・・・・。
佐伯真理子    言ってくれなくては分からないわ!
佐伯碧       ママにも責任があると思うの。
佐伯真理子    責任がある?
佐伯碧       パパは一生懸命に油絵を描いた。でも、なかなか絵は売れなかった。神山さま、そうですわね?
神山正二郎    (頷いて)・・・・・・。
佐伯碧       でも、祖父が生きている間は、パパの才能を信じて、パパを支えた。
           そして、祖父が亡くなり、私たちの家族が、この家と財産を受け継いだ。
佐伯真理子    それで、何がおっしゃりたいの?
佐伯碧       家族は支え合うものだと思います。この祖父から頂いた財産を切り売りするのではなく、ママも働くべきだった。
            そして私も、お金のかかる医学部などに入るべきではなかったのです。
佐伯真理子    小さい貴方を家に置いて、働くべきだったと言うのですね。
佐伯碧       だから、少なくとも、パパだけが責められるべきではないと、私は言いたいのです。
佐伯真理子    (佐伯碧を凝視している)・・・・・・皆さま、私、失礼いたします。

            (佐伯真理子は、下手の扉を開けて退場した)

加藤澄夫      碧さん・・・・・・。
佐伯秀哉      碧、少し言いすぎだよ。今日はどうかしてる。
神山正二郎    こんなことになって・・・・・・、碧さま、申し訳ありません。
佐伯碧       神山さまには責任がないことですから・・・・・・。
神山正二郎    康文、今日はそろそろお暇しましょう。
堀井康文    
  はい。でも、なかなかいいアイデアだと思うのですが?
佐伯碧       何処が良いアイデアなのですか? 他人の家庭を土足で踏み荒らさないでください!
堀井康文      土足で踏み荒らさす? そんなつもりはありません。使われていない土地を有効活用するのが、間違っているのでしょうか? 
            土地は使われて初めて、経済的な価値を生み出します。
佐伯碧       そうでしょうか、私はそうだとは思いません? かつて、 私たちの土地には、大きな梅園がありました。
            そして、季節の折々に、色とりどりの花が咲き、その花の蜜を求めて、たくさんの昆虫が飛んで来ました。
            木々に実った果実をついばみに、様々な野鳥たちもやって来ました。
            遠くには、山々の折り重なった稜線の彼方に、雪を頂いた富士山が、夕陽に照らされ、
            やがて微かな残照に輝き、やがて夕靄の中に影絵のように消えていくのです。
           
 これほどに美しい自然は、何物にも変えられないと思います。
            この大切な自然を破壊して、巨大な高層ビルを建てることに、どんな意味があるのでしょうか?
            自然は誰のものでもありません! 私たちの共有財産なのです。この佐伯家の土地も、たまたま、私たちが所有しているだけなのです。
            この土地は、神様からの預かり物なのです。
            ですから、この土地に、巨大なビルを建てることには、私は絶対に反対です。それは自然への冒涜です!

佐伯秀哉      (拍手をする)私も、その考え方に大賛成だ!
堀井康文      私も、碧さまの考えが、理解できないわけではありません。しかし、お母様には、私の考えに、かなり同感して頂きました。
            自然はかけがえのないことを、私は否定はしません。だが、遊休地を経済的に活用することは、間違ってはいないと思うのですが?
佐伯碧       私たちの庭の、様々な花々を眺め、新緑に萌える若葉の匂いを愉しみ、紅葉した木々を愛でることは、それだけで価値があります。

            すべてにおいて、経済的な価値が先行し、経済優先の社会が、人間の心の荒廃を産み落としているのではないかと、私は考えています。
            だからこそ、そんな時代に、心に傷を負ってしまった人達の力に、少しでもなれればと思い、私は今の仕事を選びました。
            高いお金を負担して頂き、医者になれたことに対しては、両親にはとても感謝しています。
            時間さえあれば、これからは、この土地に、もっともっと草花をたくさん植えて、自然を多くの人と一緒に愉しみたいと思います。
 
            そして、私たちのささやかな庭園を、お世話になっている、この土地に住む人たちに、開放しようと思っています。お父様も賛成してくれますよね。
佐伯秀哉       (拍手をする)・・・・・・。
堀井康文      (佐伯秀哉を見る)・・・・・・。
佐伯碧       これから、私たちは出かけるところがあるので、失礼いたします。澄夫さん、行きましょうか。
加藤澄夫      そうですね。遅くなるといけませんから・・・・・・。どうも皆さま、お邪魔しました。

            (佐伯碧と加藤澄夫は玄関から出て行く) 
     
神山正二郎    
佐伯秀哉へ碧さま、見事に成長しましたな。きっと立派なお医者様になるでしょう。
佐伯秀哉      まだまだ、これからですが、良くやっていると思います。でも、少し、性格がきつくなったかな・・・・・・。
神山正二郎    それぐらいでなければ、大学病院の精神科医は務まらないでしょう。
堀井康文      碧さんのこと、私は余計に好きになりました。
            私とは、考え方は水と油のようですが、はっきりと自分の意見を主張をする女性は、大好きです。私は諦めません。
神山正二郎    というところで、康文、そろそろ、お邪魔することにしよう。それでは、先生の還暦の誕生日のお祝いに、また来させていただきます。
            ところで、還暦のお祝いは何時でしたかな?
佐伯秀哉      66日の土曜日です。
神山正二郎    お時間は何時でしょうか?
佐伯秀哉      2時からの予定です。
神山正二郎    その時、また、甥っ子も一緒にお邪魔させていただきます。
佐伯秀哉      神山さま、わざわざ来られなくても、お気持ちだけで結構です。
神山正二郎    そういう訳には参りません。先代からの長いお付き合いもありますし。
            そして、先生の「ヴィーナスと一角獣」の完成祝いも兼ねさせていただきます。
佐伯秀哉      それはかたじけないことで。ありがとうございます。
神山正二郎    それでは、66日に伺わせていただきます。奥様にもよろしくお伝えくださいませ。
堀井康文      どうもお世話さまでした。碧さんのこと、もう少し、時間をお願いします。
佐伯秀哉      ・・・・・・。
神山正二郎    では、これで失礼させていただきます。

