板橋区の有名人、今昔
2016年04月25日

お客様と話していたら、板橋区大山近辺の芸能人話になった。
すると、そのお客様は、酒井和歌子と板橋3中で、同級生だったのだ。
酒井和歌子と言えば、私の若い頃、加山雄三主演の東宝映画「若大将シリーズ」のマドンナ役で有名だった。

それで私は理解した。
かつて、酒井和歌子が、私の店のすぐ近くのマンションに、住んでいたという事を。
すると、そのお客様は、歌手の布施明とも、豊島実業高校(現豊島学院高等学校)の同窓生で、布施明が学年で2年上だったそうだ。
かつて、布施明は「シクラメンのかほり」で、第17回日本レコード大賞を受賞した。

さらに、1980年、ハリウッド女優、オリヴィア・ハッセーと結婚し、後に離婚したことでも有名である。
私の店のある、大山東町近くの熊野町に、豊島実業高校はある。
だが、布施明はほとんど、登校しなかったという。

思い出せば、私の店が開店した当時、元祖ものまね四天王の一人、佐々木つとむが大山あたりに住んでいた。
そして、大山界隈のパチンコ屋や、ゲームセンターに出没していた。
私の店の前にあった、ゲームセンターにも、度々来店していたが、1987年、高島平で悲惨な結末となった。

そのころ幼かった息子が成人し、私の店に来店した。
そして時々、物まねをして、お客様を笑わせていた。
だが母親は、息子が芸人になることを嫌い、ガラス職人になっていたことを思い出す。

熊野町には、つい最近まで、マジシャンのマギー司郎も住んでいた。
その隣の大山金井町にある板橋第七小学校に、博学多識、博覧強記、現代の南方熊楠と、私が尊敬する荒俣宏が入学している。
ご実家は当時、板橋区金井窪(現在は金井町)で、瀬戸物とタバコを販売する、「みどり屋」を営んでいたという。

さらに直木賞作家の山田詠美も、板橋区中丸町出身で、小学生時代を過ごしたそうだ。
我が町大山東町には、腹話術のいっこく堂が住んでいる。
彼がまだ玉城一石という、劇団民芸の役者の頃、私の店に来店している。

また前野町には、落語会最高顧問・5代目鈴々舎場風師匠が住み、私の店にも一門の噺家さんが来店してくれた。
さらに落語界の大御所、柳家権太郎師匠も氷川町に住み、一門と師匠の家族で、昔から度々来店していただいている。
板橋区には昔から、5代目春風亭小朝の師匠・春風亭柳朝をはじめ、多くの噺家さんたちが、住んでいた。

そんな話をしていたら、他のお客様が、区立上板橋第2中出身で、元レーサーの鈴木亜久里が、中学の先輩だと言った。
私の店のお客様で、都立板橋高校卒業の人も多い。
卒業生には、古谷一行(俳優)、村野武範(俳優がおり)、吉本ばなな(作家)は同級生だと言っていた。

さらに、最近は柴咲コウが中退している。
柴咲コウは千川中学のバレー部出身。
私のお店のお客様はバレー部の先輩で、中学生の柴咲コウを教えたそうだ。
都立板橋高校卒業の永井豪は、母校をモデルにして、『ハレンチ学園』を描いている。

大山には「ハッピーロード」というアーケード付きの、長く賑やかな商店街がある。
そのマスコットキャラクター「みらいくんとゆめこちゃん」の名付け親が、
元日本一有名なホストで、現在はタレントで俳優の城咲仁。

彼の実家も大山にあり、現在も両親がラーメン店「丸鶴」を開いている。
その商店街の裏手に、お茶の水女子大の大山寮があり、
女子大生の柴門ふみ(漫画家)が寄宿しながら、弘兼憲史のアシスタントとして働いていた。

その後、漫画家として、『P.S.元気です、俊平』でデビュー。
そこには、ハッピーロード商店街や、大山駅も登場する。
後の夫、弘兼憲史も、大阪の会社を辞めて、最初に住んだのが、板橋区下赤塚あたりだと聞いたことがある。

下赤塚には、消しゴム版画家で、辛口コラムニストだった、ナンシー関が住んでいた。
近くの文房具屋・三光堂で、ステッドラー社製38×76ミリサイズの消しゴムを購入していた。
当時、ステッドラーの消しゴムは珍しく、特別に箱単位で、店頭に置いていたそうだ。

さらに、かつて、劇団「東京乾電池」も、中丸町にあったと、お客様に教えてもらった。
その隣の大谷口は、歌手の故ヒデとロザンナのヒデ、こと出門英の実家がある。
その隣のマンションに住む、私のお店のお客様が、よくロザンナと娘さんを見かけたと言っていた。

私が若い頃、ヒデとそっくりだったので、色々と良い思いをさせてもらった思い出も懐かしい。
飲みに行けば、知らない人が奢ってくれたり、女の子がアルバイト先に、お土産を持って来たのを思い出す。
さらに、かつて、ボクシングのWBAスーパーフライ級の世界チャンピオンだった鬼塚勝也も、東京で最初に住んだのが大谷口だったと。

そこから、新宿にある協栄ジムまで、走って通ったと、度々来店していた、鬼塚勝也から聞いた。
さらに、元WBA世界ミドル級王者の竹原 慎二も住み、通った沖ジムは常盤台にあった。
竹原 慎二が店に来た頃は、世界タイトル防衛に失敗した後だった。

その後、私がGMを務める、草野球チームにスカウトした。
その後、テレビ番組「ガチンコファイトクラブ」で大ブレークした。
三原順子は区立志村1中で、お母さんが志村でスナックをやっていた。

