劇団昴公演『ヴェニスの商人』観劇記 作=W・シェイクスピア訳=福田恆存 演出=鵜山仁 2016年4月29日 3月に劇団昴が、私の店の近くに引っ越してきた。 劇団の金尾哲夫さんに、チケットを予約してもらい、29日の追加公演に出かけた。 午後1時40分頃、劇場へ入る。 昔、清水邦夫主宰の演劇企画グループ「木冬社」の観劇以来だから、この劇場に入るのも久し振りである。 劇場の自由席に座り、2時の開演を待つ。 やがて席は埋まり始め、圧倒的に若い観客が多くて嬉しくなる。 6m×4.5mあまりの舞台は、4分の1円形の裸舞台で、シェークスピア特有のエプロンステージを示している。 舞台上は、ヴェニスの海をイメージする、紺青の薄明かりに照らされている。 館内には、海辺に漂うゴンドラから流れ来る、セレナーデのような音が、静かに流れる。 舞台を取り巻く階段状の客席が、観客で埋まるころに開演した。 そして不安と不条理を増幅するかのような音楽が流れ、ドラマが動き始めた。 やがてヴェニスの商人アントーニオーと、バサーニオーが登場する。 2人は無二の親友である。 バサーニオーには、恋い焦がれる、名門の娘・ポーシャがいる。 ポーシャのもとに世界中から、金持ちで地位のある求婚者が現れる。 バサーニオーはポーシャに求婚したいが、窮迫して金がなく、商船を何隻も持つアントーニオーに借金を頼む。 だがアントーニオーも、船がヴェニスに寄港しなければ、手元にまとまった金がない。 仕方なく商売敵で、ユダヤ人のシャイロックに、借金を申し出る。 シャイロックは3000ダカットを、アントーニオーに、無利子で貸す変わりに、証文をアントーニオーに書かせる。 それは、返済の期限に間に合わなければ、アントーニオーの心臓に近い肉を、1ポンド丁度切り取ることを明記していた。 バサーニオーはアントーニオーから借りた3000ダカットを持ち、ポーシャの住む屋敷へ行く。 金、銀、鉛の3つの箱から、ポーシャを娶ることのできる、運命の箱を1つ選ばされる。 そしてバサーニオーは、きっぱりとポーシャの姿が描かれた絵の入った、鉛の箱を選んだ。 運命の女神は微笑み、若き2人はめでたく、結婚することになる。 ところがアンートニオーが所有する、財貨が満載する商船が難破した。 アントーニオーは、シャイロックから借りた金を、期日までに返済できなくなった。 シャイロックは法廷に訴え、証文通り、商売敵の憎きキリスト教徒アントーニオーから、1ポンドの肉塊を頂戴すると主張する。 ここからドラマは鋭く動き始めた。 そしてキリスト教徒のヴェニス公が、裁判を取り仕切ることとなった そしてここから、法廷劇が展開する。 シェークスピアの科白には、修辞豊かな表現が多い。 その表現は、照明もないは旅籠の内庭で、上演されたことを思えば、当然のことである。 芝居の情景や登場人物の感情を、すべて言葉により、表現しなければならない。 そのために装飾的な科白が、必要不可欠に語られる。 さらに観客に心地よく響き、理解しやすいように、ブランクバースという韻を踏む。 その詩を語るために、シェークスピア俳優は、 デクラメーション(朗誦術)、エロキューション(抑揚術)、そしてアーティキレーション(滑舌術)が必要不可欠とされる。 そしてさらに、映画のクローズアップのような、独白や傍白が語られる。 今回の芝居も、傍白の処理が小気味よく、現代風にアレンジされた科白が、リズムよく放たれる。 演出処理により、テンポよく進むドラマは、簡潔に展開してゆく。 若い俊才の裁判官として、法服をまとい男に扮したポーシャが、同じく裁判官の法服に身を包む侍女と、法廷に登場する。 ここがシェークスピアの面白いところである。 16世紀、イングランドに女優は存在しなかった。 女性の役は若い魅力的な男優が演じていた。 かつて出雲のお国に起源をもつ、日本の歌舞伎も、女性だけでは風紀を乱すということから、若衆が女役を演じることを強制された。 時も同じくして、イングランドでも、女優が禁止されていたのは、演劇の根底に通底しているものなのであろう。 その若い男優が演じるポーシャが、扮装して男の役を演じる時、観客はその倒錯した、性的魅力に驚喜したであろう。 その男装したポーシャが、法の正義と公正のもとに、シャイロックの訴えを裁く。 キリスト教徒の慈悲の心を持たない、シャイロックに対するその答えは、肉は1ポンド切り取ってもよい。 だが証文に記載されてない、キリスト教徒の血は、一滴も流してはならないと伝えた。 それは正不可能な難題である。 シャイロックは妥協し、元金だけでも戻るように懇願するが、事態はすでに遅かった。 キリスト教徒に危害を加えようとしたものは、その報いを法的に受けなければならない。 シャイロックはすべてを失い、キリスト教徒の軍門に下った。 キリスト教において、利息を取ることは罪悪である。 だが社会から疎外され差別される、ユダヤ人が生きるすべは、キリスト教徒が決して触れることのない、キリスト教徒にとって穢れた職業を生きるしかない。 イングランドで力を持ち始めた、ユダヤ人を揶揄嘲弄し、断末魔を迎えさせることに、当時の観客は喝采したであろう。 時代に敏感なシェークスピアも、そのことは意識していたはずである。 シェークスピアは、ユダヤ人シャイロックのあくなき金への執着と、キリスト教徒への復讐の邪心を克明に描く。 だが描けば描くほどに、シャイロックの存在は大きくなり、差別される側の人間像が、滑稽ではなく悲劇的な色彩を帯びてくる。 かつて演劇評論家のマーティン・エスリンが、『ブレヒト政治的詩人の背理 』(1963年)で書いている。 ブレヒトはアリストテレス以来の、カタルシス(感情移入と感情浄化)を否定して、アライアンネーション(異化効果)を理論化した。 つまり観客は、舞台で展開されるドラマに感動し、涙することは避けなくてはならない。 観客は進行する劇的事件の、冷静な目撃者であり証人である。 そのために展開するドラマを、理知的で批判的に見ていなければならない。 だがブレヒトの傑作は、ドラマのクライマックスに、観客は舞台に魅了され涙する。 それは才能ある作家は、自己の理論を作品が凌駕し、否定する矛盾を孕んでいることを証明する。。 シェークスピアが、社会から疎外された、悪徳に満ちたユダヤ人シャイロックを、鮮明に描くほどに、シャイロックの悲劇性が濃密に描かれる。 否定的な存在のシャイロックの人間的苦悩が浮かび上がり、権力を支配するキリスト教徒の愚かさが、戯画化されて暴かれることになる。 否定すべき存在を陰翳深く描くことが、その人物の人間の存在の悲劇を刻むことになる。 その矛盾がシェークスピアの天才である由縁であろう。 タイトルロールのヴェニスの商人・アントーニオーは、キリスト教徒たちの中心に位置し、芝居は大団円で終わった。 だがその姿は何処か空虚で存在が薄い。 ひさしぶりに観るシェークスピアに、改めて様々なシェークスピア劇の面白さを発見した。 休憩を挟む約3時間の観劇、小劇場・昴ピットは、有機的で躍動的であった。 そして板橋区大山東町に、小劇場・昴ピットが誕生し、演劇文化が醸成される予感がする。 Pit 昴(サイスタジオ大山第一) 板橋区大山東19-1 ラ・アクシオン地下 tel.03-5375-1118 |