マスター&ママの花巡り
栃木県大田原雲厳寺&城址公園の紫陽花を訪ねて

2018年6月17日

雲厳寺に、9時半頃に到着した。
早朝なのに、駐車場に、たくさんの車が、停まっていた。
車を降り、雲厳寺に向かう。
  
杉木立の彼方に、朱色の橋を、渡る人たちが見える。
橋の前に行くと、金色の擬宝珠が鈍く光り、朱色の反り橋と調和している。
急斜面の階段正面に、山門が見える。
橋を渡る途中、下を見下ろすと、武茂川の清流が、朝日に輝いていた。
朱色の橋が結界となり、奥は聖域になる。
この朱色の橋が、JRのテレビコマーシャル「大人の休日倶楽部」に登場した。
女優吉永小百合が、この橋と山門を背景にした、映像が流れた。
それ以来、この寺は有名になり、遠方より多くの人々が、訪れるようになった。
だが雲厳寺の開山は、平安時代の大治年間(1126年-1131年間)に遡る。
 
京都・永観寺の僧・初叟元和尚(しょそうげんおしょう)が、仏教系寺院として開基した。
その後、寺は荒廃した。
だが鎌倉時代になり、高峰顕日(仏国国師)が、臨済宗妙心寺派の寺院として、創始者となり復興した。
 
当時、禅宗寺院として、筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺とともに、日本の禅宗四大道場と呼ばれた。
山門の急峻な石段を登る。
朝日に照らされた山門は、素朴な佇まいである。

山門を潜ると、正面に仏殿の、釈迦堂が見えた。
真っ直ぐに続く、石畳の参道を進み、お堂の前で手を合わせる。
そして右手の坂道を上がると、生け垣のツツジが、名残の花を咲かせていた。
 
奥栃木県の八溝山地の麓は、少し前まで、ツツジの季節だったのであろう。
坂道を左手に曲がると、方丈殿があった。
参拝を済まし、山門の方向へ目をやると、眼下に先ほどお詣りした、仏殿の屋根が広がる。
 
その屋根の彼方一直線に、山門が見え、典型的な伽藍配置を、示していた。
石段を下ると、先ほどの釈迦堂の裏手に出た。
ぐるりと回り、堂宇の前に出ると、大勢の人影が見えた。
 
日曜の休日、これからこの古刹は、参拝客で溢れるのだろう。
この寺は松尾芭蕉も訪れた。
芭蕉の禅の師匠・仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)が、ここで修業したことを偲び訪れている。
 
境内には鐘楼がたち、寺に趣を添えていた。
そしてふと、境内の隅に眼をやると、ユキノシタが、楚々と咲いていた。
参道を山門に向かい、山門の下から見上げる。
 
飾り気のない素朴な、山門の梁を、蟇股の木組が支えている。
山門を潜り、反り橋を渡ると、左手に杉の巨木が、聳えていた。
樹齢550年、樹高約32m、幹囲5.2mの老樹は、環境庁により、「関東の巨樹」にも選出されている。
 
東山雲厳寺には、大勢の参拝客が、押し寄せ始めていた。
石門を出て、駐車場へ行くと、駐車場は車で溢れていた。
駐車場で車に乗り、次の目的地・黒羽に向かった。
 
国道461号を進み、30分ほど行くと、沿道に「あじさい祭り」の幟旗が見えた。
その旗に誘われながら行くと、目的地に到着した。
そこは芭蕉の里、くろばね「紫陽花まつり」の会場である。
 

あじさい祭り会場近くに、散在する駐車場は、すでに満杯であった。
会場整理員の指示を待ち、車の列に着け、順番待ちをする。
やがて指示に従い、車を停める。
 
駐車場から会場への、なだらかな下りの道を歩くと、入り口に到着した。
水色に咲き匂うアジサイが、迎えてくれた。
なだらかな上りの石畳を行くと、会場に出た。
  
そこは黒羽城の本丸が、あったところである。
黒羽城は戦国時代の、天正4年(1576)に、黒羽藩主・大関高増が築城した。
本丸・二の丸・三の丸に別れた、複郭式の山城であった。
 
本丸跡の広場は、城址公園となり、ステージがあった。
そのステージ横で、国際福祉大学の吹奏楽部が、演奏をしていた。
栃木県の大田原に、大学があることは知っていたが、黒羽の近くにあるとは知らなかった。
 
この大学の薬学部長は、ママの従妹の旦那さんで、私の店の近くに住む。
きっと演奏をしている学生も、薬学部長の講義を、聴いているであろう。
そう思うと、演奏している学生に、親しみを覚えた。
 