個性派俳優の江守徹も、区立志村1中で、都立北園高校を卒業している。
「池袋モンパルナス」を代表する、シュールリアリスムの画家寺田正明の息子、俳優の寺田農は、都立志村高校を卒業。
靉光、麻生三郎、井上長三郎なfど、「池袋モンパルナス」で活躍した、放浪と無頼と酒びたりの、漂泊の画家・長谷川利行も、
三河島の路上で倒れ、1940年5月、栄町にある東京市養育院(現東京都健康長寿医療センター)に収容されている。

だが治療を拒否し、その年の10月12日、享年49歳で死去した。
その時、遺品として、行李の中に残されていた自筆の絵は、すべて養育院の規則により、焼却されたと言われる。
さらに島崎藤村の『新生』の節子のモデルである、島崎こま子(1893年-1978年)も東京市養育院に入院している。

叔父である島崎藤村と関係を結んだ島崎こま子は、島崎藤村と別れたのち、波乱に満ちた人生を送っていた。
貧しい人々のために、私財をなげうち施設を作り、極度の貧困に喘ぎ、肋膜炎にかかる。
その後の1937年3月3日、極度の栄養失調から、新宿の路上で行き倒れ、東京市養育院へ収容された。

その時、作家の林芙美子が、雑誌『婦人公論』の記者として、インタビューのために、養育院を訪れている。
そして当時、日本ペン倶楽部の会長であり、大作家となった島崎藤村に対し、皮肉を込めた文章を書いている。
洋画家の井上長三郎も、小説『池袋モンパルナス』の中で、大山町に住んでいたと書かれていた。

中山美穂は区立板橋5中を卒業後、都立北園高定時制を中退。
1966年、串田和美、斉藤憐らと共に創立した、六本木の「アンダーグラウンド自由劇場」
(後にオンシアター自由劇場と改名)の看板女優、吉田日出子も、都立北園高校を卒業している。

歌手の内藤ヤスコも区立志村3中。
寅さんで有名な渥美清は、柴又でも浅草でもなく、なんと区立志村1小を卒業。
戦前は、志村坂上の工場で働いたという。

古館一郎さんも、小豆沢附近に住んでいると言う。
板橋区仲宿辺りには、今でも「欽どこ」のお母さん役、真屋順子が住んでいる。
さらに、世界的冒険家、故植村直己が出会ったとんかつ屋さんもあった。

現在も蓮根には、「植村直己記念館」がある。
その近くの前野町には、尾崎豊が結婚当時住んでいたらしい。
さらに、私の住む徳丸にある、区立赤塚1中は、元モーニング娘辻希美が卒業。

都立北野高校(現有徳高校)を、お笑いの「小木矢作」が卒業。
実家は東山町にあり、両親が小木商店を経営していた。
私の店にも、高校の同級生と一緒に、小木が来店している。

隣の高島平、スマップの稲垣吾郎が高島幼稚園を卒業し、タレントの山田邦子も、区立高島平2小を卒業している。
女子柔道で、かつて、日本のホープとして活躍した山口香は、都立高島高校を卒業。
とんねるずの石橋 貴明は、父が経営する「石橋化成」が倒産し、移住したのが埼玉と接する成増。

そして板橋区板橋にある、帝京高校野球部で活躍をした。
幸田シャーミン(元ニュースキャスター)も、成増辺りのマンションに住んでいた。
そう言えば、私が店を開店した当初、お客さんが言っていた。

今では、演劇や映画、さらに歌手として、日本の大御所的存在の杉良太郎も、
まだまだ無名の頃、板橋に住んでいたと言っていた。
下駄を履いて、大山界隈を歩き、酒も一緒に飲んで奢ったと、お客様が自慢げに語ってた事を思い出す。

さらに中丸町に、三迫ボクシングジムがあった頃、後の1981年にWBA世界スーパーウェルター級チャンピオンになる三原正が、
当時東京都老人医療センター(現在の健康長寿医療センター)と隣の公園を一周する道路を、ひたむjきに走りこんでいた。
その姿を目撃した人たちは、三原選手を応援したという。

最近はベストセラー作家の誉田哲也が、区立板橋7小を卒業し、実家は板橋区金井町で、材木屋を営んでいると、
かつての小学校の同級生から教えていただいた。
現在も大山金井町辺りで、顔を合わせると、「やあ、哲っちゃん!」と挨拶をするそうだ。

さらに女子プロレスラーのSareeeが、区立大山小学校と、区立板橋2中を卒業している。
大山生まれで、大山育ち、1996年生まれの、若きスターSareeeを、ぜひ、応援してください!
氷川町にある、板橋区立グリーンホールは、現在、女子プロレス界のメッカになっています。

最近のこと、お客様に、歌手・ちあきなおみも、中板橋の出身であることを教えてもらった。
調べてみると、1947年に板橋区で生まれている。
そして区立中根橋小学校2年生の時、神奈川県藤沢市辻堂へ引っ越している。

さらに、日本画壇の大御所だった、平山郁夫画伯も、昭和30年代、中板橋の双葉町に住んでいた。
その頃は大変に貧乏な時代で、6畳一間の長屋に、共同井戸の生活であったらしい。
中板橋の商店街には、とてもお世話になったと、画伯の奥様が語っている

ざっと、拾い書きしたのですけど、板橋にも、たくさんの有名人がいますね。
正確を尽くしましたが、間違っていた場合は、ご容赦のほどを・・・・・・。
誤っていた時は、教えていただけたら、喜んで加筆訂正いたします。
これからも、新しく板橋関係の有名人を発見しましたら、その折に追加していきます。
なお、敬称は略させていただきました。

(板橋の有名人たち今昔 ・2010年03月12日を加筆、更新しました)