マスター&ママの小さな旅
群馬県太田市・
世良田東照宮を訪ねて

2020年11月15日

そろそろ北の国では、雪の便りも聞こえだした、今日この頃。
東京も秋色に、染まり始めた。
今日は群馬県太田市にある、世良田東照宮へ出かけた。

11月の秋の日を浴びながら、関越道を下る。
そして40分後、花園ICを降り、国道140から、県道69を行く。
高速を降りて、50分ぐらいで、目的地に着いた。

これまで主だった東照宮は、ほとんど出かけている。
日光、久能山、浜松、川越、上野など行ったが、世良田東照宮だけは、知らなかった。
今年になり来店した人が、実家の近くに、世良田東照宮があると、教えてくれたのだ。

調べてみれば、徳川家の発祥の地が、新田荘世良田であった。
そこでぜひとも、世良田東照宮を、訪れなくてはと思い、今日訪れることになった。
徳川家康を祭神とする、東照大権現・世良田東照宮に到着したのは、午後2時前だった。
 
紅葉深い山里の一角に、あると思いきや、市街地に近い、住宅街のなかにあった。
無料の駐車場に車を置き、東照宮の御黒門へ。
御黒門の左手に、立札がたち、読めば、御黒門は縁結び門ともいわれ、
蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると。

江戸時代、この門は正月・四月の祭典日だけ、特別に開かれていたとも、記していた。
私たちに良縁もないものだが、蹴放しをまたいで中へ。
御黒門を見上げると、梁や棟にたくさんの、千社札が貼ってあった。
 
神社仏閣には、千社札が良く似合う。
最近は千社札を禁止するところも多いが、千社札は特別な情趣を誘う。
門を潜ると、右手に立札が、二つたっていた。
 
一つは1643年に天海大僧正が出した掟で、毎月17日の大祭に関するもので、
もう一つは1798年に、幕府が発布し、ここが厳しく管理されたことを示していた。
そして御黒門の左手にある、上番所へ行く。
 
やはり立札がたち、説明書きがあった。
かつて徳川幕府は、二か所に番所を置き、東照宮を守っていたと、書かれていた。
そして上番所で使われた三道具、突棒(つくぼう)、刺股(さすまた)、袖搦(そでがらみ)が、展示されていた。
 
上番所の先に、手水舎があり、手と口を浄める。
参道に戻り、拝殿に向かった。
境内に人影は少なく、秋の日が長く、境内に伸びていた。
  
鈍い朱色の拝殿は、素朴な風情で、静寂を湛えている。
お賽銭箱には、徳川を象徴する葵紋が、大きく刻まれていた。
お賽銭を添え、手を合わせる。
  
お賽銭箱の左となりに、大きな石灯籠が、秋日を浴びていた。
境内には、冬桜が楚々と咲く。
秋空を背景に、薄桃色の小さな花は、愛くるしい。
 
このあたりは、冬桜の名所なのだろうか。
かつて近くの群馬県藤岡の桜山公園へ、冬桜を見に来たことがある。
拝殿から離れ、少し行くと、開運稲荷神社があった。
その右となりに、人形代祈願所があった。
人に付いた穢れを、人形が身代わりになり、払ってくれるのだ。
左右に並ぶ、狛狐の石像に守られた、開運稲荷神社の階段を登る。
  
紅葉を映すガラス越しに、真っ白な二体の、お稲荷さんが並んでいた。
参拝を済まし、階段を下る。
境内の真ん中に、桜の古木が見える。
 
この桜のは御神木は、群馬県一太い、ソメイヨシノだと言われている。
根元周囲4.40メートル、樹齢年不詳の古木は、神々しい。
境内の向こうに、社務所が見える。
  
お正月になれば、破魔矢やお札を求める人たちで、溢れることだろう。
この境内も参拝客で、長い列ができ、懐かしい屋台が犇めくのであろうか?
社務所の横に、本殿へ行く入り口がある。
 
その手前に、威風堂々と、鉄灯籠がたつ。
秋元越中守藤原長朝の曾孫喬朝が、明暦4年(1658年)に奉納した。
高さは4.95mの鉄灯籠は、日本一高いらしい。
  
徳川の歴史を遡れば、徳川家康の家系は、新田義重に遡り、上州新田の一族である。
だが新田氏が南北朝の戦いで、足利尊氏に滅ぼされ、世良田を追われ流浪する。
その流浪の民の一人、徳阿弥という時宗の遊行僧が、西三河の松平郷の庄屋へ、婿入りした。
 
そののち還俗し、松平太郎左衛門親氏となり、生まれた子供が、徳川家の租であるという。
家康は親氏から数えて七代目で、徳川と名乗ったのは、28歳になってからである。
それまでは松平を、名乗っていたのである。
 
この世良田東照宮は、寛永21年(1644年)に、三代将軍・徳川家光の命により、長楽寺の境内に創建された。
その寺には徳川氏の遠祖・世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた。
世良田東照宮の多宝塔、唐門、拝殿は、二代将軍秀忠造営の日光東照宮奥社から、移築し勧請したものである。