最後尾4年の縁
2015年3月12日

1824年はジョージ・スミスが所有する、グレンリベット蒸溜所、が国家公認の蒸留所になった年です。
それ以来、正式な酒製造業者ライセンス持つ、グレンリベット蒸留所は、堂々と製造販売に乗り出す。
だがスコットランドにおいては、依然として密造酒が製造されていた。

密造酒製造者たちは、不利な立場に立たされ、ジョージ・スミスに反感を持つ。
ジョージ・スミスは身の危険を感じ、絶えず護身用の拳銃を、肌も離さず持ち歩いたという。
なぜ密造が横行したのか?

それは1707年に遡る。
その年に連合法(Acts of Union)が成立し、スコットランド王国はイングランド王国に併合され、グレートブリテン王国が建国された。
その時以来、連合王国はスコットランドで製造されるウイスキーに増税をかけた。
それに反発する人々は増税を避け、渓谷の奥地へ逃げ込み、密造酒を盛んに造った。

その結果、偶然に発見されたのが、使い捨てられたたシェリー樽に、熟成することであった。
夜陰にまみれ僅かに市場へ売りだされたウイスキー以外は、深い渓谷の湿潤な気候の中に眠る。
そして長い眠りから覚めたウイスキーは、馥郁とした香りを湛え、琥珀色の宝石の輝きに満ちていた。

その1824年の100年後の1924年(大正13年)、寿屋(現在のサントリー)が、
大阪の北に位置する山崎の地で
日本初となるウイスキーの蒸留を始めた。
英国からウイスキーの製造技術を学び、日本へ帰国した竹鶴政孝を、寿屋の創業者・鳥井信治郎が招聘したのである。
そして1929年に日本初のウイスキー白札を発売した。

残念ながら白札は煙くさく敬遠され、販売は惨憺たる有様であった。
それから10年後の1934年(昭和9年)、竹鶴政孝は寿屋と袂を分かち、ウイスキー造りの理想郷、
北海道の余市に、大日本果汁
(現在のニッカウヰスキー(鰍設立し、ウイスキー製造へ船出した。
だが道のりは悪戦苦闘の連続で、何度も経営危機に瀕した。

1934年から50年後の1964年は、東京オリンピックの開催された年である。
それから20年後の1984年に、私の店・ShotBarピーポッポが創立した。
最後尾の4年の不思議な縁!

そんなことをお客様と話していたら、
「マスター、私たち3人も、1974年生まれです!」
その時、数字の偶然に不思議を感じた。