伊豆下田&石廊崎へ、初冬の旅
2016年12月11日ー12日

伊豆へ旅するのは、2010年の松崎以来であろうか。
今まで西伊豆や東伊豆の宿に、10回くらいお世話になっているだろう。
今回は伊豆の最南端の石廊崎から、下田、そして爪木崎を訪れる。

幸い天気は行楽日和、沼津から国道136号を南下し、土肥から松崎を抜ける。
そして以前訪れた、波勝崎を経由し、石廊崎に午後1時ころに到着した。
石廊崎を訪れるの、何回目であろうか?

最初に訪ねたのは、中学時代の夏の臨海学園が最初だったと記憶する。
それ以来何回か石廊崎を訪れるが、今回は何年ぶりであろうか?
初冬の駐車場は、人気なく閑散とし、ほとんど人影がなかった。

車を停め石廊崎へ向かう。
以前に訪れたときより、石廊崎はどこか、寂びれた風情が漂う。
左手に入江が広がり、鏡のように穏やかで、漁船が浜に係留されていた。

なだらかな坂道を上ると、左手に楚々と水仙が咲いていた。
年平均気温が約17℃と、温暖な気候の地は、水仙の季節が早く来る。
樹影を移す灰色の石畳を行くと、遠くに蒼穹を背に、石廊崎灯台が見える。

さらに行くと、石室神社と彫られた、鳥居が迎えてくれた。
鳥居の中央に、石造りの扁額をいただき、両側を獅子が、睨みを利かしながら構えていた。
鳥居をくぐり進むと、白亜の石廊崎灯台の前に出た。

入り口は閉ざされ、灯台は思いのほか、小ぶりであった。
ここからは下りの石畳となり、坂道は狭くなる。
やがて遠くに、紺碧の海が広がり、昼下がりの陽光に煌めいていた。

初冬の爽やかな、陽光を浴びながら、石畳を下りてゆくと、急峻な石段が待ち構えていた。
石段を下ると、木造の石室神社が、海岸に突き出た岩窟上に、へばりつくように建っている。
石廊崎権現とも呼ばれ、祭神・伊波例命(いわれのみこと)を祀り、延喜式の神名帳に登録される、由緒ある式内神社である。

神社の左手に社務所があり、右手の奥に拝殿があった。
大鈴を鳴らし、お賽銭を供え、無事にここまで辿り着いたことへ感謝する。
そして静岡県伊豆半島最先端へ、ひと際狭い通路を進む。

岬の前方に、洋々と海原が広がっている。
そして岬の切っ先から、遥か見渡すと、紺碧の海が、きらきらと輝いていた。
西に広がる太平洋の相模灘、東はフィリピン海の遠州灘が、陽光に照らされている。

見下ろせば断崖絶壁。
黒潮に現れた絶景は、荒々しく勇壮な景色を映し出す。
するとその紺碧の海を、愛くるしい遊覧船が泳いでゆく。

さらに彼方の岸壁を見ると、岩礁に釣り人の姿が見える。
さぞや大きな獲物が、釣り上がるがることであろう。
それにしても、危険な環境で釣りとは、釣り人は勇敢である。

麗らかな初冬の海、煌めく洋上を船が進む。
空にたくさんのトビが、、ヒュルヒュルと鳴きながら、大きく旋回している。
そして石廊崎を後にして、来た道を戻る。

遠くの小高い山に、風力発電の白い塔が、陽光に照らされながら、優雅に大きな羽を旋回させている。
下りの石畳の路傍に、黄色い小菊が可憐に咲く。
そして木々の梢に、今にも枯れ落ちそうな、赤さびた枯れ葉が、微風にそよいでいる。

遥か彼方、岩場と海と空が、昼下がりの陽光に、美しいハーモニーを奏でていた。
やがて石廊崎散策は終わり、石廊崎遊覧船乗り場の前にたどり着く。
遊覧船乗り場に人気なく、閑散とし寂しげであった。
 
翌日、朝6時頃に目を覚ますと、ホテル4階の窓外は、海の朝焼けが広がっていた。
朝風呂を浴び、食事の後、11時にチェックアウトし、爪木崎に向かった。
下田市街に人影もなく、どこか寂しげな佇まいであった。

市街地を抜け、15分ほどで爪木崎に到着した。
駐車場の入り口で、500円の代金を払い駐車する。
そしてなだらかな坂を下ると、爪木崎の海岸が広がり、遠くに白亜の灯台が見渡せる

須崎半島の東南端の岬に、灯台は建ち、岬から壮大な柱状節理が、見られるようだ。
爪木崎と記された門柱を潜ると、なだらかな丘に、野水仙がまばらに咲いていた。
水仙が本格的に咲くのは、12月下旬から2月上旬くらいまで。
その期間に、「水仙まつり」が、毎年開催される。

年が明けると、丘一面に300万本の野水仙が、可憐に咲き匂う。
だがその時期を待ちきれない人たちが、あちらこちらで散策している。
きっと満開の季節は、見物客で溢れ、野水仙の純白で染まる。

そして優美に咲く、野水仙の甘美な匂いが、あたりに漂うことであろう。
風もなく穏やかな陽射しを愉しみ、写真を撮りながら散策する。
満開の季節には、好きな場所で、好きな時に、写真を撮影などできない。

シーズン前の散策は、自由気ままで、捨てたものでない。
遠く海岸を眺めると、常緑樹に包まれた岩場があり、広がる海は陽光に反射して眩い。
彼方に伊豆の山並みが、陽光に煙り、蜃気楼のような姿を見せる。

そしてあちらこちらに、アロエが群生し、南国の風情を醸している。
アロエと南伊豆の縁は、遠く7世紀に遡る。
文武天皇3年(699年)の昔、修験道の開祖と言われる、役の行者(えんのぎょうじゃ634年?-701年?)は、文武天皇の命令で伊豆に流された。
 
役の行者は呪術者として神通力を持ち、時の権力に反抗し、秩序を紊乱したと、密告されたことに始まる。
そして伊豆に島流しの運命に晒された。
しかし配流の身でありながら、役の行者は修験道の、修業を続けていた。

やがて、このあたり一帯に、天災が襲い、海は不漁が続き、作物は枯れ果てた。
人々は飢えに苦しみ、社会は荒廃し、村々に疫病が蔓延した。
その時、石室権現で神霊の加護を求め、祈り続ける役の行者の夢殿に、十一面観世音が現れ、1枚の薬草を行者に授けたという。

その葉を求め、伊豆の山野を探索し続け、見つけ出した。
そしてそれを病人に与えると、病はたちまちに快癒したといわれる。
それが現在まで伝えられる、医者不要と別名を持つアロへの葉である。

それ以来、この地にアロエが群生するようになったという。
南伊豆は平均気温が、1年を通して温暖で、滅多に雪が降ることもなく、アロエの生息に最適であった。
海岸線にはたくさんのキダチアロエが、燦々と降り注ぐ、太陽の恵みを受けながら繁茂していた。