劇団東演146回公演 宮本研作「明治の柩」観劇記
2015年11月29日


時節は三の酉の29(日)日、新宿にある紀伊国屋ホールへ、宮本研作「明治の柩」を観に出かけた。
この作品を観劇するのは、45年ぶりになるであろうか。
学生時代、劇団東演の年間教室に通っていた時である。

その頃、劇団東演は京王線の代田橋にあり、木造平屋建ての、隙間風が吹き込むような建物であった。
思い起こせは、3億円事件の起こった時期でもあった。
劇団東演の前身、東京演劇ゼミナールが、1959年に発足され、1962年に劇団東演になって、まだ日が浅い時期である。

演出家・八田元夫氏(1903年-1976年)と、演出家
・下村正夫(1913年-1977年)の両演出家を中心に、精力的な活動をしていた。
劇団東演の年間教室に通う若者たちに、スタニスラフスキーシステムのイロハを、直接指導していた。
そして劇団は演劇における、社会主義リアリズムの根幹となる、システムの実践により、リアリズムの本質を表現していた。

それは近代演劇の積極的な発掘と究明であり、時代に即した創作劇の創造であった。
さらに日本の演劇における、広い観客層の醸成と、労働者によるサークル演劇の育成に情熱を傾けていた。
さて開演時間の午後1時半が近づき、劇場内のざわめきも収まるころ、劇場の明かりが落ちる。

すると闇の中に轟音が轟き、舞台に照明が落ちる。
明治32年のこと、押出し(請願陳情)のために、1万人の百姓が東京へ向かおうとしていた。
手に手に蓆旗を持ち、笠を被り蓑に身を包み、草鞋履きで決起しようとしていた。

それを押しとどめ、国会の政権党となった党が、責任を持って公害を阻止すると、旗中正造が語気も鋭く演説している。
だが政権はほどなくして瓦解した。
野党となった旗中正造は、帝国憲法のもと、国会での戦いを諦め、議員を辞職する。

だが事態はますます悪化し、深刻な事態となる。
明治政府は富国強兵の御旗のもと、足尾銅山に大増産を敢行させた。
さらに鉱山の坑道に必要な、坑木を切り出すために、鉱山を覆う山々の、山林伐採を重ねた。

そのため洪水が頻発し、渡良瀬川流域の村々は、精錬のために垂れ流される、鉱毒の犠牲を強いられた。
追い詰められた農民たちは、まさに明治政府へ狼煙を上げ、決死行の寸前であった。
旗中正造は決意した。

そして帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇へ、足尾鉱毒事件の詳細をしたためた訴状を持ち、直訴を決行した。
直訴は警備の警官に組み敷かれ失敗したが、東京市は騒然となり、号外も撒かれた。
その結果、足尾銅山の公害の悲惨さが、全国に知れ渡ることとなった。

ここで舞台は15分間の休憩となった。
約2時間の舞台は緊張感に溢れ、繰り出される科白は迫力に満ちていた。
1962年に書かれた、革命伝説4部作の第1作は、まさに政治の季節を象徴する。

そして休憩が終わり、後半へ舞台は移った。
直訴して脚光を浴びたことで、全国から賛同者が援軍に駆け付けたのもつかの間。
すでに事件は巷間から忘れ去られている。

団結していた村々は、政府の懐柔策や分断工作に屈してゆく。
断固徹底抗戦の旗中正造は孤立し、同志たちや弟子たちも、谷中村を去ってゆく。
やがて谷中村は強制廃村となり、1907年((明治40年)に、政府は強圧的な土地収用法の適用を発表した。

土地収用法に逆らい、村に残れば犯罪者になることを恐れ、多くの村民は村を去った。
だが旗中正造は、権力に屈することなく、毅然と村に残り、谷中村が破壊され、強制廃村となる最後を見届けた。
旗中正造はその後も、公害闘争を続けるが、1913年(大正2年)、妻に看取られながら、寂しくこの世を去った。

旗中正造が常に首からぶら下げていた頭陀袋には、2冊の本が入っていた。
それは聖書であり、社会主義のバイブルであった。
江戸から明治の世の中になり、国は海外と伍すために、富国強兵のもと、海外へ進出する。

日本の国策企業は、巨大な富を蓄積する。
それは名もない民衆の、想像を絶する犠牲のもとに築かれた。
日本は封建制度の滓を残しながら、殖産産業を急激に発展させた。

旗中正造は人道的なキリスト教に、救いの光を見るとともに、社会主義による時代の精神の狭間で揺れ動く。
しかし日本では、どちらもいまだ未成熟で、公害問題の解決の推進力にはならない。
そして旗中正造の行動にも、古い行動の残渣が埋もれていた。

公害に苦しむ農民を組織することもできず、鉱山労働者と連帯することも拒絶した。
谷中村の最後の証人となり、村の消滅を見届け、失意と孤独の中で死の時を迎えた。
舞台に純白の柩が置かれ、照明に照らされ輝いている。

舞台の真実を見届けることで、現代と如何に通底しているかが理解できる。
人々は不正には声をあげ行動を起こす。
そして時の権力に圧殺されないように、観客は舞台の事実と現代を重ねて、検証しなければならないであろう。

やがて約3時間半のドラマは終わった。
明かりが落ちても、しばらくは沈黙が続き静寂である。
やがて何処からか拍手が、散発的に起こった。

そして拍手は共鳴するように大きくなる。
舞台に俳優が並び、主役が登場すると、さらに拍手は場内にこだました。
緊張感に溢れ濃密な舞台へ、大きな拍手が続いた。