            (神山正二郎と堀井康文は退場する)

佐伯秀哉      ややこしいことになったものだ・・・・・・。

            3幕      
             佐伯秀哉の還暦祝いの日
          部屋の中央には、繋げて大きくなったテーブルに、花柄のテーブルクロスが掛けられ、
            真ん中には、豪華な花が活けられた大きな花瓶が置かれている。
            用意された大皿には、佐伯真理子と碧の手作りの料理が並べられている。
            花瓶の横には、シャンパンクーラーが置かれ、シャンペンが3本冷やされている。
            舞台には佐伯秀哉、佐伯真理子を中央にして、佐伯碧、加藤澄夫は下手側に、
            神山正二郎、堀井康文、片山マリ(堀井康文の秘書・26歳)が上手側にいる。

            (堀井康文はシャンパンクーラーから、ワインを取り出す。秘書はテーブルにシャンパン・グラスをセットしている)

堀井康文      それでは、佐伯秀哉画伯さまの還暦を祝して、シャンパンを開けさせていただきます。
            (シャンペンを勢いよく開けた。そして、秘書がセットしたグラスにシャンペンを注いでいる) 
            佐伯画伯はシャンパンがお好きなそうなので、今日は最高のシャンパン、サロンを用意させていただきました。
            フランスの伝統あるサロンヌ・ド・ドートンヌを受賞した画伯には、シャンパンの最高峰、名前も同じサロンが相応しいでしょう。
            皆さまも、画伯の還暦を祝って、ぜひとも、サロンのシャンペンを愉しんでください。
            たくさんご用意しましたので、ご遠慮なくお飲みになってください。           
            
            (秘書は、注がれたグラスを、お盆に乗せて、モンローウォークで歩きながら、それぞれに手渡している)
  
佐伯秀哉      (シャンパン・グラスを、右手に持ちながら)本日は、私の還暦祝いに、お忙しいところを割いておこし頂き、ありがとうございます。
            振りかえりみれば、ここまでの道のり、悲喜こもごも、言葉では言い表せないほどのことがありました。
            その間、私の妻は勿論のこと、妻のご両親にも多大な支援をしていただきました。
            そして、ここにいらっしゃいます神山さまや、多くの方のお力沿いがあり、現在の私があります。
            これからも、皆さま方の心に残る、素晴らしい作品を描いて行きたいと思います。「ヴィーナスと一角獣」も完成しました。
            この作品を持って、この秋、パリで個展を開く予定です。
           本日は、私の還暦祝いに駆けつけて頂いた皆さま、そして、私の家族に、心からお礼を申し上げます。
佐伯真理子    それでは、神山さま、乾杯の音頭をお願いいたします。
神山正二郎    かしこまりました。佐伯画伯さま、還暦、おめでとうございます。これからも、たくさんの作品を期待しております。
           さらに、この秋のパリでの個展の成功を祈念するとともに、画伯とご家族、
           そしてここにご列席の皆さまのご健康と繁栄を祝して、皆さんと共に、乾杯をさせていただきます。
           (グラスを目の辺りにあげ)それでは、乾杯!
           
           (全員が、乾杯!の唱和)

佐伯秀哉     それでは皆さま、妻と娘の手作りの料理を摘みながら、ゆっくりとご談笑ください。
堀井康文     (佐伯碧と加藤澄夫に近づいて)お嬢さまの碧さん、本日はおめでとうございます。そして、確か澄夫さんと仰いましたね、こんにちは。
加藤澄夫     はい、こちらこそ、よろしくお願いします。
堀井康文     碧さん、どうですか、このシャンパンは?
佐伯碧       あまりよくわからないのですが美味しいです。
           とても、芳醇な香りがします。杏のような果実香、そして、どこかナッツの味わいが広がりますわ。
堀井康文     さすがですね、その通りです。出来れば、碧さまの生まれた年の物をご用意したかったのですが。
           残念ながら、その年は、良いシャンパンが出来ませんでした。
           そこで、1988年のヴィンテージを用意しました。
           1985年にも引けを取らない最高のヴィンテージものです。澄夫さん、どうですかね、このシャンパンは?
加藤澄夫     私は味音痴で、シャンパンなど、滅多に飲むこともありません。子供の頃、子供の飲むシャンパンもどきの物しか知りません。
堀井康文     そうですか。でも、なんとなく、美味しさは分かるのではないですか?
加藤澄夫      はい、美味しいような気がします。でも、この長細いグラスに、次々と立ち上る泡がとても奇麗です。
            こうしてゆらゆらと、グラスを揺らすと、きらきらとシャンパンが黄金色に輝くのがとても美しいです。
堀井康文      さすがに詩人だな。飲む歓び以上に、シャンパンを視覚的に愉しむなんて素敵だ。まさに、シャンパンは金色に輝く、飲む芸術作品です。
            (かなり、有頂天になって語り始める)
            シャンパンのサロンは、1914年、第2次世界大戦の年に、ウージェーヌ・アイメ・サロンによって産声を上げたのです。
            コート・デ・ブラン地区の最高の畑ル・メニル村のシャルドネのみを使う究極のブラン・ド・ブランです。
            シャンパンの瓶内2次発酵後に出る滓抜きの時、門出のリキュールと言って、甘いお酒のリキュールを加えることもしません。
            文字通り最高級のシャンパンであり、シャンパンのミステリーと謳われています。
            かの三つ星レストラン・マキシム・ド・パリの全盛期の1920年、サロンはマキシム・ド・パリのハウスシャンパンになったのです!
            
