思い出の旧中野刑務所の正門が移転する!
2021年2月27日

かつての旧中野刑務所の正門が、移転する。
場所は現在地から、100メートルほど離れたところへ、曳家で移築・保存される予定だ。
新聞に写真入りの記事が載っていた。

この建物には思い出がある。
大学2年の時、部活の支部長になり、同人誌を発行することになった。
その時、私より5歳上の先輩が、印刷所を紹介してくれた。

彼はすでに、学生結婚をしていて、一度、社会人になり、その後入学した苦労人であった。
作家志望の彼は、すでに何冊か自費で、同人誌を出版していた。
私は彼に、教えてもらった印刷所へ、原稿を持ち出かけた。

中野駅で降り、中野ブローでウェイへ。
道路を渡りしばらく行くと、左手に2メートル余りの、コンクリー塀がたっていた。
塀は西武新宿線の、沼袋駅近くまで続き、外界と完全に遮断されていた。

塀伝いに歩くと、正面玄関に出た。
その奥に、趣のある洋館がたっていた。
鉄の門戸は、かたく閉ざされ、右手の隅に守衛がいた。

要件を話すと、担当者に連絡をしてくれ、許可を貰い中に入る。
正門奥の本館棟から、着物姿の女性が、小脇に風呂敷包みを抱えながら、こちらへ歩いてきた。
私は思った。

(親戚の人へ差し入れをし、洗濯物を持って帰るのかな)と。

私は建物の左端の、職員通用門から中へ。
2段か3段の階段を登り、静かな廊下を少し行くと、右手に職員室があった。
ノックして中に入り、要件を受付に伝える。

すると奥から、私がアポイントを取っていた、教官がやってきた。
私たちは隣の小部屋に移動し、教官に持参した原稿を渡した。
教官はざっと、原稿に目を通した。

そして目をあげ、私に向かって言った。
「服役している人を、刺激するような描写は、ありませんね?」
私は「もちろん、大丈夫です」と。

そして次回のゲラ刷りの校正日を、約束して別れた。
振り返れば、ここで同人誌を、4冊くらい作ったか。
校正も含めると、8回はここに通っている。

当時作った本は、ガリ版印刷で、町場の印刷所の半分以下で、同人誌を作ることが出来た。
だが5冊目を作ろうと、電話で連絡すると、断られてしまった。
印刷技術の教官が転勤し、印刷所は廃止されている、とのことだった。

とても好感の持てる教官だったので、残念な思いがした。
服役囚もここで、印刷技術をおぼえ、社会に復帰した人もいるだろう。
その時、人の人生の機微に、触れた気がした。

懐かしい旧中野刑務所の記憶は、すでに53年前のことである。
戦前、この刑務所に、『蟹工船』の作者・小林多喜二(1903年-1933年)も、
治安維持法違反で逮捕され、一時収監された。

その後、築地署で拷問を受け、死亡する。
また西田幾多郎門下の三木清(1897年-1945年)も、戦後間もない、1945年9月に、ここで獄死している。
関東大震災や、戦火にも耐えた、旧中野刑務所の本館棟は、すでに解体され、
高さ約9メートル、幅約13メートルの正門も、かつて危うく解体されそうになった。

日本は再開発という、美名のもとに、歴史的建造物を、無残に破壊する。
日本には都市や街の論理が、欠如しているのであろうか。