暗い時代の証人、中野刑務所が、消滅の危機!
2017年9月17日

かつての中野刑務所の正門が、消滅するらしい。
司法省技士後藤慶二が設計し、1915年に完成した、大正時代の歴史的な正門である。
1983年に中野刑務所は廃止。

正門は近くの法務省矯正研修所東京支所に、保存されていた。
しかし、研修所が昭島市へ移転し、研修所の跡地に、区立小学校の移転新築計画が浮上した。
そしてレンガ造りの歴史的建造物が、取り壊されることになりそうなのだ。

この正門は、関東大震災にも、耐えて生き残ったが、獄舎は倒壊した。
その2年後に治安維持法が制定。
獄舎はコンクリート造りで再建、政治犯の予防拘禁所に指定される。

その後この刑務所で、アナキストで作家の大杉榮(1885年-1923年)をはじめ、
『蟹工船』のプロレタリア作家・小林多喜二(1903年-1933年)が、拷問の末虐殺された。
さらに哲学者・三木清(1897年-1945年)が獄死し、文学者・中野重治(1902年-1979年)らも服役。

小説家・埴谷 雄高(1909年-1997年)や、マルクス経済学者の河上肇(1879年-1946年)が収監された。
私もこの刑務所には、思い出がある。
私が⒛歳くらいのころ、この刑務所に通った経験がある。

もちろん私が犯罪者で、収監されたのではない。
その頃、中野刑務所は、西武新宿線の沼袋駅から中野駅まで、2mくらいの高い塀で囲まれていた。
ちょうど現在の中野ブロードウェイと、道路を挟んだ反対側に、外界と遮断された、砦のような壁が連なっていた。

刑務所の正面玄関は、中野駅に向かって、ひっそりと建っていた。
当時私はクラブの機関紙やら、仲間たちと同人誌のようなものを発行していた。
そしてあるとき、安い印刷所を、私の大学の先輩に教えられた。

それが中野刑務所矯正課の印刷部門であり、その後何度も通ったのである。
雑誌はガリ版刷りで、町の印刷屋の4割くらいの値段で、出来上がった。
それは刑務所の矯正課で行う、囚人たちの職業訓練の一環であった。

刑務所の正面扉横で、門番の許可をもらい、閑散とした広場へでる。
その正面に赤レンガ造りの正門があった。
その左横の別棟に、職員用の狭い通用口があり、入ると左手に、囚人が作ったとおぼしき靴が、展示販売されていた。

人気ない廊下を、靴音を響かせながら行くと、右手に教官室があった。
アポイントを取っている教官に会い、原稿を手渡す。
そのとき、教官は「刺激的な表現はありませんね」と、必ず訊いたことを思い出す。

それ以来、刑務所で印刷された雑誌を、何冊か発行した。
原稿を届けたり、刷り上がった雑誌を手に持ちながら広場を歩く。
道すがら、収監されている人へ、差し入れるものを、小脇に抱えた女性を、何度も見かけた。

それは一様に女性で、地味な服装に身を包み、心持下向きで、足早に歩いていたように記憶する。
その後、また雑誌を発行するので、中野刑務所に連絡すると、印刷部門は、閉鎖されていた。
担当の教務官が転勤し、担当者が赴任していないとのことだった。

近代建築史に残る、大正期日本のモダニズム建築の代表的な作品が、地上から消えようとしている。
特定秘密保護法や共謀罪(テロ等準備罪)が成立し、まさに時代は、戦前の悪夢を再現する危険な状況。
治安維持法により、思想犯を弾圧し、圧殺した歴史を繰り返させないためにも、この建築物は残さなければならないであろう。
近代建築の遺構としてはもちろん、暗い過去の歴史の証人として、永遠に記憶され、保存されなければならない。