            (佐伯碧と加藤澄夫は、堀井康文の話を聞いていない)

            (そこへ、佐伯真理子が近づいてきた)

佐伯真理子    康文さん、素敵です!(拍手をする)シャンパンにも詳しいのね。
堀井康文      いえ、それほどでもありません。ただ、シャンパンが好きなだけです。
佐伯真理子    外車5台、自家用ジェット機、そして、シャンパン、他に何か趣味はありますか?
堀井康文      他には、何もありません。私は無趣味な人間です。ただひたすら仕事をするだけです。
佐伯真理子    ところで、今はどちらにお住まいなの?
堀井康文      六本木の賃貸マンションに住んでいます。
佐伯真理子    賃貸マンション? 家は購入しないのですか?
堀井康文      はい、あまり所有欲はありませんもので・・・・・・。
佐伯真理子    でも、外車5台に自家用ジェット機も持っているのに・・・・・・、賃貸だなんて、よくわからないわ。月々のお家賃はおいくらなの?
堀井康文      よくわかりませんが、たぶん、400万円位かと思います。
佐伯真理子    400万円・・・・・・?
堀井康文      はい、400万円位かと・・・・・・。
佐伯真理子    400万円・・・・・・(目を回して、卒倒してしまった)

            (佐伯秀哉、神山正二郎、など、みんなが 佐伯真理子を取り囲む)

佐伯秀哉      真理子、どうした?
神山正二郎    奥さん・・・・・・。
佐伯碧       ママ!(呆然と立ち尽くす堀井康文を見て)貴方、ママに、何を言ったんですか?

堀井康文     私は何も言いません。ただ、家賃が400万円位かなって言っただけです。
佐伯碧       400万円?
佐伯秀哉      家賃が400万?
堀井康文      はい、私が借りているマンションの月々の家賃が、400万円位ですと言っただけです。
佐伯秀哉      400万円!(今度は、佐伯秀哉が吃驚して卒倒した)
佐伯碧       パパ! ママ! しっかりしてください!
神山正二郎    康文、もう2度と、この家では、家賃の事は言ってはならん!
堀井康文     (少し怪訝そうに頭を傾げて)はい・・・・・・。

           (すると、玄関でチャイムが鳴った)
     

佐伯碧       何方かしら?(玄関へ行く) 

           (大きな花束を持った山野きみ子と、カメラを抱えた黒木猛夫が登場する)

佐伯秀哉と真理子
(佐伯秀哉と真理子は、ふらふらと立ちあがりながら、見合わせながら)400万円、信じられん! 
山野きみ子    先生、還暦、おめでとうございます。(花束を手渡す。そして、頬に熱いキッスをした。黒木猛はその瞬間をカメラに)
佐伯秀哉      きみ子さん、ありがとう。
山野きみ子    先生、先生の還暦祝いと、絵の完成を祝って、一緒に踊りましょう! 奥さま、よろしいですか?
佐伯真理子    どうぞ・・・・・・。
山野きみ子    ありがとうございます。

            (佐伯秀哉は当惑している)

山野きみ子    さあー、先生、踊りましょう!
           (もじもじしている佐伯秀哉の手を取って、息もぴったりに、タンゴを踊り始めた。
           踊り始めた。それを追うように、黒木猛夫はカメラで写真を撮る)          

            (そして、2人の踊りは終わった。佐伯真理子を除いて、全員が拍手する)

佐伯真理子    (皮肉をこめて)とても、息があってるわね。( 佐伯秀哉を見て)でも、馬鹿みたい・・・・・・。

山野きみ子    奥さま、本日はおめでとうございました。先生の「ヴィーナスと一角獣」も完成しました。パリでの個展が楽しみです。
佐伯真理子    貴方にも色々とお世話さまでした。秀哉さん、余計なことしなかったかしら・・・・・・?
山野きみ子    余計なこと? いいえ、先生は何も・・・・・・。フランス仕込みの紳士ですから。
           何をしても決まります。タンゴもフランスで憶えたそうでとても素敵ですし・・・・・・。
佐伯真理子    (佐伯秀哉に目を流しながら)そのフランス仕込みが曲者なのよ。
佐伯秀哉      (話題を変えるように)こちらのカメラマンは、どういう方なんですか?
山野きみ子    私の友達? と言おうか、私の同居人です。黒木猛夫と言って、かつては、とても行動的な報道カメラマンでした。

黒木猛夫      かつてはとは、ちょっと心外だな。せめて、今は商業カメラマンです位にしてくれないかな。
山野きみ子    あら、貴方、最近、ちゃんとお仕事をしていて?

黒木猛夫      (周りの人間におもねる様に)今は不景気だから、俺たちの仕事もさっぱり暇なのさ・・・・・・。
堀井康文      なら、私の会社に、貴方の作品を持って来てください。これ、私の名刺です。(名刺を黒木猛夫に手渡す)

            少しは役に立つかもしれません。
黒木猛夫      (名刺を見ながら) ソフトウィンドウ堀井康文を見て貴方があのソフトウィンドウの代表取締役ですか?
堀井康文      ご存知ですか? それは光栄です。
黒木猛夫      勿論です。インターネットをする者にとって、知らない者はいませんよ。
佐伯秀哉      ほう、堀江康文君は、そんなに有名なんですか?
山野きみ子    
現代の若者たちの英雄的存在かもしれません。若くして独立起業、世界的な会社を造った億万長者です。
佐伯真理子    外車5台、自家用ジェット機なんて、少ないくらいかしら。家賃400万円なんて、目くそ鼻くそですわね。
佐伯秀哉      たまらんね、 また君はそればかりだ。それに、目くそ鼻くそは表現が汚い。
佐伯真理子    (佐伯秀哉を、きっと睨む)それは失礼いたしました・・・・・・。
神山正二郎    お前もそんなに有名になったとは驚いたものだな。
黒木猛夫      本当に、会社に顔を出してもかまいませんか?
堀井康文      勿論です。来る前に、この私の秘書に電話を下さい。(秘書に)
君、こちらの方に名刺を差し上げなさい。
片山マリ      (何故か、色気たっぷりに、名刺を手渡しながら)秘書の片山マリで〜す。
黒木猛夫      黒木猛夫です。その時は、よろしくお願いいたします。
山野きみ子    (黒木猛夫を見て)良いチャンスじゃない、猛夫さん。今度こそ、まっとうに仕事をしてくださいね。
黒木猛夫      (耳元で小さな声で)今日の仕事が終わったらな・・・・・・。
山野きみ子   
 (耳元で小さな声で)なんて人なの貴方は。犬畜生にも劣るわ!
黒木猛夫    
  それが俺の今の生き方なのさ。