そして広場から、芭蕉の館に向かった。
程なくして紫陽花橋を渡る。
かつての黒羽城の、空堀に架かる木橋である。
 
左右に広がる、空堀を見下ろすと、一面にアジサイが咲いていた。
初夏の新緑とアジサイの水色や、薄紫が調和し、季節を演出していた。
橋を渡り杉木立の道を抜けると、正面に趣のある建物があった。
 
石段を下ると、建物の下に着く。
左手にお茶席の、立て看板が建っていた。
建物の下を潜り、ゴツゴツとした石段を登りきると、そこは芭蕉の館であった。
ここが黒羽城の三の丸にあたるようだ。
芭蕉の館の前の草叢に、ドクダミの花が、遠慮がちに、純白の花を咲かせていた。
その向こうに、馬上の松尾芭蕉と、弟子の曾良の銅像が、陽光に鈍く光る。
芭蕉の広場に建つ、文化施設・芭蕉の館を、人が出入りする。
玄関を入ると、見学は無料であった。
芭蕉にまつわる、様々な資料や、大関家に関する文献が、展示されていた。
  
さらに寄贈された、甲冑や武具の刀や、短刀などが、鈍い光を放っていた。
建物は地元の八溝材が使われ、独特の情趣を醸していた。
館内は程よい照明で、建物の木香が、匂うようで心地よい。
 
そして芭蕉の館を出て、大雄寺へ向かった。
さすがにアジサイの里。
路傍にも、色とりどりのアジサイが、咲いていた
 
静寂に包まれた、芭蕉の道から、アジサイ通りを行く。
その途中、趣のある民家の屋根下の壁に、昔懐かしい看板が貼られていた。
さらになだらかな、下りの道を進むと、右手に水田の稲の緑が眩かった。
 
さらに行くと、旧浄法寺邸の、標識があった。
矢印の方向を見ると、細い階段奥の緑の中に、屋敷が見える。
「奥の細道」の途次、黒羽に13泊14日滞在した芭蕉は、この屋敷に8泊した。
  
芭蕉の門人で、黒羽藩家老・浄法寺図書(俳号桃雪)は、邸宅に芭蕉を招待した。
それは一族でもてなす、歓待であったようである。
天気が不順なこともあったが、よほど居心地が良かったのであろう。
  
今回は侍屋敷・浄法寺邸に寄らず、黒羽山大雄寺(だいおうじ)へ、下りの道を進む。
大雄寺は、黒羽藩主・大関家累代の墓所で、創建 応永11年(西暦1404年)の歴史がある。
10分足らずで、参道の入り口に着いた。
鬱蒼とした杉並木の彼方に、長い石段が見える。
  
難儀しながら登る人たちの姿が、木漏れ日に、照らされていた。
赤土を石で固めた、参道を行く。
灰黒色の石段を登ると、山門が迎えてくれた。
  
山門を潜ると、さらに真っ直ぐな、階段が続く。
杉木立につつまれ、すがすがしい霊気が漂う。
やがて正面に、茅葺屋根の総門が、建っていた。
  
国重要文化財指定の総門は、左右に茅葺屋根の回廊を、配置していた。
総門を潜ると、正面に本尊釈迦如来像を安置する、本堂が建っている。
室町期様式の禅寺は、素朴だが威風堂々とし、気品がある。
 
この大伽藍も国重要文化財指定され、大雄寺には国重要文化財指定の建築物が、9棟ある。
本堂でお参りを済ませ、禅堂に繋がる、回廊へ行く。
すると赤い帽子に、前掛けをした、十六羅漢の一人、撫で仏・おびんずるさまが、鎮座していた。
  
長い間、大勢の人たちが、病気や怪我を治すために、仏さまを撫ぜたのだろう。
この仏さまを撫ぜた手で、自分の身体を撫ぜると、病気や怪我が治ると、昔から信じられていた。
おびんずるさまの前を通り、禅堂への回廊へ出る。
 
回廊の廊下は、ぴかぴかに磨き上げられ、一点の曇りもない。
厳しい修業をする禅僧たちが、冷気漂う早朝に、毎日拭きあげるのであろう。
この廊下の状態を見ただけで、修業の厳しさが伝わる。
 
本堂出て左手に、小さな池があった。
その池に、一輪の小さな蓮が咲き、陽光を受け、池面に影を落としていた。
先ほどの参道を下るが、人影もなく、静寂につつまれていた。
 
そしてアジサイの道の、上り坂を行き、駐車場に着いたのは、午後1時頃だった。
駐車場は込み合い、順番を待つ車が並んでいた。
そして私たちは、本日宿泊する、塩原温泉郷に向かった。