新緑の忍野八海から、富士山本宮浅間大社への旅 2015年5月10日-11日 早暁の陽光に照らされ神々しい。 何時みても富士山には、威厳と崇高が漂う。 あれだけ巨大な山が、見え隠れするのも楽しい。 早朝の7時40分頃、河口湖インターで高速を降り、第一の目的地、御坂にある天下茶屋へ向かった。 爽やかに芳しい清涼な空気が、旅するものを心地よく癒してくれる。 対向車もなく、山間の道にエンジン音が響いている。 この道をかつて文豪井伏鱒二や太宰治が歩いた。 太宰治は1938年9月に、師と仰ぐ井伏鱒二を訪ね、御坂峠の頂上にある、土産物屋兼旅館の天下茶屋に逗留した。 その時の作品が『富岳百景』であり、天下茶屋の娘との交友が、ユーモラスに描かれている。 その舞台となった天下茶屋を訪れ、太宰治が風呂屋の富士山と酷評した富士山を見たいと思いやってきた。 まだ天下茶屋は木戸に閉ざされ、静かな佇まいを見せていた。 茶屋の前には濃桃色の八重桜が咲き、降り注ぐ朝日に照り輝いていた。 入り口で中高年の人たちが、登山前のウォーミングアップをしていた。 遠く彼方を眺めると、河口湖にかかる大橋が見え、湖を抱きかかえるように、富士山の眺望が広がる。 あまりにも納まり過ぎて凡庸である。 だがその在り来たりで変哲のない景色に、心納まる懐かしさを覚える。 そして1階の玄関も開き、茶屋は開店した。 玄関の高い軒を見上げると、大きな蜂の巣がぶら下がっていた。 名物の芋の揚げ物とおでんを頂きながら、お店の女性と話す。 女性は女将ではなく、女将は時たま茶屋に顔を出すようである。 茶屋の中には私たち以外に、他のお客はいず、昭和が匂い漂う店内は、静謐な趣を湛えていた。 木の匂いと嵌めガラスのコントラストが、懐かしい昭和の風情を醸していた。 2階への許可をもらい、黒光りする階段を上がり、廊下奥の座敷へ向かう。 この座敷に井伏鱒二と太宰治が、投宿していたと思うと感慨深い。 井伏鱒二が帰京した後、残された太宰がこの窓から、富士吉田からやってきたお女郎さんたちを、見下ろした部屋である。 頂上付近の冠雪が眩く光り、端正に威厳を放射していた。 ガラス窓の向こうには、若緑が光に満ち、生命を賛歌しているようである。 下りの道も車とすれ違うことなく、のんびりと山間のドライブを愉しむ。 やがて忍野八海の標識が見えた。 県道717号を進みしばらくすると、第2の目的地の忍野八海へ到着した。 さすがに人気のある観光地は、人で溢れていた。 前回も停めた無料駐車場へ車を置き、忍野八海を散策する。 池は光に満ち、大きく成長した鱒が悠然と泳ぐ。 黄金の鱒が底に揺れる水草の緑の中を泳ぎ、射し込む陽光に眩いほどにく輝く。 池畔から湧水が流れ落ち、水紋を響かせていた。 水深4メートルの丸い涌池は、エメラルド色に輝き、無数の鱒たちが優雅に泳いでいた。 そして優雅に踊る鱒たちの姿が、優雅な音楽を奏でている。 日は高く上り清澄な空気があたりに匂う。 春になり富士山に積もった雪は地中に溶け、地下水脈となり20年の時を経て忍野八海へ注ぐ。 その明澄な水が、すべての生物の命を育んでいる。 正午過ぎの陽光はさらに輝きを増し、肌にうっすらと汗が滲む。 池畔の水車が優雅な音をたてながら粉を挽く。 光と水と魚が織りなす交響曲は、雅に奏でられている。 その神秘的な響きは、人々の心に染み入る。 渡り来る爽やかな風をかぎながら、富士山を眺め一休みをした。 茶屋から出ると陽光は眩しく、さらに観光客で溢れていた。 団体客が多く、中国語の会話が声高に響く。 忍野八海の見物客の7割方は、中国人と思われるほどである。 燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、20分ほど進むと、山中湖が陽光に輝いていた。 湖畔の若緑も鮮やかな木々が、湖から吹き渡る風に揺れている。 ボート乗り場に、ユーモラスな白鳥の形をしたボートが係留され、乗る人を待つ。 水辺には白鳥たちが、優雅に漣を楽しんでいた。 すでに陽光は微かに傾きはじめる。 早朝からの長い旅を終わりにし、ホテルへ向かうことにした。 