         (山野きみ子から離れ、佐伯秀哉に近づき、先ほど撮った写真を見せる

黒木猛夫       先生、これが先ほどの写真です。なかなか決まっていますね。さすがフランス仕込だ。
佐伯秀哉      なかなか良い写真だ。さすがにプロのカメラマンですな。
黒木猛夫    
  どうですかこれは?(次から次に写真を見せている)先生、こちらへ来て、もっと見てください。なかなか面白いですよ。

           
 (黒木猛夫は佐伯秀哉を連れて、舞台の前方へ進む

黒木猛夫      (デジタルカメラのモニターを佐伯秀哉に見せながら)どうですか?
佐伯秀哉      何てことだ!
黒木猛夫      これも、これも、これも、これも、これも。

            (佐伯秀哉は、写真が変わるごとに、あ!あ!あ!あ!あ!と小さな声を出す

         (佐伯真理子が、後ろから近づいて来た

佐伯真理子    そんなに凄いのですか? 
佐伯秀哉      (
突然の佐伯真理子の声に吃驚し、カメラを黒木猛夫の手から奪おうとした)
黒木猛夫      (カメラを奪われまいとして)何をするんですか。(カメラを、佐伯秀哉の手から取り外す
佐伯真理子    私にも見せてくださいな。

黒木猛夫      はい、奥さま。ちょっとセットしますから待って下さい(カメラを調節している)
佐伯真理子    ・・・・・・。
佐伯秀哉      (傍白)何てことだ。破滅だ! しかし、何時、撮られたのだろうか・・・・・。
黒木猛夫    
  はい、どうぞ。(佐伯真理子はカメラに近づく)よく見ててください。(撮影した画像を、次々にカメラのモニターで再生していく)
佐伯秀哉      (傍白)身の破滅だ!(頭を抱えている)
佐伯真理子    (佐伯秀哉に向かって)何か言って・・・・・・。
佐伯秀哉      何も。(傍白)モデルを信じてはいけない。
佐伯真理子   
 ・・・・・・(佐伯秀哉見る)
佐伯秀哉     佐伯真理子を見て)・・・・・・何も。
佐伯真理子    皆さん、デジカメって凄いわ。こんなに奇麗に写ってる碧、澄夫さん、それに、神山さま、見てごらんなさい。

         (カメラの周りに、佐伯碧、加藤澄夫、神山正二郎が集まる。黒木猛夫は、画像をカメラのモニターで再生している)

山野きみ子    先生、ごめんなさい。私は止めさせたかったんですけど・・・・・・。
佐伯秀哉      どうして、あんな写真が・・・・・・?
山野きみ子   
 私がなんとかしますから。
佐伯秀哉      きみ子さん、どういうことなんですかこれは・・・・・・?
山野きみ子    私が責任を持ってなんとかします。
佐伯秀哉      どうやって・・・・・・?
山野きみ子   
 とにかく、今は任せてください。先生、踊りましょう。
佐伯秀哉     そんな気には・・・・・・。
           
            (山野きみ子は、強引に、佐伯秀哉とタンゴ「ジェラシー」を踊り始める。が、佐伯秀哉の上半身はまったく力なく、足だけが動いている。
            だが、山野きみ子のリードが良いせいか、踊りは様になっている。
            やがて、踊りは終わる。すると、そこへ、カメラを持った黒木猛夫がやって来た)


黒木猛夫      先生ちょっとこちらへ安心してください。あの写真はまだ見せていませんから・・・・・・。
山野きみ子    あなた、やめてください! あなたには、カメラマンとしての誇りはないの!
黒木猛夫      そんなものは、とっくに捨てたよ君は関係ない、向こうへ行ってなさい。
山野きみ子    私に言っていたじゃないの。日本のロバート・キャパになるんだって!
黒木猛夫      こんな身体で何が出来る・・・・・・。こんな身体になる位なら、キャパのように、報道カメラマンとして、戦場で死にたかった
山野きみ子    やり直すなら今からでも遅くないわ。
佐伯秀哉      今からでも遅くはないさ・・・・・・。 脳梗塞の下半身麻痺で、左手だけで鍵盤を叩く有名なピアニストもいる。 
黒木猛夫      五体満足のお前らに何が分かる? きみ子、邪魔だ! 君は向こうにいってろ!

            (山野きみ子を突き飛ばす)

           (山野きみ子は舞台の中央近くまで飛ばされた)

黒木猛夫    
  これは、俺と画伯との取引なのさ。
佐伯秀哉      (黒木猛夫に)君、乱暴はいけないよ!
山野きみ子   
 先生、ごめんなさい・・・・・・。

            (山野きみ子の周りに、皆が集まる)

佐伯真理子    あなた、大丈夫?
山野きみ子    はい、大丈夫です。慣れていますから・・・・・・。
佐伯真理子    (黒木猛夫に)最低だわ、レディーに暴力なんて!

堀井康文      黒木さん、女性に暴力は嫌いですね! 私は、そういう人と仕事はしたくありません!

