浅草寺奥山、秩父子供歌舞伎を観に
2017年3月24日

快晴の一日、浅草へ久し振りに出かけた。
浅草は私には、なじみが深い。
上野広小路で料理屋の支配人をしていた頃、取引先や商売つながりで、度々訪れた。
 
今日は浅草奥山で公演される、秩父「正和会」子供歌舞伎を見に来た。
都営駐車場に車を置き、雷門へ向かう。
雷門の前は、観光客で溢れていた。
 
雷門のスクランブル交差点で、ホヤホヤの新郎新婦が、記念写真を撮っていた。
狭い仲見世は観光客が、肩を寄せ合うように浅草寺へ進む。
毎年、浅草を訪れるたびに、西洋の外国人観光客が、増えているようだ。
 
ひと昔前は、韓国や中国人などの、アジア人が圧倒的に多かった。
そ宝蔵門を潜り、参道を進むと、浅草寺の本堂に出た。
石段を上り、拝殿の前でお賽銭を添え、手を合わせる。
  
お詣りを済ませ、境内奥右手にある、昔から興行で賑う奥山にある、会場へ向かった。
するとお練りを終えた、子供歌舞伎の面々が、場内へ入って来た。
毎年の公演のせいなのか、出演者に笑顔が見える。
  
これから舞台の袖で、3時30分開演の出を待つ。
その時、舞台の前の、大勢の観客を見て、きっと緊張するであろう。
舞台ではすでに、三味線の音が、場内に響き始めた。
やがて主宰の「浅草おかみさん会」の女性が、マイクで挨拶と簡単な説明を始めた。
舞台の前には、たくさんの観客が、開演を遅しと待っていた。
秩父から孫たちの晴れ舞台を観に来た、親戚の人たちと、記念写真をパチリ!
会場には様々な国の人たちが、これから始まる子供歌舞伎を、楽しそうに待っている。
やがて舞台に、拍子木の柝の、乾いた音が響く。
そして舞台袖に、裃姿の凛々しい姿の子供が登場した。
  
おもむろに舞台中央に進み、一段高い挨拶台に上がり、背筋を正し大きな声で、口上を語り始めた。
私たちがいつも、秩父でお世話になる、親戚のお孫さんが、晴れ舞台でひと際輝いている。
秩父地方の特徴など、わかりやすくユーモアと、愛嬌を持って話し、会場の笑いを誘う。
 
口上を終え、舞台の花道から、舞台の袖に消える。
そしていよいよ河竹黙阿弥作『白浪五人男・稲瀬川勢揃いの場』は動き始めた。
それは文久2年3月(1862年3月)に、江戸市村座で初演された歌舞伎の演目であり、河竹黙阿弥の代表作である。
 
舞台袖から、乞食姿に変装した、捕り手が4人登場した。
そのあと次々と、志ら浪の墨痕も鮮やかな、番傘を片手に、「白波五人男」が花道から、舞台へ登場する。
囃子方に誘われながら、まずは日本駄右衛門(にっぽんだえもん)が登場。
番傘を左手に「 問われて名乗るもおこがましいが……」の、有名な口上が語られる。
そして次々に、お馴染の「渡り台詞」で見得を切り、志ら浪と染め抜かれた番傘を片手に、男伊達が登場する。
弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)忠信利平(ただのぶりへい)赤星十三郎(あかぼしじゅうざぶろう)が次々に登場。
 
最後に南郷力丸(なんごうりきまる)の台詞、「 さてどん尻に控えしは、汐風荒き小動の……」で、五人衆の揃い踏みである。
さらに「連ね」の七五調の台詞が、会場に響く。
その時下手に、黒装束に襷掛けの捕り手が、右手に十手を持って現れた。
 
白波五人男と、捕り手の立ち回りのクライマックスのうちに、舞台は終わった。
会場から、温かく盛大な拍手が送られた。
浅草の奥山での、1日限りの2回公演も、無事に終わり、子供たちに、安堵の表情が浮かぶ。
 
戦前の苦難な時代を乗り越え、戦後1947年に、秩父歌舞伎を愛する有志たちにより結成された「正和会」。
年々歳々、成長を遂げているようだ。
これからも、さらに地域に根差した、伝統歌舞伎が、子供たちに伝承されてゆくだろう。
 
そして最後に、出演者全員に、マイクが渡る。
順番にマイクを持ち、あどけないコメント場内に流れた。
小学生6年生は、今日の公演が最後になる。
 
忘れることのない、印象的な思い出となるであろう。
秩父歌舞伎の伝統を、これからも支え継承する存在に、成長してゆくのが楽しみである。
若い人たちが、伝統芸能を守り育てることにより、地方文化は豊穣になる。