ほどなくしてホテルへ到着すると、すぐにチェックインすることができた。 だが薄靄が広がり、雲海の中、僅かに威容を垣間見るだけであった。 裾野には山中湖が揚々と広がり、傾く日差しに湖面を銀鱗に変えていた。 すると荘厳な冨士山が、朝焼けに燃えていた。 その姿は神々しく圧倒である。 山頂に頂く残雪は朝日を浴び銀嶺となり、光の変化で赤富士の威容をさらす。 神秘的にして霊力に満ちている。 さらに富士山の裾野に目を移すと、彼方に雪を残す南アルプスの山々が、蜃気楼のように輝いていた。 晴天の早朝は輝きに満ち溢れていた。 青葉茂れる街道を進み、山中湖畔を経て、冨士山の五合目へ向かった。 眩い若葉に包まれた街道を進むと、正面に冨士山が顔を出す。 すると若緑に萌える木々の間に、八重桜が薄紅に咲き匂う。 山梨県は今が八重桜の盛りなのであろう。 清涼な空気が漲る街道に、陽光は降り注ぎ、木々の緑を鮮やかに映し出す。 冨士山は眼前に大きく迫り威容を増す。 正面に冨士山が堂々と、荘厳な姿で迎えてくれた。 進むに従い若緑の木々は消え、木々の幹は細くなり、裸の梢が自然の厳しさを晒している。 やがて木々の森林限界に近づき、樹木は細り低木になる。 やがて冨士山五合目に到着した。 見上げると冨士山の山頂が見え、目を山肌の下方に移すと、そこに大きな瘤が見える。 それは富士山の最期の大噴火・宝永噴火(1707年-宝永4年)の時に出来た瘤で、荒々しい威容で圧倒する。 その下に色褪せた名残の残雪が、陽光に反射していた。 その中に小さい米粒ほどの人が3人、雪遊びをしている。 下りの道を軽快に走るに従い、荒涼とした景色は、若緑の春へ移行し始める。 やはり春には青葉若葉がよく似合う。 そして1時間ほどで富士宮市街へ到着した。 そこから程なくして、日蓮正宗総本山大石寺へ辿り着いた。 1717年(享保2)年に建立された三門は、荘厳に満ちている。 三門をくぐると、まっすぐな石畳が伸びる。 この地に総本山が誕生したことの意味を納得する。 綺麗に化粧された純白の石畳に人影はなく、あたりは深閑としている。 富士山の里はどこも清流にあふれ、豊かな水量が森羅万象の滓を流し、清めているのであろう。 石畳の両脇に中央塔中坊が、12ヶ坊建ち並ぶ。 どの宿坊の門は開け放たれ開放的である。 門前は木々の緑が溢れ、静謐さを湛えている。 手入れの行き届いた日本庭園に、小さな池があり、その奥に富士山が鎮座している。 池畔には初夏の到来を告げる、菖蒲の花が紫色に咲いていた。 左右の鐘楼と鼓楼に抱かれた参道を進み、御影堂で手を合わせ瞑目する。 境内には薄紅と白いツツジの大ぶりな花が咲き匂う。 さらに御影堂の奥へ歩を進めると、灰白色に輝く荘厳な建物が控え、右手には雄大な富士山が尊厳を讃えている。 人気なくあたりは静寂に包まれていた。 するとまた時折ツツジの花が匂い咲く。 さらに散策すると大きな趣のある、木造の客殿が控えていた。 振り返ると先ほど潜った山門が、若葉に包まれ、青銅の屋根が垣間見られた。 さらに進み道路に出ると、その先に車を停めた駐車場が見えた。 国道139号線を富士宮へ進み、約1時間で目的地に到着した。 さすがに全国1300余社ある、浅間神社の総本宮のお膝元は、商家が立ち並び賑わいを見せていた。 大きな石鳥居をくぐり参道を進むと、朱色も鮮やかな拝殿が見える。 さらに行くと橋が渡され、左手の池に錦鯉が優雅に泳いでいた。 拝殿前の境内に、木々の影が長く刻まれていた。 そして神社と由縁を深くする、湧く玉池へ行く。 池には滾々と水が湧き踊り、流れゆく清流が昼下がりの陽光に輝く。 小さな池の水面は、鏡のように穏やかで、新緑の緑を映している。 国の特別天然記念物に指定される湧水は、神田川の源流となり、豊かな清流となり流れ下る。 水辺には修験者の禊の場所が造られ、そこで修験者は身体を清め、六根清浄を唱え、聖なる富士山を登る。 遠く眺めると先ほど明瞭に遠望できた富士山が、霧雲に霞む。 そして2日間の忍野八海・大石寺・富士宮浅間大社への旅は終わった。 |