           (片山マリ
山野きみ子に近づき、下手側の長椅子に座らせる。でも、必要もないのに、何故かモンローウォークで歩く

佐伯真理子    康文さん、素敵! 男らしいわ! 外車5台と自家用ジェット機だけじゃないんだ。それに、家賃の400万円!
堀井康文      
ところで、奥さま、この屋敷の高層ビル計画は、まだゴーサインは駄目でしょうか?
佐伯真理子    私の一存ではねー。この土地は、私の先祖の物でしたけれど、今は私たち3人の共有の財産ですから。
堀井康文      私は、この土地に、さらに大きな価値を付けようと思っているのですが・・・・・・。
            この素晴らしい土地を、たくさんの人に愉しんでいただきたいのです。
            都心から少し離れた場所に、こんなにも豊かな自然がある。青梅に残された昔ながらの豊かな自然。
            この土地に建てられたビルの部屋からは、秩父連山が見え、お正月には、富士山からのご来光を拝むことも出来るのです。
            たくさんの人々に幸せと感動を与えることが出来、さらに、奥さまたちも豊かになれる。
            そのお手伝いを、私に任せていただきたいのです。奥さまたちに、一切のリスクはありません。私が保証します。

         (舞台の上手の前で、黒木猛夫と佐伯秀哉)

黒木猛夫      (デジタルカメラのモニターを、佐伯秀哉に見せながら)先生、これはモデルの仕事じゃないですよね。単なるセクハラですよ。

           
            (モニターの写真が変わるたびに、佐伯秀哉は大きく手が反応する)

黒木猛夫    
  先生、慰謝料、400万円でどうですか?
佐伯秀哉      400万円! なんで今日は400万円が多い日なんだ(頭を抱える)。            

黒木猛夫      高いとは思いませんがね。先生の大作1枚分ですよ。
佐伯秀哉      そんなにはしませんよ・・・・・・。
黒木猛夫    
  それとも週刊誌のスキャンダル記事の餌食、はたまた、テレビへのピンクな話題の提供。それでもよろしいのですか?
佐伯秀哉      ・・・・・・。
黒木猛夫      黙っていては、話が進みません。400万円、払うか払わないかだけです。

            (当てつけるように、カメラのモニターを、佐伯秀哉に見せる。
そのたびに、佐伯秀哉は、反射的に覗いてしまう) 
    
黒木猛夫      金を払うか、名誉と名声を、どぶに捨てるかの二者択一。
            (佐伯秀哉に顔を近づけて、写真を見せつけながら)400万、400万、400万、400万、400万、400万円です。
            (そのたびに、 佐伯秀哉は、顔を横に振る) 


          (佐伯真理子は400万円に反応し、 佐伯秀哉の後ろに回り、モニターを覗く。だが、 佐伯秀哉と黒木猛夫は気がつかない)

佐伯真理子    何よ、その写真は!(佐伯秀哉と黒木猛夫は振り向く)
佐伯秀哉      あ!(2人は同時に声を出した)
黒木猛夫
     あ!(一瞬、怯んだ)

          (その隙に、佐伯秀哉は 黒木猛夫からカメラを奪って逃げる。それを佐伯真理子が追いかけ、その後を 黒木猛夫が追う)

佐伯真理子    何てことなの! 今度こそは許さないから!

         (佐伯秀哉は必死に逃げ、寝室に続く部屋へ消える。そして、佐伯真理子が消え、 黒木猛夫も消えた)

         (すると、先ほどの順番で、アトリエの部屋から、3人が居間へ走り込んできた)

佐伯真理子    秀哉! カメラをよこしなさい!
黒木猛夫      こら! カメラを返せ!

         (舞台にいる登場人物の間を、佐伯秀哉はぬうように逃げ回るそれを佐伯真理子と黒木猛夫も追う)

佐伯碧       パパ、ママ、止めてください!

         (すると、山野きみ子が、3人に加わった)

山野きみ子     猛夫さん、もう止めて! 先生、御免なさい! 奥さん、 許して下さい!

         (4人は奥の部屋へ消えた)

堀井康文      (神山正二郎へ)叔父さん、どうしたんでしょう・・・・・・?
神山正二郎    私にも何が何やらさっぱり・・・・・・。

堀井康文      (佐伯碧へ)分かりますか?
佐伯碧       いいえ・・・・・・。(顔を横に振る)

堀井康文      (片山マリへ)お前、何かやったか? 
片山マリ     いいえ・・・・・・。(色っぽく、お尻を振る)

         (すると、玄関のチャイムが鳴った。舞台の登場人物たちは、一瞬、顔を見合わせる)

佐伯碧       誰かしら・・・・・? 見て来るわ。
加藤澄夫      じゃ、私も行きます。
堀井康文      私も行きます。
佐伯碧       (堀井康文を見て、きっぱりと)結構です!

堀井康文      つれないですね・・・・・・。

            (佐伯碧と加藤澄夫は上手の扉から玄関へ消えた)


            (佐伯碧、加藤澄夫、警官A、警官Bが登場した。そこに、また、佐伯秀哉を先頭に、黒木猛夫、佐伯真理子、山野きみ子が走って登場)

黒木猛夫      カメラを返せ!
            
            (佐伯秀哉は、警官を見て立ち止まる。黒木猛夫は警官を見て逃げようとした。だが、警官Aと警官Bが、黒木猛夫の前を遮る)

巡査B        黒木猛夫だな、逮捕する!
           
            (警官を突き飛ばして、奥の部屋に逃げる。巡査Aと巡査Bは追いかける)

山野きみ子    猛夫さん、もう逃げるのは止めてください!(警官の後を追う)
佐伯真理子    秀哉、カメラを見せなさい!

