今年も秩父でお正月かな!
2017年01月1-3日

今年も秩父で新年過ごした。
午後に家を出て、299号をのんびりと下り、秩父郡小鹿野町に着いたときは、すでに陽が落ちていた。
小鹿野町長留の山々が、微かな残光に輝いていた。
 
翌日の2日、2キロほど離れたところにある、宗吾神社に、午後2時ころ出かけた。
去年、友達が出演した『秩父困民党1884年』で、長留の宗吾神社の科白を聞いた。
そこで、宗吾神社が気になり、親戚の子供と私たち家族で、出かけたのである。
 
正月2日、地元で宗吾様さまと、慕われる宗吾神社に、人影はなかった。
長閑な里に、茅葺の舞殿が、ひっそりと佇んでいた。
境内の隅に案内板がたち、宗吾神社は、諏訪神社と共に、羽黒神社に合祀されたと記されていた。
 
この舞殿で長留仲組の氏子が、秋祭りの時、江戸時代から伝わる、獅子舞を奉納するようだ。
宗吾神社は、『佐倉義民伝』の芝居でも有名な、上総の佐倉惣五郎(通称宗吾・本名木内惣五郎)を祀る。
江戸時代前期の17世紀中頃、下総佐倉藩で名主佐倉惣五郎は、領主堀田氏の重税にあえぐ農民のために、将軍に窮状を直訴した。
 
その結果、領民の重税は軽減し、領主の堀田氏は改易された。
しかし、直訴という違法な直接行動は、一揆とみなされ、妻子とともに惣五郎は、処刑されたと伝わる。
やがて事件は、歌舞伎や人形浄瑠璃で上演され、佐倉宗吾信仰として、日本全国に広がった。
  
この社もその1つで、秩父困民党と、内在するものが通底する。
宗吾神社の参道を登る人もなく、急峻な階段が前方に見える。
しめ縄に垂れた、真っ白な紙垂の下を潜り、大きな石段を踏みしめながら登る。

 
私が最初に宗吾神社に参拝してから、すでに30年以上経っているだろうか。
これほどに、険しい階段とは、記憶にない。
見上げても、神社の姿は見えず、やがて彼方に社の姿が顔を出した。
  
石段は途切れ、木の古根のような、階段に変わると、神社の姿の全容が見渡せた。
だがここからが胸突き八丁、一歩一歩踏みしめながら登りきる。
思いのほか手ごわい参道である。
  
山形県の羽黒神社に由来する社は、かつては修験道の道なのかもしれない。
境内は静寂に包まれ、森閑としていた。
本堂の中に、お賽銭を供え、皆で手を合わせる。
 
社の裏山の林に陽が落ち、木々に深い陰翳を与えていた。
杉木立に木漏れ日が落ち、冬枯れに情趣を添えている。
そして社の前で、記念撮影をした。
 
そのあとは下りの階段。
子供たちは、軽い足取りで階段をするすると下る。
ママはおっかなびっくり、足取り重く、注意しながら降りて行く。
  
無事に全員、参道の階段を下りきる。
右手を見れば、南天の実が、昼下がりの陽光に、朱色が燃えていた。
すると遠くで、山羊の鳴き声がした。
 
その声に誘われてゆくと、2匹の山羊が草を食んでいた。
長閑な山里に、山羊は似合う。
遠く彼方を眺めると、小鹿野の山並みが、朧に霞んでいた。
  
そして姪っ子の息子と、私たちは秩父市内へ繰り出した。
やがて秩父の象徴、武甲山の雄姿が、姿を現した。
碧空に荘厳な姿が、神々しく照り輝く。
  
ほどなくして、秩父神社に到着した。
さすがに正月2日、大きな石鳥居から、続く参道の両脇に、屋台が並ぶ。
昔ながらの縁日に、付き物の屋台は、祭りのハレを醸し出す。
  
参道の石畳を進み、神門を潜ると、拝殿前に参拝人の、列ができていた。
列の後方に並び、暫くすると、参拝することができた。
お賽銭を添え、今年も皆が安寧無事であることを祈り、手を合わせる。
  
拝殿の右手欄干の擬宝珠の奥に、秩父蒸留所の樽が、漆黒に輝いていた。
世界が注目するイチローズモルトは、眩い光を放っている。
そして社務所に行き、破魔矢をいただく。
 
そのあと、姪っ子の息子と一緒に、お御籤を引く。
すると2人とも、なんと驚くなかれ大吉である。
占いの文面を読み、おみくじ結び所、にしっかりと結んだ。

すでに時刻は午後4時、今年は姪っ子の夫たちが演ずる、獅子舞を見ずに、小鹿野へ帰ることにした。
翌日、東京への帰り道、秩父市内へ立ち寄る。
昨日一緒に秩父神社にお参りした姪っ子の息子が、本町達磨会が演奏する、秩父太鼓を観ることにした。

開演は午後2時だが、ショッピングセンターの駐車場に着いたときは、2時を少し過ぎていた。
すでに秩父太鼓が、雄渾に轟いていた。
秩父太鼓に誘われ広場に行くと、秩父市本町達磨会の若衆が、祭り姿で演奏していた。
 
秩父太鼓は何時聴いても、躍動的で勇壮だ。
まさに武甲山の雄大さと、秩父に織りなされた、深い歴史と調和する調べである。
若衆の演奏集団の中に、たった1人、小学生の親戚の子が、真剣に小太鼓を叩いている。
 
その後ろに秩父太鼓の名手である、お父さんが見守り、やがて2人は共演した。
秩父に続く夜祭と秩父太鼓は、父子相伝で継承される。
それが秩父伝統芸能を、豊かに後世へ伝承するのである。
 
やがて秩父太鼓の演奏は終わった。
私たちは新年の挨拶を、親戚にして秩父を後にした。
秩父の正月3日は終わり、武甲山に別れを告げ、国道299号を東京へ向かった。