池波正太郎『青春忘れもの』を読みフラッシュバック!
2021年1月29日

池波正太郎のエッセイ『青春忘れもの』(新潮文庫)を読んでいたら、面白い記述に出会った。
生まれ育ちも浅草の氏が、軍隊から帰り、しばらく下谷区(現在の台東区)の保健所で、日給10円、月に約600円のアルバイトで、
上野界隈の浮浪者に、DDTを散布していた、昭和21年ころの話である。

その年、読売新聞社の第一回読売文化賞の応募があり、「これこそ、自分の生きる道」だと思い、半年かけて書き上げ投稿した。
幼少のころから、芝居や歌舞伎を観ていた印象から、「勘」ひとつで書いたと語っている。
すると6篇の入選作のなかで、第4位に入選した。

この作品が選者の一人、新協劇団の村山知義の目にとまり、新協劇団で上演されることになった。
出演は復員早々の宇野重吉、そしてかつて松竹少女歌劇団で活躍した、清洲すみ子など、そうそうたる顔ぶれである。
芝居は東京から地方公演を含め、10数か所で公演され、1万円の上演料が手に入った。

池波氏の処女作の演出は、八田元夫であった。
八田氏は東大文学部美学出身で、戦後の左翼弾圧にも屈しなかった、強靭な精神の演出家である。
父親はかつての府立三中の校長であり、芥川龍之介が教え子であったと聞く。
私が大学時代、氏が主催する劇団の演劇教室に通い、薫陶を受けた人である。

授業の合間に、名優丸山定夫、作家三好十郎、演出家佐々木隆の話を、たびたび語ってくれた。
その時、同劇団に演出家・下村正夫がいて、何時もモベレー帽をかぶり、ダンディーであった。
ある日のこと、下村氏から、私は演劇教室の発表会の、進行役を任された。

そして発表会の前日、氏に原稿を見せると、大変に気に入ってくれ、それ以来、何かと目をかけてくれた。
下村氏は京大文学部哲学出身で、同級生は作家・野間宏である。
1952年に瓜生忠夫と共に、新演劇研究所を創立し、53年『真空地帯』(野間宏原作、鈴木政男脚色)の演出で、
1953年度毎日新聞演劇賞を受賞している。

劇団からは内田良平、杉浦直樹、小松方正が育った。
下村氏の父親は下村海南(宏)で、1945年には鈴木貫太郎内閣の国務相兼情報局総裁を務め、
天皇が終戦を宣言する、終戦の詔書のレコードの原盤・玉音盤を、命がけで守った人物である。

池波正太郎のエッセーに触れ、私の若き日が、瞬時に蘇った。
そして、私が演劇を学んだ八田氏が、池波正太郎の恩師にあたることを知り、
作家池波氏と不思議な親近感をおぼえた。