春日を浴びながら、伊豆の伊東散策! 2018年2月18日 立春過ぎの厳しい寒さが続いたが、今日は好天に恵まれた。 東名高速も、海老名を過ぎたあたりから、真っ白に冠雪した富士山が、朝日に輝いていた。 東名高速を、御殿場インターで降り、目的地の小室山に、11時過ぎに到着した。 確かに大駐車場と看板が出ていたのだが、小室山へ行くリフトも、乗り場も見えなかった。 駐車場隣のツツジ園に、リフト乗り場を示す、看板が見えた。 指示に従い、ツツジ園の中の、散策道を進む。 かなり広いツツジ園、春になると、40種10万本のツツジが、咲き匂うようだ。 この広大な花園は、さぞかし壮麗であろう。 さらに進むと、ツツジに囲まれた、狭い散策路を行くと、梅林が咲き匂う。 赤や白の淡い花を咲かせた、梅の古木が、風趣を誘う。 やがて前方に、小室山山頂へ向かう、リフトの姿が見えた。 整備された階段を上ると、おみやげの看板を掲げる、建物の前に出た。 玄関から中へ入ると、土産物の売店があり、その奥にリフト乗車券の売り場があった。 大人1人往復470円で、登山リフト乗車券を購入し、乗り場へ行く。 順番を待つこともなく、すぐに乗車できた。 大室山のリフトは2人乗りで、安全を配慮した、鉄のバーが付いていた。 小室山のリフトは1人乗りで、安全バーもない。 大人でも少し恐怖心を持つのだから、子供はさらに危険な気がする。 だがこのように運営されているのだから、今まで事故が皆無なのであろう。 登山リフトに乗り、急斜面を上り、3分ほどで頂上に到着した。 頂上は大室山に比べて狭く、すり鉢状の火口跡もなく、もちろんお鉢巡りもなかった。 頂上は人影も少なく、降り注ぐ陽光を、のんびりしながら愉しめた。 伊豆の小高い山稜の彼方に、雪をいただいた富士山が、青空の中に、神々しく輝いていた。 そして彼方を見下ろすと、伊東の市街地が、広がっていた。 小室山の標高は321m、標高580mの大室山と同様に、15000年前の噴火による溶岩でできた、スコリア丘である。 遠く眺めると、枯れ寂びた、標高580mの大室山の、雄姿が見える。 春を過ぎ初夏になると、景色は一変し、若緑の山に変身するであろう。 小室山の山頂は、360度の眺望が広がる。 大室山の反対側の相模灘はなぎ、きらきらと海面に陽光が反射している。 その遠くの海上に、大島、利島、新島の島影が、うっすらと浮かぶ。 その左手に目を向けると、初島が浮かび、その遥か彼方に、真鶴岬が霞む。 そして手前の山腹に沿って眼を送ると、川奈ホテルゴルフ場が広がる。 このゴルフ場も、噴火の時に流れ出た、5億トン以上の溶岩の堆積により、誕生した台地である。 白亜の展望台を見ると、先ほどより、たくさんの人が、眺望を楽しんでいる。 春うららの山頂は風もなく、陽光が柔らかく、降り注ぐ。 登山リフトの彼方、広がる青空と、銀灰色の雲海の下に、富士山が眩しく耀く。 煌めく相模湾、秀麗な富士山、流れ来る山頂の清涼な空気、降り注ぐ春日。 伊豆はすでに、心地よい春を迎えている。 春日の中、下山することにして、リフト乗り場へ向かった。 すると左手に、小さな祠が、ひっそりと鎮座していた。 紙垂の白さが眩しい、鳥居の扁額に、小室神社と書かれていた。 その右手に、神社の由来を示す、説明版があった。 読めば、元禄16年(1703)の大地震により、小田原領は壊滅的な被害を受けた。 その時の藩主大久保隠岐守忠増が、西方鎮守として、神域を整えたことに始まると書かれていた。 参拝を済ませ、約1時間の山頂散策のあと、下山することにした。 急斜面をリフトは滑り降り、右手に相模湾が広がる。 そしてリフトは、先ほど乗車した乗り場に到着。 売店を抜け、外に出ると、駐車場は観光バスや、乗用車でふさがっていた。。 そして駐車場に戻り、国道135号線から、伊東市街地に向かった。 小室山から30分ほどで、伊東市街に着く。 そして今日、投宿するホテルの駐車場へ車を置き、駅前辺りの繁華街を、ぶらり散策する。 すると目の前に、アーケード商店街・キネマ通りが迎えてくれた。 どうやら今日は、サンデーマーケットが、開かれているようだ。 ストリートには、たくさんの露店が店構えし、様々な屋台料理が提供されていた。 そしてキネマ通りの中ほど、アーケードの天井下の金属製篆刻のような作品を、カメラに収めた。 するとお店の女性が、店から出てきて、その彫刻のことを説明してくれた。 それは地元の有名な彫師・森田東光の作品であると。 さらにここから5分くらい行くと、 木造3階建てで、伊東市指定文化財の東海館があるから、ぜひ訪ねてくださいと言う。 