            (佐伯秀哉も、はっと我に帰り、上手奥の扉へ逃げる。佐伯真理子も追いかけて、奥の部屋へ消えた)

神山正二郎    (佐伯碧へ)どうしたんですか・・・・・・?
佐伯碧       カメラマンの人、覚醒剤を所持をしているそうです。
堀井康文      確実なんですか?
佐伯碧       確証があるそうです。かなりの常習者だそうです。
片山マリ      (お尻と胸を振りながら)まあ素敵! 逮捕劇が見れるなんてぞくぞくするわ!
神山正二郎    (片山マリへ)あなた、遊びじゃないのですよ!
片山マリ      すみません・・・・・・。
堀井康文      (神山正二郎へ) 叔父さん、手伝いますか?          
神山正二郎    わしも柔道二段の腕前。やるか?
堀井康文      はい!

            (そこへ、黒木猛夫がアトリエを抜けて、居間に戻って来た)

            (神山正二郎と堀井康文が立ちはだかる)

黒木猛夫      どけ!(堀井康文にぶつかり、片山マリの方へ飛ばされた。そして片山マリにぶつかり、胸を両手で握ってしまった)
片山マリ      キャー! このスケベ!(黒木猛夫の顔に平手打ちを加えた)

            (黒木猛夫はよろよろと倒れ掛けて、佐伯碧に身体が当たってしまった)

            (佐伯碧はよろよろと飛ばされ、加藤澄夫の胸に。その時、加藤澄夫は佐伯碧を支えるように抱いてしまった)

佐伯碧       澄夫さん・・・・・・(澄夫の顔を見ている)
加藤澄夫     ・・・・・・。(吃驚して佐伯碧を見ている)

            ( 黒木猛夫は中央のテーブルの下に逃げ込む。その時、佐伯秀哉もテーブルの中へ逃げ込んだ。
            警官と佐伯真理子は、上手と下手に分れ、それぞれにテーブルの前に立ち止まる。)

           (すると中で、ゴツン! 頭がぶつかる音がした)

           (佐伯秀哉と黒木猛夫の声「いてー!」、さらに、テーブルに頭がぶつかる、ゴツンと大きな音がする)

           (テーブルの上手側に警官が2人立ち、下手側に佐伯真理子が待ち構える)

           (そして、佐伯秀哉と黒木猛夫は、同時に、上手側と下手側から飛び出した)

           (佐伯秀哉が上手側のテーブルから出てきた)

警官A       黒木猛夫、逮捕する!
佐伯秀哉     (吃驚して、声も出ない)・・・・・・?!
警官A       失礼・・・・・・?!
警官B       (黒木猛夫を指して)あっちです!

           (佐伯秀哉がテーブルの下から出るのと同時に、黒木猛夫が上手のテーブル下から出てきた)

佐伯真理子    (佐伯秀哉と間違え、その場でジャンプし、黒木猛夫にヒップアタックする)
黒木猛夫      いてー!
佐伯真理子    (黒木猛夫を見て)あら・・・・・・! 失礼!

           (警官Aは佐伯秀哉を離し、警官Bと共に、黒木猛夫の元へ。佐伯真理子は佐伯秀哉の元へ駆け寄る))

           (その時、黒木猛夫は逃げようとする。が山野きみ子が前に立ちはだかる)

山野きみ子    猛夫さん、もう止めて! 逃げないでください!

           (警官Bが黒木猛夫を抑え、警官Aが手錠を掛ける)

警官A       黒木猛夫、逮捕する!

佐伯真理子   秀哉さん、そのカメラをよこしなさい!

           (山野きみ子が、佐伯秀哉の元へ駆け寄り、カメラを取り上げる)

山野きみ子    このカメラは、私が預かります。(デジタルカメラから、メモリーカードを抜きとり)これは、私が責任を持って処分します。
佐伯秀哉      ありがとう!
佐伯真理子    山野さん、ありがとう。お願いしますね。
山野きみ子    はい!今日はせっかくの還暦祝いを台無しにして、申し訳ありませんでした。
            猛夫さんも罪を償って、またカメラマンとして復活させてみます。あんな事件さえなければ、素晴らしいカメラマンだったんです。
            かつてのような報道カメラマンは無理ですけど、カメラマンとして、生きていく道はあるはずです。
堀井康文      その時は、私もお手伝いしますよ。
山野きみ子     ありがとうございます。その時はよろしくお願いいたします。
            佐伯先生、私ももう一度、舞台女優に挑戦しようと思います。先生のモデルをしていて、芸術の素晴らしさを教えて頂きました。
            そして、先生の「ヴィーナスと一角獣」のモデルになったことを誇りにしています。先生、ありがとうございました。
警官A       黒木猛夫、覚せい剤所持の現行犯で、署まで連行する。
黒木猛夫      はい・・・・・・。間違いありません・・・・・・。
山野きみ子    奥さま、お嬢様、そして、皆さま、お騒がせして申し訳ありませんでした。
佐伯碧       山野さん、またお会いできる機会があると良いですね。お2人で頑張ってください。
山野きみ子    はい。それでは失礼いたしました。佐伯先生、ご還暦おめでとうございました。
佐伯秀哉     きみ子さん、ありがとう。!

