秋好日、うららかな陽に誘われ、所沢市「多聞院」へ
(多門院は23種類・300株の牡丹が匂い咲く名所、「牡丹の寺」として親しまれている)
〒359-0002  埼玉県所沢市中富1501()
2015年11月1日


柔らかな秋の日、埼玉県所沢方面へドライブする。
すでに東京も紅葉しはじめ、関東の奥庭は、紅葉を求める観光客で、賑わい始めている。
正午過ぎの秋日を愉しみながら、川越街道から国道463を下り、県道126を行くと「多聞院」に到着した。

 
街道沿いに、看板がたちならび道路わきに駐車場があった。
車を置き参道へ行くと、石造りの狛犬が迎えてくれた。
石畳の参道を進むと、正面に本堂が建つ。
 
境内に人影はなく、静寂に包まれ、厳粛な空気が漂っている。
参道の途中、左手に大きな石造りの坐像
がある。
もがき苦しみながら、必死に何かに耐えているような形相である。
 
それは信徒の石工が、制作し奉納した、「鬼の悟り」の石像である。
昼下がりの陽光を浴びた若緑を背景に、苔むした坐像は、犯した罪を悔い改めているのであろうか。
だが表情にはユーモアが溢れ、制作した石工の心根が伝わるようである。
 
深閑とした参道をさらに進み、手水舎で口を漱ぎ手を清める。
そして参道を行くと、狛犬ならぬ精悍な狛虎が、見るものを睥睨していた。
像の制作年は慶応2年(1866年の寅年)、流麗な姿態は豹を思わせる。
 
多門院の 山号は宝塔山、寺号は吉祥寺。
本尊に大日如来で、真言宗豊山派の寺院である。
そして1766年(明和3年)建立の、江戸中期の毘沙門堂には、武田信玄の守り本尊である、金の毘沙門天王が祀られている。 
寅は毘沙門天の化身とされる。
本殿の前に立、ちお賽銭を供え、手を合わせ瞑目する。
見上げると軒下に、色褪せた朱色の唐獅子の彫り物が、誇らしげな表情を見せていた。
 
そして本殿の前に、お御籤や風車などが置かれていた。
その反対側の欄干は、黄色の愛らしい寅の置物が、数えきれないほど並べられていた。
立て看板に「身がわり寅 納め処 毘沙門さまの化身である寅に災いを託して納めます」と書いてあった。
 
群雄割拠の戦国時代、時代の覇権をかけた、熾烈な戦を駆け抜けた武田信玄。
信玄は戦勝祈願した小さな黄金の寅の像を、兜の中に納め、戦場へ出陣したと伝わる。
やがて天正10年(1582年)に武田家は滅亡し、その後川越藩主であった柳沢吉保(1658年ー1714年) のもとへ、寅の像がもたらされた。
 
そして毘沙門社の本尊として、祀られることになった。
現在も 初詣や5月1日の寅まつりに、参道や境内を埋める露店の中、大勢の人たちが参詣し、「身代わり寅」を奉納する。
さらに寅年の5月1日には、大般若経転読会(てんどくえ)」が開催される。
その時、本尊は開帳され、境内は参詣する人たちで溢れる。
 
境内を裏手に回ると、武蔵野の面影を偲ばせる雑木林が広がる。
多聞院へ繋がる回廊の彼方に陽光がふり、色づき始めた林の木々が輝いていた。
辺りは静謐な趣を湛え、降り注ぐ陽光を浴びた木々の緑と調和していた。
 
人気ない寺の境内は森厳とし、聖域の高貴さを湛えている。
その漲る空気は清澄で、大きく呼吸すると、身体の細胞が脈動する。
そして本殿の前に戻り、隣の神明社へ向かった。

多門院と神明社の境は、低い石柱で仕切られ、垣根の真ん中辺りが切られて繋がっている。
かつては同一の境内に並び建つ、神仏習合の社であったことが分かる。
徳川幕府が倒れ、明治政府の御代の1868年(明治元年)に、神仏分離令が発布され、寺社は廃仏毀釈の迫害をうけた。
 
このような形で残ったことは、奇跡に近いであろう。
江戸時代の元禄9年(1696年)、川越藩主・柳沢吉保はこの地を開拓し、三富新田として、上富・中富・下富村を開村した。
そして上富に多福寺を、中富に毘沙門社(多聞院)を建立した。

そののち、神明社を勧進し、村々の産土神として祀る。
拝殿の横には、大きなご神燈が趣を添える。
そして拝殿に、太くて大きなしめ縄が飾られ、二つの〆の子がたれ、中央に純白の紙垂が、日を浴びて眩い。

参拝を済まし石畳を歩くと、さらに石畳が右に分かれる。
見ればその先に、小さな社がある。
それは芋を祀る、芋の神様であった。

祠の前には、大きな銅製の芋をかたどった像、「なでいも」が鎮座していた。
武蔵野台地の中央に位置するこの地は、かつて干ばつにより飢饉に悩まされた。
時は享保20年(1735年)、江戸の蘭学者・儒学者である青木昆陽(1698年ー1769年))は、関東地方で初めて、サツマイモの栽培に成功した。

それを知った南永井村(現在の所沢市南永井)の名主・吉田弥右衛門(1700年-1766年)は、
寛延4年(1751年)に、この地で飢饉の時の救荒作物であった、サツマイモ栽培を始めた。
サツマイモ栽培は成功し、近在の農家は飢饉から救われ、やがては特産品に育った。
当時江戸では焼き芋が人気で、この地のサツマイモは大いに重用された。
 
それ以来このあたり一帯は、「川越いも」の名産地となり現在に至る。
名主・吉田弥右衛門が栽培してから255周年の平成18年11月23日、吉田弥右衛門の功績を称えるとともに、
サツマイモ作りの元祖で、甘藷先生と慕われた、青木昆陽を尊崇し「甘藷乃神(いものかみ)」としてお祀りしたのが、この神社である。
 
小さな祠の前の薄茶色の「なでいも」の像は、西日に鈍く輝いていた。
その鈍い光を放つ像を撫でると、様々なご利益があるそうだ。
干ばつにも負けず、不毛の地に育つサツマイモは、強い生命力の象徴でもある。
 
参拝をすまし石畳を戻ると、強い西日を受け、石畳に長く深い影を刻んでいた。
風もない秋好日、石畳の上に蜘蛛の巣が張り、大きな蜘蛛がじっと獲物を待っていた。
武蔵野の秋は、これから日一日と色づいてゆく。