フランス料理の源流はイタリア?
2018年2月6日

以外に知られていないのが、フランス料理の源流は、イタリアにありといわれること。
イタリアルネサンス華やかなりしころ。
フィレンツの大銀行家、メディチ家が繁栄を誇り、文化経済に多大な影響を与えていた。

その名家の華、カトリーヌ・メディチ(フランス語=カトリーヌ・メディシス1519-1589)が、1533年に14歳で、
フランス・ヴァロワ朝のアンリ2世へ嫁いだ。
その当時、フランスはまだ文化的にも経済的にも、イタリアに比べ、まったくの後進地域だった。
そこへ世界一の繁栄を誇る、メディチ家の娘が輿入れした。

その時、メディチ家は、馬車の大行列を率い、イタリアの文化の粋を、フランスへもたらした。
丁度家具や装飾品はもちろんのこと、料理用具、料理方法や作法などを、フランスへ伝えた。
そのイタリア式料理法を、進化し完成させたのが、フランス料理だと言われている。

その後ずっと時代は下り、19世紀になり、
マリー=アントナン・カレーム(Marie-Antonin Carême1784-1833)が、古典的なフランス料理を完成した。
彼はかのナポレオン・ボナパルトお抱えの調理人であり、その後、「ウィーン会議」(1814-1815)の、料理を仕切った。
オーストリア宰相メッテルニヒが議長を務める、ナポレオン戦争終結後の、秩序再建を図る会議は、数ヶ月進展しなかった。

そして会議は、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたが、1815年6月9日に
、ウィーン議定書をもって終結した。
時代も下って1930年代。
フェルナン・ポアン(Fernand Point,1897-1955)が、リヨン近郊のヴィエンヌに、レストラン「ラ・ピラミッド」を作る。

その弟子たち、ポール・ボーキューズ、トラワグロ兄弟、ウーティエが、ポワンの精神と技術を継承する。
そしてさらに、今までのフランス料理とことなる、より素材の持ち味をいかした、繊細な味を追求した。
やがてその料理や調理術を、「新しい料理」(ヌーベル・キュイジーヌ)と、
クリスティアン・ミヨ(Christian Millau)が名づけ、世界に広まった。

それは多分に日本料理に、影響されたものであり、海鮮の幸、山野の幸の持ち味を、大切にいかした料理であった。
それはあたかも、イタリア料理の源流に、奇しくも回帰したようであもる。
ちなみに、アンリ2世へ嫁いだ、カトリーヌ・メディチは、医師にして占星術師である、
大預言者ミシェル・
ノストラダムス(Michel Nostradamus1503年-1566年7月2日)を、宮廷お抱え占星術師にしていた。

1559年の或る日、ノストラダムから、アンリ2世の馬上槍試合の危険を、託宣された。
そしてアンリ2世の馬上試合の当日、試合を避けるように伝えた。
だが予言など信じない王は、若い近衛隊長に、槍試合を挑む。

すると交戦する試合の最中、大勢の見物人の前で、大事件が起きた。
近衛隊長の槍の先が裂け、アンリ2世の黄金の兜を砕き、眼球を刺し貫いた。
王は9日間苦しみ抜いた末、40歳にして予言通り、帰らぬ人になったと伝わる。