マスター&ママの河口湖旅情
河口湖近くの無戸室浅間神社(船津胎内神社)を訪ねて

2018年9月25日
 
船津胎内樹形に到着したのは、午前9時過ぎだった。
すでに、社殿前の河口湖フィールドセンターで、中学生の団体が、引率の先生の講義を聴いていた。
胎内樹形に入る前、予備知識として、学習をしているのであろうか?

 
フィールドセンターで、拝観料200円を払う。
すると、受付の男性が、船津体内樹形の説明をしてくれた。
簡単明瞭な説明を聞いたあと、社殿へ行き、お賽銭を添え、手を合わせる。
 
明治期に建てられた社殿が、胎内樹形への入り口だった。
白い幕を通ると、ごつごつした溶岩が、大きな口を開けていた。
ここから約70メートルの、洞窟が始まる。

 
幾重にも重なり、波打つように、溶岩の壁が広がる。
触ると、すべすべした手触りで、ひんやりと冷たい。
黒褐色の壁は、6メートルほど続き、その様は人間の肋骨を、想起させる。
  
その中を注意深く進むと、左へ下る洞道がある。
天井は低く、ごつごつし、足元は溶岩で、凸凹している。
この先に、母の胎内があるらしい。
  
裸電球の明かりを頼りに進むと、坑道はさらに狭く、人間の大腸のような形をしている。
頭上と足元に気をつけ、精いっぱい小さく、かがみながら進むも、頭をゴツンッ! と不覚にも打つ。
這いずりながら進むと、さらに狭くなり、その先に、広そうな空間が見える。
  
身を縮め、頭を下げ潜ると、ぽっかり空いた、天上の高い、空洞に出た。
前に、小さな石造りの観音様が、鎮座していた。
ここが母の胎内であり、この像は富士山の祭神・木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を、表しているのであろう。
   
神話的な伝説によれば、オオヤマツミの娘、木花開耶姫は、ここで3人の御子を生んだのだろうか?
ニニギノミコトと結婚した姫は、身の潔白を証明するため、火の放たれた、戸の無い産屋、無戸室(うつむろ)で、
神の子を誕生させたとある。
その子供の1人のホオリの孫が、初代天皇の神武天皇であるとされる。
   
一息ついて、坑内を戻る。
側壁に水が浸み出し、ところどころに、薄緑の苔が、電球に照らされ、光っていた。
そして途中、15メートルの父の胎内に立ち寄り、出口に向かった。
 
前方の溶岩の空洞から、明かりが射し込む。
その向こうに、樹々の緑が、きらめいていた。
その瞬間、闇から救われたような、開放感がわき上がる。
 
船津体内から、外に出ると、小雨が降り、樹々の柔らかな芳香が、漂っていた。
約70mの胎内巡りは、想像以上に、苦しい体験であった。
この胎内樹形は、340年くらい前に、富士講の信者・長谷川角行により、船津胎内樹型は、発見されたという。

それ以来、富士山へ登拝前日に、この霊地で、胎内巡りをして清めた。
今は電灯が灯されていたが、当時は松明を焚きながら、胎内巡りをしたであろう。
その行為は、命がけの禊である。
 
あの美麗な富士山が、一たび噴火すると、想像を絶する、劫火で全てを焼き尽くす。
その凄まじく、恐ろしい力を恐れるからこそ、富士山に崇高な美を、みるのかもしれな。
改めて、天変地異の怖しさを、知らされた。