           (警官AとBが、黒木猛夫を連行する。そして、山野きみ子も上手から退場する))

佐伯真理子    (佐伯秀哉へ)あの2人、これからが大変ですわね。
佐伯秀哉      大丈夫だよ、まだまだ若いから。やり直すことは出来る。こんどこそ、強い信念と熱いハートを持ち続けていればね。
            そして、自分が信じる道を歩き続ける力と、自分自身を信じ続ける心を持てば、きっと夢は実現します。
佐伯真理子    あなたも少し自分の熱いハートを、お控えにならなくっちゃね。
佐伯秀哉      ・・・・・・。
堀井康文      さー、皆さん! もう一度、乾杯をやり直しましょう!
神山正二郎    それはいい考えだ。
堀井康文      そして景気よくシャンパンを開けなおしましょう。

            ( 堀井康文は、シャンパンクーラーから、シャンパンを取り出し、シュパーンと開栓した)

堀井康文      マリ君、皆さまに注いでください。
片桐マリ      (お尻と胸を震わせ)はーい!
堀井康文      皆さま、もう一度自分のグラスを持って下さい。
神山正二郎    康文、持ってではないだろう? お持ちになってくださいですよ。
堀井康文      そんなの、どうでもよくはないですか?
神山正二郎    よくはありません。言葉は大切にしなければいけませんよ。どうも最近は言葉が乱れて行かん。
佐伯真理子    まあまあ良いじゃないですか。取りあえずは乾杯いたしましょう。
神山正二郎    分かりました。

            (全員がクラスを持ち、片山マリがシャンペンを注いでいる)

堀井康文      注ぎ終わりましたか?
片桐マリ      (お尻を振りながら)はい!
堀井康文     それでは、佐伯画伯の還暦と、皆さまの繁栄を祝して、乾杯!

            (一同も口々に、乾杯!)

神山正二郎    康文、先生のご還暦、皆さまのご繁栄ですよ。社長たるもの、正確な日本語を使いなさい。
堀井康文      叔父さん、そんなの気にしないことですよ。一々気にしていたら、何もしゃべれなくなります。

            (その時、片山マリの携帯電話がなった)

片山マリ      (胸とお尻を振りながら)はい、片山マリで〜す。ちょっと電話が聞き取りにくいのですが・・・・・・。なんですか? え!? 倒産ですか!
堀井康文      片山君、どうしたのかね? 
片山マリ      社長、倒産しました!
堀井康文      何処が?
片山マリ      ゴーマンブラザーズです! 負債総額6130憶ドル、約484兆円で倒産しました!
堀井康文      誰からの電話だ!?
片山マリ      アメリカ支社のマイク・宮本です。
堀井康文      電話を代われ!
片山マリ      (胸と腰を振りながら、電話を渡す)は〜い!
堀井康文      (電話を受け取りながら)腰は振るな!
片山マリ      はい!(やはり、振ってしまった)済みません!(また振ってしまう)あら、いやー!
            (やはり、小さく振って、しまったという顔をしている)
堀井康文      どうしたんだ? 何? わが社の投資額はいくらだ?! はっきり言え! 何?! 400憶ドルだと? 
佐伯真理子    (佐伯秀哉に)400億ドルだって。なんて400の多い日ですこと。
佐伯秀哉      400億ドルって、日本円にして幾らになるのかね。それにしても凄い額だ。
堀井康文      日本円にして幾らだ? 何、3.2兆円だと?!なんていうことだ!(ばったりと気絶して倒れる)
片山マリ      社長! しっかりしてください!
神山正二郎    康文! しっかりしなさい!
佐伯真理子    (堀井康文に近づきながら)3.2兆円・・・・・・、信じられない!
佐伯碧       (堀井康文に近づき、目を見て、そして脈を見る)大丈夫・・・・・・、そっと静かにしてあげましょう。
片山マリ      (携帯電話をかける)山本君? 社長が倒れました。すぐに車から担架を持ってきて。そう、車のトランクの中。
佐伯碧       今は安静です! 動かしてはいけません。
片山マリ      大丈夫です。何時も医者が一緒ですから。
佐伯真理子   (傍白)なんて用意の良いこと。億万長者は違うわね。

           (担架を持って、屈強な2人の男と白衣の医者が登場した)

片山マリ      (胸もお尻も振らずに、背筋を伸ばし、命令口調で)山本君、安藤君、早く社長を担架に乗せなさい! 
            先生、頼みますよ。そして、獅子の門病院へ直行してください。

            (堀井康文は担架に乗せられ、男たちは足早に、規則正しい歩調で退場した)

佐伯秀哉      (佐伯真理子に)なんて手際が良いのだろう。
片山マリ      はい、私たちのインターネットの社会は、セキュリティーが勝負です!
            何時も社長のリンカーンコンチネンタルのリムジンには、こんな時に備えて、全て用意してあります。
            それでは、皆さん、失礼いたします。(今度は、さっそうと、まるで独裁者のように退場した)
佐伯真理子    神山さまは行かなくて良いんですか?
神山正二郎    私が行っても、足手まといになるだけですから・・・・・・。

           (すると、加藤澄夫の携帯に電話が掛って来た)

加藤澄夫      はい、加藤です。どちらさまですか? え? 日本現代詩人協会? は? 私が受賞!? 
            はい! もちろん頂戴いたします。ありがとうございます!
佐伯碧       如何したの、澄夫さん? 受賞って何?
加藤澄夫      ・・・・・・。(無言で、顔を上下している)
佐伯秀哉      如何したのだ、澄夫君。
加藤澄夫      (皆に向かって)頂きました。M氏賞を頂きました。
佐伯碧       おめでとう! 凄いわ、澄夫さん!
佐伯秀哉      おめでとう、澄夫君! とうとうやったね! 何時かきっとやると信じていたよ。
加藤澄夫      ありがとうございます。夢のようです!
神山正二郎    加藤君って言ってたね。凄いことだ、M氏賞を受賞するなんて。
佐伯真理子    ( 神山正二郎へ)そんなに凄い事なんですか・・・・・・?
神山正二郎    はい、詩人にとって、最高の賞です。小説の芥川賞にあたります。
佐伯真理子    まあ! そんなに凄いのですか! やったわね、澄夫君!
加藤澄夫      ありがとうございます。M氏賞を貰えた時、私には誓ったことが1つあります。
佐伯碧       何でしょう、澄夫さん?
加藤澄夫     (少しもじもじしながら)碧さん、僕と結婚してください。
佐伯真理子    まあ! 驚いたこと! 
佐伯秀哉     (黙って拍手をしている)
加藤澄夫      碧さん、僕は心に決めていたんです。念願のM氏賞が貰えたら、君に求婚しようと。
佐伯碧       はい! こちらこそ、よろしくお願いいたします!
佐伯秀哉     (佐伯真理子に)素敵なことじゃないか。
佐伯真理子    そうね。碧たちが幸せならそれでいいわ。外車5台、自家用ジェット機も諦めました・・・・・・。
佐伯秀哉     ものやお金に換えられない、人の人生には、それぞれの幸せの在り方がある。
佐伯真理子    でもね、貴方も、幸せの在り方を、真剣に考えてくださいよ。
佐伯秀哉     ・・・・・・。
佐伯真理子    もう還暦なんですから。つまらないことは止めてくださいね。
佐伯秀哉      ・・・・・・。
加藤澄夫      碧さん、まだまだ、生活力もない僕ですけど、必ず幸せにします!
佐伯碧       ・・・・・・。(無言で頷く)
佐伯秀哉      澄夫君、ありがとう!  碧をよろしくお願いします。

