高校時代の同級生・近藤明男監督 今日が試写会の最終日。 会場の映画美学校試写室に着いたのは、開演30分前の3時だった。 階段を下りて地下にある会場で、受付をしていると、私を呼ぶ声がする。 振り向くと近藤監督が、にっこりと笑って、椅子に座っていた。 近づくと彼は立ち上がり、本日の映画のプロデューサー・永井正雄さんを紹介してくれた。 彼は私の大学時代の2年先輩で、共通の知り合いの話題で、会話が弾んだ。 永井さんは『のぼうの城』『スパイ・ゾルゲ』のプロデュサーでもった。 すると野坂公夫さん夫妻がやってきた。 奥さんとは初めてで、野坂さんとは8年ぶりくらいであろうか。 彼は日本モダンバレー界の大御所で、奥さんの坂本信子さんと、ダンスワークスを主宰し、国内や海外で公演を行っている。 高校3年の同級生3人で話していると、40年の過ぎ去った歳月が、フラッシュバックするようである。 やがて開演時間の3時半がやってきた。 試写室に入り席に着くと、スクリーンに映像が流れ始める。 山極勝三郎(1863年 -1930年)の幼少時代、上田城下の風景が映し出される。 上田藩士山本家の三男として育つが、江戸から明治の激動期、廃藩置県により、父は藩士の職を失う。 やがてかつて上田藩のご典医・山極吉哉のもとに、養子に出される。 誇り高い山極吉哉は、町医者となるが、かつての職を忘れらず、酒浸りの日々。 貧しい生活の中、勝三郎を自分の後継者にするため、東京大学医学部へ入学させた。 しかし勝三郎は、病理学に興味を持ち、医者になるか、研究者になるか煩悶する。 そして苦悩しながら出した結論は、病理学の研究であった。 やがて東京大学を首席で卒業後、ドイツに留学し、3年後に帰国。 そして東京帝大医学部教授に就任し、病理学者として、人工癌研究を開始する。 当時、癌の発生原因は解明されておらず、「刺激説」や「素因説」などが、発表されていた。 山極は煙突掃除人に、皮膚癌が多いというデータに注目。 そこで「刺激説」を採用し、ウサギの耳に、コールタールを塗擦する実験を、助手の市川厚一と開始した。 それは3年の長きにわたる、苦難な実験の始まりであり、失敗と絶望の連続であった。 結核を患いながら、実験の単調で苦悩に満ちた反復は、まさに山極博士の命を削る作業であった。 だがそこには、彼を支える家族の愛があり、助手たちとの深い人間的な絆があった。 さらに実験のモデルとなる、無数のウサギたちの、尊い命の犠牲のもとに遂行されていた。 人口癌を作ることにより、癌の発生の謎を解明することで、癌患者を救うことができる。 その硬い信念は、崩れることがなかった。 そしてついに、1915年に人口癌の発生に成功する。 その後、彼の研究成果は、度々、ノーベル賞候補になるが、賞獲得の栄誉を得ることはできなかった。 同時期、寄生虫による人工癌発生に成功した、デンマークのヨハネス・フィビゲルが、ノーベル生理学・医学賞に輝いた。 しかしその説は後に否定され、山極博士の業績が再評価された。 研究者として人生を全うし、癌治療のために、生涯をささげた博士は、1930年に肺炎で鬼籍に入る。 多くの人に支えられながら生きた博士の姿を、時にはユーモラスに、そしてコミカルに描きながら、映画はその豊かな人柄を映し出す。 そこには癌患者を救うという、深い情熱と使命に溢れる、博士の人間性が表現され、それは人間愛の賛歌でもあった。 |