マスター&ママの初秋の京都の旅Ⅰ
大原三千院&宝泉寺を訪ねて
2019年10月14日

14日の朝、ホテルを10時前に、チェックアウトする。
玄関を出ると、娘たちが車で、迎えに来ていた。
娘の夫の車に乗りこみ、三千院へ向かった。

鴨川沿いの道を進み、やがて左に折れる。
高野川沿いの、国道367号を進むと、道は狭くなる。
先ほどまでの市街地とは、趣を異にし、何処か鄙びている。

道を進むにつれて、緩やかな上りになった。
紅葉のシーズンになると、この街道は観光バスや、乗用車で大渋滞になる。
京都駅のバス乗り場も、三千院行きは、凄い行列ができるという。
 
今日はまだシーズンオフ、街道は空いていた。
ホテルから出て、40分くらいだろうか、三千院に到着した。
駐車場に車を置き、山門へ続くなだらかな、上り勾配の道を進む。
 
道はの横には、清流が流れていた。
さらに進むと、呂川が流れ、魚山橋を渡る。
この橋から先は、三千院の聖域になるのであろう。
   
川沿いに建つ、情趣溢れる旅館は閉鎖され、廃墟のようであった。
橋を渡ると、正面に石組みの、階段があった。
右端のスロープは、舗装されていた。
  
車椅子の人でも、散策できるように、配慮されている。
階段を上りきると、風情のあるお蕎麦屋さんや、お土産屋さんが建っていた。
その先を、少し行くと、三千院の御殿門があった。
  
それは城廓の石積み技術などで名高い、近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)が、組み上げた。
御殿門はさながら、城郭のような石組みであった。
小雨の中、人影のない石段を、足元を確かめながら上がる。

そして三千院の御殿門を潜る。
寺務所で、拝観料金700円を納め中へ。
門跡寺院の三千院の敷地は広大で、季節の花々で彩られると言う。

さらに様々な歴史的建造物が、院内に立ち並ぶ。
だが今日は、生憎の雨。
午後3時12分の新幹線で、帰京しなければならない。

私たちは、江戸時代の茶人・金森宗和(1584-1656)作庭と伝わる、聚碧園へ行くことにした。
客殿に行く、散策路を進むと、客殿の入り口があった。
靴を脱ぎ、ビニール袋に入れ、案内の順路に従い、寺院の中を行く。
  
院内は撮影が、禁止されていた。
程なくすると、豊臣秀吉が建てたと伝わる客殿正面に、池泉鑑賞式庭園・聚碧園が広がる。
縁側に緋毛氈が敷かれ、すでに鑑賞の人たちが座っていた。
 
私たちも縁側に座り、抹茶と羊羹をいただきながら、小雨降る庭を眺めた。
雨に濡れた庭園の、深い苔がきらきらと眩しい。
縁側の前に、モミジカエデが、枝を伸ばす。
 
紅葉の季節は、鮮やかな紅色で、庭園が染まるであろう。
京都の秋は、11月後半から、12月の初旬まで、遅い秋だそうである。
紅葉のシーズンは、この場所に座ることができないほど、混み合うだろう。
 
庭には池が切られ、周りの岩は苔むす。
池の中を、鯉が優雅に、泳いでいた。
雨足はさらに速くなり、止む気配がなかった。
  
そして席をたち、庭の周りを散策し、外に出る。
先ほど来た経路と、異なる散策道を行く。
杉の古木に苔が浮き、雨に濡れ情趣を醸す。
 
正面に往生極楽院の、本堂が見える。
この本堂の中に、国宝・阿弥陀三尊像が、金色に輝いている。
本堂へ向かう散策道の左右は、深い苔に抱かれていた。
 
紅葉の季節は、モミジカエデの紅色と苔の緑が、晩秋を飾るだろう。
雨に濡れた庭園は、静謐な空気が流れている。
好天であれば、木漏れ日が、苔の緑に、様々な文様を刻むだろう。
 
