桜の開花待つ、浅草寺奥山、秩父子供歌舞伎を見に
2016年3月22日
 
連休明けの火曜日、浅草へ出かけた。
ママの親戚の子供たちが、浅草寺奥山で、秩父歌舞伎の公演をする。
毎年恒例の上演で、去年も観劇した。
 
浅草に来るのは久し振りである。
浅草寺近くにある、公営地下駐車場へ車を停め、浅草寺へ向かう。
ほどなくして、雷門の前のスクランブル交差点に到着した。
 
雷門前は観光客で溢れていた。
雷門前にたつと、門の前で大勢の外国人観光客が、記念撮影をしていた。
大門を潜り仲見世に入ると、狭い参道を観光客が、連なるように進んでゆく。
 
とにかく人の多いことと、外国人が溢れていることに驚かされた。
仲見世のお店の看板も、英語表記が散見され、浅草寺は国際色に彩られていた。

そして着物姿の若者たちの姿が見える。
 
着物姿もどこやらおかしく、観光客用のレンタル着物を、着ているせいなのか?。
日本の着物に憧れた外国人が、初めて着る着物姿のようだ。
風雷神門を潜ると、浅草寺が正面に鎮座し、昼下がりの陽光に輝いていた。
 
そして浅草寺の脇を、右手に進むと、かつて江戸時代に、見世物小屋や様々な興行で賑わった奥山に出た。
秩父子供歌舞伎の幟旗が、微風にそよぎ、浅草こども歌舞伎の垂れ幕が、舞台下に見えた。
すでに会場に、多くの見物人が集まっていた。
  
やがて主催者の挨拶が終わると、開演を知らせる、柝の音が響き渡る。
そして下座でベンベンと太棹三味線が鳴りだし、唄いの低い声音が流れる。
やがて能の橋掛かりのような短い花道を、裃姿の子供が登場した。
 
観客に一礼し、花道を進み舞台中央に座り、堂々と口上を述べる。
小学校3年生の少女は、最後に秩父地方の宣伝も述べ、観客たちの拍手を誘った。
そして十八番の演目、河竹黙阿弥作『白浪五人男・稲瀬川勢揃いの場』が始まった。
 
小学生高学年の子供たちが、いなせな衣装に身を包み、片手に志ら浪の墨痕鮮やかな番傘をさして、次々と登場する。
そして舞台で見えを切ると、会場に拍手が沸き起こる。
かつて、江戸時代の文化文政に、三世坂東三津五郎のもとで修業した、
初代喜熨斗屋坂東彦五郎(天保五年・1834年没)が、秩父の地に歌舞伎を伝え。
 
幕末から明治時代に全盛だった秩父歌舞伎も、太平洋戦争から終戦後まで、苦難な時代を迎えた。
だが戦後1947年に、秩父歌舞伎を愛する有志たちにより、「正和会」が結成され、秩父に歌舞伎が復活した。
それ以来、秩父夜祭の屋台歌舞伎はもちろん、地域に密着した伝統芸能の継承と発展に貢献している。
 
さらに次世代へ歌舞伎を伝え、より発展させるために、子供歌舞伎を指導し、未来へ歌舞伎の伝統を育成している。
浅草寺境内の桜の蕾も大きくなり、開花も近い奥山の舞台に、強い西日が射す穏やかな陽気。
舞台では子供たちの元気な科白が、七五調のリズムを刻みながら、境内に流れる。
 
観客には外国人も多く、初めて見る歌舞伎に、盛んに拍手を送る。
子供たちの晴れ舞台、子供たちに浅草奥山の舞台は、一生の思い出になるであろう。
歌舞伎が終わり、子供たちが順番に紹介され、マイクを持ちながら挨拶をする。
 
すこし緊張しながら語る言葉に、子供らしいあどけなさが愉しい。
そして今日一番の晴れ舞台が終わり、安堵した表情が滲む。
午後3時半に始まった歌舞伎も、午後4過ぎに終わった。

浅草寺境内には、たくさんの観光客が溢れ、拝殿にも参拝者が列をなしていた。
拝殿の階段を上り、お賽銭箱にお賽銭を添え、手を合わせた。
拝殿から遠く山門を眺めると、続々と観光客が押し寄せている。
 
階段を下りて参道を戻る。
強い陽光が山門を照らし、荘厳な趣を陰翳深く映し出す。
そして遥か彼方に、銀白のスカイツリーが、青空の中に、屹立していた。