特撮監督の築地米三郎さんの思いで

東京新聞朝刊に連載されている、九重佑三子さんの「私の東京物語」の四回目。
特撮監督の築地米三郎さんのことが書いてあった。
1967年(昭和42年)のこと、日本の『メリーポピンズ』を作ろうということで、『コメットさん』が誕生し、九重さんがコメットさんを演じた。

アンドロメダ星座ベータ星からやって来たコメットさんが、困ったときに繰り出す魔法のバトンが、全てをめでたく解決した。
コメットさんは、子供たちのアイドルになり、魔法のバトンを子供たちは、真似をしたものである。
映像は特撮が多く、特撮監督は築地さんが担当。

築地監督の特撮にかける熱意に応えようと、九重さんは頑張ったそうだ。
2007年の8月のこと、築地監督は、近くでスタジオとビデオラボを経営する、通称ダボさんと来店した。
当時84歳だが、矍鑠とし口跡も綺麗で、とても元気だった。

私と相性が良かったのか、私を偉くほめてくれた。
そしてさらに、「マスター、昔、何かやってたでしょう」
「8年くらい、芝居をやったり、自分で劇団を作ったこともあります」
「そうだろう。マスターの笑顔がいい。絶対に役者にするよ」
「でも、もう30年以上昔の話だから……」
「いや、還暦過ぎの役者で、良い味を出す役者が、日本にいないのよ」
「そうですか、でもねぇ……」
「今度来るとき、カメラを持ってきて、マスターの写真を撮る。そして知り合いの事務所に紹介するよ」
そして、ダボさんと隣の築地監督の特撮映画『大怪獣ガメラ』の大ファンの井上さんに、
「これからは、マスターじゃなく、座長と呼んでよ」と言った。

大映初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』は、1965年(昭和40年)に撮影、大ヒットとし、シリーズ化された。
その後、築地監督は国際放映に移籍し、1966年(昭和41年)4月、「築地特撮プロダクション」(のちの築地企画)を設立。
そして『コメットさん』(TBS)の特撮を担当したのである。「

築地さんは、日本映画の生き字引のような人だった。
日本映画の歴史を、目の前に映像が流れるように、いろいろなことを話してくれた。
さらに世界の映画撮影所に、フリーパスで入れる、証明書を見せてくれた。

日本では数少ない映画人しか、持っていないのだと言っていた。
築地さんは当時も現役で、1時間半の映画を、近々、撮影すると力強く語った。
築地監督が生きていれば、97歳になる。

だが築地監督は、2012年3月30日に、帰らぬ人となった。
『コメットさん』の撮影は、砧の国際放映でされ、近くに円谷プロがあり、『ウルトラマン』が撮影されていた。
円谷プロの円谷英二こそ、築地監督の師匠である。

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