コロナ休業の中、交響曲や変奏曲を聴いて

2021年6月17日

コロナ感染症で、休業を余儀なくされ、最近、クラッシック音楽を聴いている。
クラシックには、余り縁がなかったのだが、色々な発見があった。
それは交響曲や協奏曲の構成に、演劇と近似したところがあるということだ。

交響曲は多くが3楽章から、4楽章で構成され、「終楽章」は「フィナーレ」で、楽章は movementという。
楽章は独立しながら、提示部、展開部、再現部と向かう。
だが一見、独立している楽章が、すべて緊密に関係しながら、大きなうねりになる。
そして交響曲や協奏曲を、劇的に構成し、聴衆に感動を与える。

演劇も多くは、3幕から5幕で構成され、交響曲のMOVRMENTに対し、幕はACTである。
かつてフライターク(1816-1895)が唱えた、ドラマトゥルギー(Dramaturgy)『劇作法』によれば、
ドラマは発端、上昇、クライマックス、下降、大団円で終わる。
古代ギリシアの哲学者・アリストテレスの『詩学』では、始め、中、終わりで、室町時代の能楽師の世阿弥は、序破急といった。

演劇のドラマと交響曲とが、構造において非常に似ているのだ。
人間が求める、感動の構造は、本質的に不変なのであろう。
さて、最近聴いた交響曲や、交響詩について書いてみたい。

ドボルザーク(1841年-1904年)が、1893年に作曲した交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』。
スメタナ(1824年-1884年)が、1874年から1879年にかけて作曲した、6つの交響詩からなる連作交響詩『わが祖国』。
シベリウス(1865年-1957年)が、1899年に作曲した交響詩『フィンランディア』である。

共通しているのは、祖国への愛と尊厳に溢れち、祖国の新生を願う心が響いている。
かつて、歴史の中で蹂躙され、祖国を失い、流浪の民、亡国の民になった人々に、
勇気と希望を希求し、祖国の復活を表現している。

早朝、朝刊を読み終わった後、この曲たちを聴くと、気持ちが覚醒され、生気がこみ上げてくる。
祖国を失った民は、自ら祖国を強く意識することで、自己のアイデンティティーを、確立するのである。
私たち日本人は、生まれ落ちた瞬間に、日本人である。

幸い日本は歴史上、亡国の民、流浪の民になったことはない。
日本というぼんやりした、平和な意識の中で、生きてゆくことが出来る。
その日本が、愛国、美しい日本などの美辞麗句を、唱え始めた時、
その底に、危険なにおいを感じてしまうのは、私だけであろうか?