自然が創りだす、色とりどりの景色が、神秘的に映し出される。
庭園の中の石灯籠が、雨に濡れていた。
その周りは、深い苔が盛り上がる。
  
雨に濡れた、苔の若緑が、輝いている。
苔の若緑を愛でるのは、日本人だけだろう。
そして往生極楽院の本堂の前を行き、三千院を後にした。
  
律川に架かる、朱色の末明橋を渡る。
先ほどから降る雨で、川は増水している。
川に沿い小道を行く。

傘をさしながら、熟年過ぎの人たちが、話ながら歩いている。
この先に宝泉院がある。
宝泉院は、勝林院の支院で、平安末期創建の古刹である。
  
小さな朱色の橋を渡り、真っ直ぐ進むと、宝泉院の山門に着いた。
門を潜り、左手の寺務所で、拝観料の800円を払い、寺院の玄関へ行く。
風情のある、細い石畳を進むと、寺院の玄関に出た。
 
玄関で靴を脱ぎ中へ。
廊下を歩くと、囲炉裏が切られた、板張りの部屋があった。
囲炉裏の縁は、陶板で飾られていた。
 
正面に日本庭園が広がる。
この寺は、何処でも写真撮影が、許可されているようだ。
そしてさらに進むと、書院造りの広間に出た。
  
書院は文亀2年(1502)に再建され、正面に五葉松が、扇型で左右に、枝を広げている。
樹齢700年の松は、中心部の樹幹の一部が、白いもので覆われている。
きっと樹医が、老樹の手当てをしているのだろう。
 
廊下に敷かれた、赤絨毯に座り、抹茶と和菓子をいただく。
雨に濡れた庭園は、日本情緒に溢れている。
左手の緑を映す池に、鯉が数匹泳いでいた。

天井を見上げると、薄茶色の板に、異様な染みが、浮き上がっている。
寺の女性に訊くと、丁寧に説明してくれた。
天井は血天井と言い、伏見城の廊下であった。

本能寺の変で、織田信長が倒れ、風雲急を告げる。
慶長5年(1600年)、徳川家康は天下取統一のため、伏見城に鳥居元忠を残し、上杉景勝討伐で会津へ向かった。
その時、豊臣軍の石田三成勢は、4万の兵を従え、伏見城を急襲した。

鳥居元忠勢は1800人で、伏見城に籠城し、10日の間、石田三成の大群を迎え撃つ。
だが城は、甲賀衆に火を放たれ、鳥居元忠は鈴木重朝との一騎打ちに敗れ散る。
その後鳥居元忠の臣下数百名は、伏見城内で自害し、城は陥落した。

その亡骸は、家康が天下を平定するまで、放置されたと言う。
その時、流された血が、床板や畳に浸みこみ、死の影を刻みこんだ。
家康は鳥居元忠以下、数百名の臣下たちの霊を、徳川家ゆかりの、京都の寺々の天井に供養した。

客間の奥に、座布団と肘掛が置いてある。
そこに座り、殿様気分で、正面を眺めると、柱が額縁となり、五葉松がすっぽりと収まっていた。
この庭園が、額縁庭園と言われることに納得した。

右手に目を移すと、障子戸が僅かに開き、雨に濡れた樹々の緑が、輝いていた。
薄明かりを透かした障子が、陰翳を映し、日本情緒を醸す。
そして右手の廊下に出ると、遠くに竹林が広がる。
 
廊下の前に水盤が置かれていた。
その水盤を見ていたら、寺の案内係の女性が、水琴窟の水盤なんですよと、教えてくれた。
女性が水盤の前の水路に、柄杓で水を流す。
 
縁側に突き出た、竹筒に耳を充てると、理智不二と名付けらた水琴窟は、キーン、コーンと乾いた音を響かせた。
そして隣のもう一方の竹筒に、耳を添えると、先ほどより低い音が聞こえた。
この庭には四季折々、花々が咲き、季節の移ろいを、樹々が姿を変えながら、彩を添えるだろう。
 
外国の庭は人工的で、色鮮やかである。
しかし日本の庭園は、自然と調和して、季節を映し出す。
その自然の中に、人々は自然界の宇宙を、感得する。
 
格子戸から外を眺めると、雨は上がっていた。
これから大原を後にすれば、丁度良い時間で、京都駅に着く。
思いがけずに訪れた、京都大原は、長い間のママの念願の地だった。