マスター&ママのぶらり散歩
武蔵国分寺歴史散歩

2023年1月15日

正月も終わり、ハレから日常へ戻った。
空は雲が垂れこめ、今にも小雨になりそうである。
先日、新聞を読んでいたら、国分寺のことが書いてあった。

そういえば、中央線は色々なところに行ったが、国分寺に縁が無かった。
何時も気になっていたところなのだが。
そこで今日、国分寺までドライブすることにした。

私が住む板橋から、30キロ足らずで、意外と近い。
川越街道から、小金井街道を行く。
やがて国分寺市に入る。

目的地の国分寺跡へ、続く道は狭く、曲がりくねっていた。
やがて国分寺跡に到着した。
駐車場を探すが、狭い路地に駐車場は、見つからなかった。

やっと時間貸の、小さな駐車場を見つけた。
車を置き、国分寺へ出かけた。
国分寺は聖武天皇(701~756・第45代)の命で、
天平13年(741)3月24日の詔により、
諸国に建造された。

当時、疫病が蔓延し、飢饉や飢餓から、国民を救うために、建立されたのだ。
かつて中学の歴史で、学んだことを思い出す。
だが国分寺という寺が、存在すとは知らなかった。

国分寺へ行く途中に、由緒ありそうな、長屋門が建っていた。
長屋門の前に、説明板が建っていた。
この建物は、国分寺村名主・本多家の屋敷の入り口に、江戸時代末期に建築されたとある。

それは本多家の表門と、当主の隠居所を兼ねていた。
その後、幕末から明治にかけて、本多雖軒がここに、村医を開業した。
雖軒は当時の文化人でもあり、文化教育の拠点として、多方面で活躍する。

長屋門から先へ行くには、入園料が100円必要だった。
長屋門前の「史跡の駅」で、入園料を購入し中へ。
土間で靴を脱ぎ、座敷に上がる。

前に庭が広がり、爽やかな空気が、流れていた。
かつての日本家屋の雰囲気が漂い、懐かしかった。
庭の中に、朱色の七重の塔が見える。

かつて国分寺に存在し、金字光明最勝王経(きんじこんみょうさいしょうおうきょう)を安置していた。
それは高さ60mの塔の縮尺模型であった。
1階から階段を登ると、左手に座敷があり、右手は歴史や民俗の展示室になっていた。

階段を降りて、おたかの道湧水園内を、散策する。
園内は野草に溢れ、武蔵野の雑木林が、広がっていた。
その奥の園内北側は、国分寺崖線となり、湧水源が見えた。

ここから溢れだした水が、清澄なな水を湛える、真姿の池に流れ込む。
園内を散策し、外へ出ると、そこは「おたかの道」へ続いた。
江戸時代、将軍たちが鷹狩をした道である。

江戸幕府開府をした、徳川家康は1000階以上の、鷹狩をしたといわれる。
鷹狩は健康増進はもちろん、軍事訓練や領民視察も兼ねていた。
代々の将軍たちも、伝統と伝承を重んじ、鷹狩を行い、各地に鷹狩場を開いた。

「おたかの道」を行くと、国分寺楼門に出た。
楼門の前に案内板が建っていた。
読めば、建物の間口・約6.2メートルの楼門造り板金葺。

米津出羽守の菩提寺として、建立された米津寺(東久留米市)の楼門を、
明治28年に移築し、江戸時代の建築様式をとどめているとあった。
2階には十六羅漢像(現在は13体)を、安置しているようだ。

楼門を額縁にして、真言宗豊山派の、国分寺が見える。
楼門を潜り見上げると、天井にたくさんの千社札が、貼ってあった。
ふる寂びた神社仏閣に、江戸庶民の文化、千社札は似合う。

だが最近は、千社札禁止の場所がほとんどで、寂しい気がする。
通り抜けると、正面に国分寺の参道が伸びていた。
人気ない本堂の前に進み、静寂の中、手を合わせる

この寺の山号は医王山、院号は最勝院で、昭和60年に改築、本尊は薬師如来。
薬師如来像を安置する、薬師堂は建武2年(1335年)に、新田義貞が旧国分寺跡に再建した。
その後徳川幕府が、庇護し朱印状を下付した。

この寺は名前が示すように、奈良時代に建立された、武蔵国分寺の後継寺院にあたる。
お寺で参拝を終え、国分寺跡へ向かう。
途中、民家の表札を見ると、本多と記してある。

このあたりには、本多姓が多く、江戸時代からの地主なのであろう。
前方に国分寺跡が広がる。
史跡探索の学生だろうか、10人くらいで散策していた。

この地を中心に、かつて天平文化(729-749)が匂う、国分僧寺・金光明四天王五国之寺と、尼寺・法華滅罪之寺が、建てられた。
だが今は講堂と金堂の礎石が、残るだけである。
桁行約29メートル、梁行き17メートルの講堂で、若き僧侶たちが、真剣に経典の講義をうけていたであろう。

その講堂の隣に、金堂の礎石が残されていた。
本尊仏を安置する金堂は、桁行約36メートル、梁行き約17メートルで、諸国国分寺の中で、最大級であった。
武蔵国は国府(現在の府中)に近く、都へ通じる、東山道武蔵路にある。

奈良時代(710-784)、飢饉や旱魃、天変地異や疫病が蔓延し、政情不安であった。
その疲弊混乱した世の中を、仏教の力で救済しようとした、祈りが伝わるようだ。
この地は大正11年に国史跡に指定され。

その後平成22年に、武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡に変わり、
155,610平方メートルの広大な史跡となる。
今は公園となり、子供たちがバトミントンに、興じていた。