その建物の玄関に、森田東光の見事な彫刻が、見れますと教えてくれた。 伊東の町を愛する人々の、熱い心意気を感じた。 さらにキネマ通りを行くと、湯の花通りの看板が、街灯に吊られていた。 古くからの温泉街だけあり、名前も洒落ている。 湯の花通りにも、観光客が溢れていた。 通りを挟んだ商店も、老舗の匂いを醸し、古き良き時代の雰囲気を、今に伝えているようだ。 時間はすでに、2時近くになっていた。 さらに湯の花通り探索をしていると、七福神の石像が建ち、温泉が流れ落ちていた。 手を触れると、温泉の湯は暖かかった。 その名も、お湯かけ七福神。 七福神に置いてある柄杓で、湯をかけて願掛けをすると、願いが叶えられるらしい。 恵比寿様や大黒様の笑顔に、ユーモアが溢れていた。 朝からまだ食事をせず、2時を回った。 小腹が空いたが、6時にはホテルの夕食が待っている。 それまでの繋ぎに、軽い食事でもと思っていたら、湯の花通りの外れに、小さな蕎麦屋さんがあった。 スタンドの蕎麦屋さんのような風情だが、メニューもしっかりし、値段も手ごろである 食べると蕎麦に、程よいコシがあり、つゆもベたつかず、なかなかの味加減である。 食べ終わり、蕎麦湯を飲みながら、壁に目をやると、張り紙がしてあった。 かえしには国産特選醤油を使用し、砂糖は三温糖を使っていると書いてあった。 納得である、この値段でこの味なら、大満足であろう。 店の名前は、セルフそばスタンド天茶屋とあった。 軽く腹ごなしのあと、湯の花通りを戻る。 そして先ほどの、湯の花通りと標された、看板の路地に出る。 角には大正ロマンを醸すような、3階建ての木造建築が目を引く。 そして通りを右に折れると、古風なぐり茶の店があり、その斜め前に、室内装飾の店が、情趣を醸し出していた。 そして先ほどの通りに戻り、キネマ通りを行く。 相変わらず、通りは賑やかであった。 そしてぜひ行くようにと薦められた、東海館へ向かった。 だが5分過ぎても、建物の気配はない。 不安な気持ちで、歩いて行くと、前方に相模灘が広がっていた。 道を間違えたようである。 せっかく浜に出たのだから、波打ち際へ行き、潮騒を愉しむことにした。 紺青の海は光り、真っ白な船が、小さな航跡を残しながら、海上を滑ってゆく。 浜にはもちろん人影はなく、灰色の砂に、私たちの足跡が、刻まれていた。 磯の薫風をすいながら、東海館を探すことにした。 途中、屋根の修理をしている人がいて、東海館のことを尋ねた。 すると梯子を降りて、親切に教えてくれた。 説明通りに道を行くと、東海館の標識があり、狭い路地の松川通りへ曲がる。 前方左に、それらしき木造3階建ての建築物が、趣のある風情匂わせていた。 手前の建物の玄関横に、K’s Houseの看板が見える。 そして玄関で、女性が何か作業をしていた。 どうやら旅館として、現役のようである。 建物は国の登録有形文化財で、お客様の多くは外国人であるとのこと。 そしてK’s Houseの前を通り、東海館の前にたどり着いた。 松川河畔のこのあたり一帯は、大正末期から昭和初期にかけて、大変な賑わいであった。 毎日、芸者をあげた遊興三昧、大宴会が催されていた。 その名残を今に伝える東海館は、地元材木商・稲葉安太郎が、昭和3年(1928)に創業し、そののち幾多の増改築を繰り返した。 だが平成9年(1997)に、69年の長きにわたる、旅館の歴史に幕を下ろした。 そののち、旅館の所有者から、伊東市へ寄贈され、貴重な歴史的建造物として、一般公開された。 そして現在、東海館は、伊東市指定文化財 に指定され、優美な姿を、松川河畔に映している。 唐破風の玄関天井の下には、森田東光による、見後な彫刻が異彩を放つ。 朝日と鶴が透かし彫りになり、その後方の波型の蟇股に、鯉が滝登りをする姿が、優麗に刻まれている。 玄関から中を望むと、座敷に雛飾りがしてあった。 今回は館内見物は諦め、これからホテルへチェックインすることにした。 先ほど散策した、キネマ通りを少し行き、左手へ曲がり、ホテルへ向かう。 すると、大きな映画の看板絵が飾ってあった。 それは古き良き時代、まさに大船撮影所のキネマ全盛の時代の、看板絵であった。 どうやらここに、かつて映画館が、あったのかもしれな。 建物は廃墟のようであったが、切符売り場のような場所に、かつての面影を見たようである。 ここがキネマ通り発祥の地なのだろうか。 私が子供の時に観た、懐かしい銀幕のスターの顔が、丹念に描かれていた。 描かれた懐かしい顔を見た瞬間、時間が一瞬止まり、タイムスリップするようであった。 |