            (佐伯秀哉と佐伯真理子は、「おめでとう!」と言って拍手をする。そして神山正二郎も拍手をした)

            (すると、暖炉の上の電話が鳴った。佐伯真理子が受話器を取った)

佐伯真理子    はい、佐伯でございます。は? どちらさまで? フランス大使館文化部? ご用件は何でございましょうか? 
            は? はい、私は佐伯秀哉の家内です。え? よく聞き取れないのですが。はい、秀哉は此処に居ります。
            はい、ただ今変わります。(少し顔を傾げて、訝しそうに、佐伯秀哉へ)秀哉さん、電話です。フランス大使館が、何なんでしょうね・・・・・・。
            
            (佐伯秀哉は電話を受け取る)

佐伯秀哉      電話を変わりました。はい、佐伯秀哉本人に、間違えありません。あ? はい、存じております。え? 私にですか?
            (電話に向かってお辞儀をしながら)あ、ありがとうございます。勿論、授賞式には出席させていただきます。
            (電話に向かって頭を下げ、そして受話器を置いた)
佐伯真理子    秀哉さん、如何したのですか?
佐伯秀哉      真理子、フランス政府が、この私に勲章をくれるって!
            長い間のフランス文化への貢献に感謝して、シュバリエ文化芸術功労章を贈ってくれるそうだ!
佐伯真理子    あなた、おめでとう! (くるりと身体を回転し、佐伯秀哉の手を握る)私、この時を待っていたの。
            貴方、踊りましょう! 夢のようだわ!

            (佐伯秀哉と真理子はタンゴ「奥様お手をどうぞ」を踊り始めた。かつて、2人がフランスで新婚生活を過ごした時を思い出すかのように)

            (そして、踊り終わった。佐伯碧、加藤澄夫、神山正二郎が拍手する)

佐伯碧       ママ、素敵!
佐伯真理子    ありがとう!            
佐伯秀哉      君と過ごしたパリ時代を思い出したよ。2人で良く踊ったな。
佐伯真理子    秀哉さん、おめでとう!
佐伯碧       パパ、おめでとう!
神山正二郎    佐伯さん、これで片桐大三氏にも、立派に恩返しが出来ましたね。これからも、たくさんの絵を描いてください。
            色々なことがありましたが、本当に、今日は良い還暦祝いになりました。
佐伯秀哉      神山さま、こちらこそ、これまで色々とご支援いただきありがとうございました。
神山正二郎    それでは、もう一度、乾杯をやり直しましょう。どうですか、皆さま。
佐伯真理子    それは良い考えですわ。碧さん、皆さまのグラスへ、シャンパンを注いでくださる?
佐伯碧       はい! 澄夫さんも手伝ってくれる?
加藤澄夫      (無言で頷く)

            (佐伯碧がグラスに注ぎ、加藤澄夫が、それぞれに手渡す)

神山正二郎    今日は色々なドタバタ劇もありましたが、最期に、目出度いことが重なりました。
            そんな瞬間に、この場所に居合わせたことに感謝しております。
            加藤澄夫君のM氏賞受賞、そして、佐伯秀哉氏がシュバリエ文化芸術功労章を、フランス政府から贈られました。
            それも、佐伯秀哉画伯の還暦祝いの席に知らせがくるという、何とも目出度い偶然に感謝して乾杯をいたしましょう。
            では、皆さま、よろしいですか?

            (一同はグラスを持ち、目の前にグラスをかざした)

神山正二郎    では、皆さま、乾杯!
           
            (佐伯碧、加藤澄夫、神山正二郎は、それぞれに、「おめでとう!」を言う。その時、舞台の照明が落ちた)

             エピローグ
             (舞台の照明が落ちる。そして、神山正二郎の上に、スポットライトが落ちた)
            

神山正二郎     人間の右の手にはたくさんのラッキーが乗っているとします。すると、左の手にも負けないくらいのアンラッキーを抱えているものです。
          時には、苦しいこと、哀しいこと、辛いこと、不幸なことが続くこともあります。
            しかし、どんなに土砂降りで、嵐続きの人生も、何時かは必ず晴れる時が来るものです。
            激しい嵐であればある程、耀く太陽は暖かく、そして強く優しい。
          それと同じこと。
            天に上るほどの幸運が続く時も、ふとした瞬間に、大きすぎたラッキーのしっぺ返しが必ずやって来る。
            人間の人生、最後には、何時でも帳尻が合うように出来ているものです。
            人の道を忘れず、人生の王道を歩けば、必ず人は、自分の思いを遂げることが出来る。
            失敗があるから人は成長し、人生は深く豊かなものになるのです。
            人間の人生、心が挫けなければ、何回でもやり直しがきく。
            自分の人生に、しっかりと向き合って生きていけば、何時かは必ず、自分の思いは達成できると信じています。
            何時の時も、孤独と向き合い、自分自身を信じることです!

             (舞台の照明が全て落ちた)