劇団テアトルエコー「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」観劇記

作:別役実、演出:永井寛孝
2015年10月24日


別役作品を見るのは何十年ぶりであろうか。
当時、ウジェーヌ・イヨネスコ(Eugène Ionesco 1909年-1994年)や、
サミュエル・ベケット(Samuel Beckett 1906年-1989年)の不条理演劇が、演劇界に新風を巻き起こしている時である。

不条理演劇は古典から近代演劇のドラマツルギーを、根底的に否定している。
そこにはアンドレ・ブルトン(André Breton 1896年-1966年)達が宣言した、シュールリアリズムや、アルベール・カミュ(Albert Camus 1913年-1960年)や、
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル( Jean-Paul Charles Aymard Sartre 1905年-1980年)の実存主義と通底するものがある。

テアトルエコー劇場での開演は午後2時。
近くの駐車場に車を置き、開演前20分ころ、劇場の指定席に座る。
すでに開演を待つ観客が、座席を埋めていた。

舞台の下手に1本の太い老木が鎮座し、右手にのびる枝に、「移動式簡易宿泊所」の看板が見える。
舞台中央のテーブルに、水差しとグラスが置かれ、椅子が2客向き合って置かれている。
その後ろに、カーテンが掛る、簡易ベッドが2床見える。

劇場に流れていた曲が消え、舞台と客席の明かりが落ちる。
やがて舞台に照明が輝く。
そして病人を探す医者と看護婦が登場し、テーブルの水差しに毒を盛るなどの、悪だくみを披瀝するが実行はしない。

そこへ死にかけた人間を求める牧師が登場する。
生きるために医者は病人が必要であり、牧師は死の淵をさまよう人間が、生きる糧になる。
そこへ食材料を大量に買い込んだ宿泊所の主人と、「埴生の宿」を歌いながら、宿泊所の娘が登場する。

するとその娘の歌に魅せられたように、若い従者を従えた、よぼよぼの2人の騎士が登場した。
老いさらばえた身体には、役にも立たない甲冑? に身を包み、迷彩服姿に、おんぼろ兜をかぶっている。
2人はテーブルに座り、次から次へ宿泊所の亭主が作る料理を、貪欲にたいらげる。

その食欲は旺盛で、野獣のようである。
医者と牧師は、恰好の獲物が現れたと思いきや、事態は想像に反して逆転する。
老騎士たちに看護婦は毒殺され、医者はカミソリを飲まされ、牧師は絞殺される。

なぜ殺されるのか、理由と必然はない。
「殺さないと、殺されるからね……」と老騎士はほくそ笑みながら、語る言葉は不気味である。
古代から現代まで、地球上の様々なところで、殺戮が繰り返されている。

「殺さないと殺される」の言葉は重い。
生きるために、殺すことも正義になる。
老騎士たちがとつとつと語る科白に、死と残酷な運命の恐怖が漂う。

やがて食事の材料が食べつくされたと嘆く、宿泊所の主人も殺され、娘もベッドで首を刺し貫き自害した。
そして従者も殺され、他方の従者も、巨大な風車に突っ込み自殺する。
何もなかった、何も起こらなかったかのように、平然と2人の騎士はテーブルを挟み、向かい合いながら語る。

生きることに飽きれば、人を殺すことも必要なくなる。
時は秋から冬へ動く。
宇宙の摂理は、過酷で残酷で不条理である。

混沌として摂理ない世界、人の生死とかかわりなく、季節は静かに流れる。
2人の老騎士を演じる、山下啓介さんの野性味あふるれ演技と、沖恂一郎さんの飄々とした表情に隠された、騎士の冷酷な笑顔に凄みを見る。
テアトルエコーの草創期から、今は亡き熊倉一雄氏や山田康雄氏、納谷五郎氏たちと、日本の新劇界に喜劇のジャンルを,確立してきた両氏。

長い人生の風雪の中で、演劇を追求してきた年輪が、老いた騎士と重なり、深い陰影を刻んでいる。
2人の淡々と語る科白に、永劫の宇宙と、理由のない存在の重さと、時代の狂気を垣間見る。
不条理演劇は、限りなくシュールリアリズム的であり、実存的であることを実感した。

今月急逝した熊倉一雄氏に託された、山下啓介さんの演技は、代役の重責を果たし卓抜であった。
そして日本の新劇界に、喜劇を確立した、熊倉一雄氏の功績を讃えるとともに、ご冥福をお祈りいたします。