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マスター&ママの初冬の伊豆長岡旅情Ⅱ 韮山代官・江川邸を訪ねて 2018年12月18日 無料の駐車場に車を置き、細い堀川沿いを少し歩く。 前方に、江戸時代に建てられた、江川邸が見える。 元禄9年(1696)建築の、三間一戸の表門(薬医門)が、朝日を浴びていた。 その右横手に、桝形がある。 この広場で、代官が外出時に、人数を揃えた。 だが幕末には、農兵が集められ、訓練された。 券売所で入場料500円を払い、門を潜る。 正面に主屋の玄関があり、その前に白砂が広がる。 ここは正式な出入り口で、身分の高い来客や、主人が使う。 右手に生け垣に包まれた、道がある。 生け垣の奥は、梅林だった。 少し行くと、主屋の前に出る。 中へ入ると、50坪(162平方メートル)の、土で固めた広い土間があった。 見上げると、高さ12メートルの天井を支える、小屋組みの架構が、力学的でダイナミックである。 むき出しの木組みが、明かり窓から、さし込む陽光に、照らされている。 天上の一番高いところに、木箱が見える。 その箱の中に、日蓮上人直筆、「火伏せの護符」の曼荼羅が、棟札として収められている。 この棟札の霊験により、現在に至るまで700年以上の間、火災にあっていないという。 土間から式台を上がる。 中の蔵から控えの間へ、そして使者の間へ廻ると、先ほど見た玄関に出た。 玄関前の白砂に、建物の影が投影され、表門の中に、遅紅葉がきらめいていた。 玄関の奥に、塾の間があり、時代を担う、精鋭たちが、ここで学問したのであろう。 幕末の動乱期、江川英龍((坦庵 1801-1855)は、36代目の代官は、蘭学を収め、渡辺崋山や、高野長英と交流した。 さらに、緊迫した国際情勢も認識し、沿岸警備を幕府に建議し、西洋砲術の研究し、韮山反射炉を築造する。 この小さな塾の間で、佐久間象山、井上馨、榎本武揚たち若き志士たちが、最新の欧米の知識を学んだろう。 塾の間から戻り、先ほど通った部屋を歩き、土間へ降りる。 正面に、東インド艦隊司令長官ペリーが、2度目に来航した時 、幕府に献上した大砲、「ボートホーウィッスル砲車」が、展示されていた。 その横に、大きなかまどがあった。 土間の裏口から、敷地に出る。 3つの蔵があり、中は展示室になっていた。 蔵を出て、主屋を見る。 桁行13間(24メートル)、梁間10間(18メートル)、棟高(12メートル)の主屋は、素朴だが風格に満ちていた。 遡れば、主屋の原型は、関ケ原の合戦の慶長5年(1600)に、建てられた。 江戸時代の代官屋敷を今に伝え、邸宅建築では最古のもので、国指定文化財になっている。 敷地内を、文政6年(1823年)建築の裏門へ行くと、近くに不思議な形の「パン祖の碑」が立っていた。 それは昭和28年、全国パン協会が、江川秀龍を、パン祖として、顕彰したものだった。 時代に適合する農兵制度の導入とともに、英龍は兵糧としてパンの製造に着目。 そして自分の屋敷に、パン窯を築き、4月12日に、日本で最初のパンを焼かせた。 それは保存性の高い、今日の乾パンのようなものであった。 現在、その記念すべき日が、「パンの日」なっている。 江川家は、徳川家康に仕えた、28代江川英長(永禄3年・1560)ー寛永9年・1630年))から、明治時代の38代江川秀武まで続いた。 その血脈は清和源氏であり、源頼朝の挙兵(1180)にも、参戦した家柄である。 代々の代官として、伊豆国を中心とし、相模国、武蔵国から、甲斐国など、関東一円を収め、太郎左衛門を名乗った。 現在の敷地は、11873平方メートルあり、国の重要文化財に指定されている。 江川邸に人影はなく、ゆっくりと江戸時代の情緒を、楽しみながら、薬医問を出た。 |