三島由紀夫作「卒塔婆小町」、バルバラ、そしてジュリエット・グレコ
2015年7月24日

先日、演出家の小笠原響さんと、木山事務所「はだしのゲン」で主役のゲンを演じた、小野文子さんが来店した。
小笠原さんは10月に演出する、三島由紀夫作「卒塔婆小町」のチラシを届けてくれた。
小笠原さんとは長い付き合いで、30年近いだろう。

彼はまだ大学4年生だったと記憶する。
そして大学を卒業する年に、文学座養成所へ入所した。
その養成所の試験の前日、私の店でお酒を飲む。

そのあと帰宅し、課題の論文を書き上げ、翌日の試験に合格した。
それ以来30年近く経過しているのだが、そのエピソードは鮮明に記憶に残る。
やがて彼は清水邦夫さんの演出助手などを務め、演劇一筋に歩んできた。

去年、彼はアイルランドのベケット記念劇場へ行った。
その時、アイルランドで飲んだギネスを、小笠原さんは注文し、小野さんにキニーネを使ったジントニックを作って差し上げた。
暫くして小笠原さんが私に「マスター、小野さんはシャンソンも歌うのですよ」と教えてくれた。

私は「シャンソン歌手は、誰が好きですか?」と聞いてみた。
すると小野さんは「バルバラです」と応えた。
私もバルバラ(
Barbara1930年-1997年)が好きだ。。

私はジュリエット・グレコ(
Juliette Gréco、1927年)も好きではないですかと言うと、笑顔で頷く。
そこで私はジュリエット・グレコとマイルス・デービスのことを彼女に話すと、楽しそうに聞いてくれた。

マイルス・デービスは、23歳の時、
パリ・ジャズ・フェスチバルに参加するため、フランスにやってきた。
その時、自らもトランペットを吹く、 ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920年-1959年)は、フランス文化人とジャズミュージシャンの橋渡し役を担った。
ボリス・ヴィアンはジャンポール・サルトルやボーヴォアールたちと、「カフェ・フロール」や「ドゥ・マゴ」など、「サン・ジェルマン・デ・プレ、」のカフェの常連であった。

そこのカフェの人気者は、美貌の歌手で女優のジュリエット・グレコであり、サルトルたちカフェに集まる文化人の、アイドル的な存在であった。
そしてジュリエット・グレコと1、940年代後半に誕生したクールジャズの創始者
マイルス・デューイ・デイヴィスMiles Davis 、1926年-1991年)は知り合い恋に落ちた。
やがてマイルスは、グレコの紹介により、ルイ・マル」監督に会い、後に「死刑台のエレベーター」の音楽を担当し、即興で作曲した。

そののちマイルスは、アルバム「Somethin’ Else」で、「Autumn Leaves」を吹き込み、、「枯葉」をJAZZの世界で一挙に有名にした。
「枯葉」はマルセル・カルネ(Marcel Carné)監督「夜の門・Les Portes de la Nuit」で挿入歌として、「イヴ・モンタン(Yves Montand)により、すでに劇中で歌われていた。
そののち「ジュリエット・グレコ(Juliette Gréco)が歌い「枯葉」は有名になり、1950年代にかけシャンソン界のスタンダード曲となる。

ある年のこと、ジュリエットとマイルスはアメリカへ旅する。
そしてホテルのレストランに入り席に着いた。
するとレストランのウェーターが、露骨な差別行為をマイルスにする。
ジュリエットはマイルスは偉大なジャズトランペーターであり、アーチストであると抗議する。

時代は黒人差別が激しく、黒人に公民権はなかった。
白人のウェイターの人種的偏見は公然と続く。
ジュリエットの母親は、フランスレジスタンスの闘士でもある。

その血を引くジュリエット・グレコも、自由と正義と差別には、敢然と対峙する情熱の人であった。
ジュリエットとマイルスは、黒人差別に敢然と立ち向かい、怒りの態度を示して店を立ち去る。
フランスのシャンソンは、人間の愛や悲しみや喜びを表現しているように思われているが、
社会正義や戦争など、社会へのプロテストを、歌い上げているものが非常に多い。