マスター&ママの寺社めぐり
日光東照宮を訪ねて
2019年6月17日

鬼怒川渓谷沿いのホテルを、10時ころにチェックアウトし、日光へやって来た。
午前10時45分ころ、東照宮近くの駐車場へ、車を停め東照宮へ。
前回来てから、9年は経つであろうか。
  
杉並木の老樹に包まれた、広い参道に、大勢の日本人や、外国人の参拝客がいた。
さすがに世界文化遺産の日光、その人気は世界的である。
やがて、左手に慶安3年(1650)、若狭の国(福井県)の、小浜藩主酒井忠勝が寄進した、五重塔が見えた。
  
かつて文化12年に火災で焼失、そののちの文政元年(1818)に、
同藩主酒井忠進公によって、再建されたものである。
朝の陽光を浴び、朱漆が眩しい。
さらに参道を進み、石段を上り、大鳥居を潜ると、右手に東照宮と刻まれた、石碑が建つ。
  
その先に、東照宮最初の門の表門、通称仁王門とも呼ばれる神門が、正面に見える。
表門の大きくて、急峻な石段を上る。
朱色の神門の左右に、阿吽の仁王像が、逞しい姿で控えていた。
  
神門の左手の自動販売機で、東照宮の拝観券を、1300円で購入し、神門を潜る。
前方に、陽明門が燦然と、耀いている。
広い境内は、団体の観光客や、外国人たちが、溢れていた。
 
そして左手に、神厩舎があり、その長押上に、有名な三猿の彫刻があった。
団体客の添乗員が、猿の姿を借り、人間の一生を風刺する、
八面の彫刻と、その中の三猿などの彫刻を、説明していた。
  

そして陽明門へ続く、険しい石段を、足元を注意しながら上った。
平成の大改修を終えた陽明門は、金彩銀彩を放ちながら、正面に建っていた。
陽明門の創建当初、全国から集められた、職人たちの数は、膨大であっただろう。
その威容はまさに、江戸時代の技の粋である。
終日見ていても、飽きないことから、日暮御門とは、うまい表現だ。
陽明門の左右に、随神像の右大臣と、左大臣の像が並ぶ。
  
そして絢爛と耀く門に、様々な獅子が、睨みを利かせていた。
陽明門は東照宮の、まさに主役の華。
たくさんの観光客が、周りを取り囲み、ガイドやツアーコンダクターが、説明をしている。
  
その団体客の中に混じり、解説を聞くのも楽しい。
境内に石畳が伸び、その周りに、大粒の石が敷かれている
灰白色の石畳を行くと、右手に朱色の建物があり、団体客が列をなしていた。
 
そこは東回廊、奥社参道入り口。
かの有名な、左甚五郎作の眠り猫が、彫られていた。
団体客が去り、静けさが戻り、中へ行く。
 
入り口の上に、眠り猫が正面に顔を向け、目をつぶっている。
白と黒のぶち猫は、寝たふりをしながら、入り口を見張っているらしい。
有名なわりに、その彫刻の小ささに、見るものの誰もが驚く。
 
頭上に潜むように、入り口を守るのだから、大きくては目立ってしまう。
それにしても、左甚五郎作の彫刻は、関東のいたるところにある。
秩父神社のつなぎの龍も、見事な出来栄えである。
 
あまりに精巧につくられたので、夜な夜な徘徊するので、壁に鎖でつなぎ留められたと伝わる。
坂下門を潜り、かなた石段207段を上ると、家康公の墓所・奥宮がある。
急峻な一枚石の階段を、修学旅行とおぼしき、子供たちが、賑やかに上って行く。

私も世田谷の小学校のとき、修学旅行は、日光であったことを思い出す。
階段を上りきると、なだらかな参道が続く。
杉の老樹に囲まれた参道は、冷気に満ちている。

歩いていると、心が洗われるようだ。
かつてこの参道は、限られた人たちだけが、歩くことを許された。
坂下門から、歩くこと10分ほどで、最後の石段があった。
 
東照大権現と彫られた、扁額を飾る、大鳥居が迎えてくれた。
振り返り、石段を見ると、均整の取れた石段の、傾斜が美しかった。
すでに軽く汗ばんでいる。
 
最後の力を振り絞り、階段を上りきると、古色な門が、迎えてくれた。
そしてさらに行くと、扉以外を、唐銅で鋳造した鋳抜門を、狛犬が守っていた。
参道の先に、徳川家康の墓所である、奥宮宝塔が見える。

創建当時は木製だったらしいが、その後に石造りとなる。
そして1683年(天和3年)に、唐銅製に造り替えられ、現在に至る。
宝塔は銅寂びて、威厳に満ちている。

その中に、静岡県久能山東照宮の神廟から、1部を移された遺骨が、収められていると、伝わる。
その形は、九能山東照宮の神廟と、似ている。
宝塔の周りを、ぐるりと回ると、杉の老樹が聳えていた。

そして根元近くの裂けめに、祠が祀られ、注連縄と真っ白な紙垂が、下がっていた。
この樹齢600年の杉は、叶杉と呼ばれる。
諸々の願い事を、祠に向かって唱えると、願い事が叶うと、言われる。
 
叶杉に手を合わせ、来た道を戻ることにした。
東照宮に来て、すでに1時間近く経っていた。
正午近くの奥宮宝塔を、たくさんの人たちが、切れ目なく訪れてくる。

先ほど上った石段を下る。
急峻な石段の先に、九十九に参道が続く。
杉林の森厳な霊気は、精気を体内に、満たしてくれる。
  
やがて杉林の彼方に、東照宮の社殿の甍が見えた。
そして坂下門を潜り、東照宮の境内に出た。
さらに唐門の前を行く。
  
桁行3メートル、梁間メートル弱の異国情緒漂う、本社への正門である唐門。
鈍い白色の胡粉が、厳粛さを漂わせていた。
この門は、特別な祭礼や、政府高官や、国賓以外は潜れないようだ。

唐門から陽明門を出ると、右手に総朱漆の薬師堂が見える。
門前に大勢の参観者が、列をなしていた。
陽明門の拝観券を提示し、堂内へ入る。
 
天井に巨大な龍の絵が、描かれている。
龍は古来から、水をつかさどる神で、寺社を火災から守り、
「法の雨」を降らせ、仏教の教えを広め、衆生を救うと信じられている。

薬師堂の創建は、寛永13年(1636)だが、昭和36年(1961)年に、焼失された。
創建当初は、狩野派の絵師・狩野永真安信が描く、水墨画風の縦6メートル、横15メートルの巨大な龍であった。
現在のものは、日本画の巨匠・堅山南風が、復元したものである。

龍の下で、僧侶が鳴き龍について、色々と説明をしている。
そして龍の顔の下で、拍子木を打つと、鈴が天井で、囀るような、可憐な音が響いた。
その現象は、天井と床の硬質の板と、天井の中央部の凹みが起こすようだ。

さらに、顔の下から、少し離れて打つと、音はしなかった。
かつて修学旅行で、ここを訪れたとき、龍の下で、手を叩いた記憶があるが、現在は禁止されていた。
鳴き龍を聞いたあと、薬師堂を出る。
  
薬師堂の鳴き龍は、とても人気がある。
観光客が、次から次と、堂内へ入ってゆく。
そして東照宮の境内をあとにし、東照大権現の扁額を飾る、石鳥居を潜り、駐車場へ向かった。